静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2018年09月30日 | 天のマナ
「神にゆるされ、人にゆるされる幸い」    

 人は誰でも失敗や過ちをいたします。失敗や過ちをしない人はいないでしょう。問題は、失敗や過ちをしてしまうこともそうですが、その後どうするかであります。   

 小学3年生の時に、やんちゃな友達たちと冒険をするのが好きでした。ある時、近くの屋根付きの駐車場で遊んでいました。2メートルくらいのブロック塀の上を、6人くらいで列をなしてバランスをとりながら歩いていました。左に折れる角を前に、一番後ろにいた私は、先頭に行こうとして、波打つプラスチックの屋根の上をショートカットをしました。その時です。なんと私は気付いたら、屋根を突き破って下に落ちていました。ケガはありませんが、人様の駐車場の屋根に大きな穴を明けました。その時、まずいと思った私は、「逃げろ―」と声を上げ、私を含めみんなは逃げて行きました。1時間経ち、2時間経ち、3時間経ち、小さいながらも私の心は罪悪感でいっぱいでした。謝りに行こうかどうか、主の細き声とサタンのささやきの間にあり、落ちづかず平安はありません。主にゆるしを祈り、その家に謝りに行きました。その家のおばさんに片言で事情を説明し謝りました。そのおばさんは、「けがはなかったかい?大丈夫だから行っていいよ」とゆるして下さいました。罪、過ちをゆるされ、解放されることの幸いはなんと素晴らしいでしょうか。
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天のマナ

2018年09月23日 | 天のマナ
 「愛修会の恵み」

 先週の月曜日に、12名で掛川のステンドグラス美術館へ行ってまいりました。当初は、装飾系のステンドグラスかと思っておりましたが、入ってみますと、聖書の出来事をモチーフ(フランス語で主題)にした傑作品の数々でした。ダビデ王やソロモン王、受胎告知からキリストの降誕、ゲッセマネの園から十字架を負われる主イエス、復活、昇天までが表現されて、それは見事なものでした。これらはもともとはイギリスなどの聖堂にあったものでした。
 「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたはこれを心に留められるとは。人の子(ここでは人間の意)とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉の冠をかぶらせました。」(詩篇8:3~5新改訳)。主なる神の指は、やみに宇宙(地球など)という傑作を描きました。まさしく測り知れない神の知恵が溢れています。ステンドグラスの数々を見ながら、神のかたちに造られた人間は、神の知恵とみわざの一部を賜物として引き受けていると感じました。それらをもって、主の栄光をあらわすという、神に創造された人間の本来の生き方の幸いを思いました。
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天のマナ

2018年09月16日 | 天のマナ
 「神はケチではない」

 ここ10年、一年に一度くらい、私は主なる神様に愚痴をいってきました。「神様ってケチですね」と。アメリカや韓国ではリバイバルが何度も起き、救われる人々も多く、教会の数もクリスチャンの数も多いのに、なぜ日本ではそうではないのかという思いがどっかしらあったからです。教会においても個人においても必要は満たされるけれども、必要以上のものは・・・・教会の働きにおいても個人の働きにおいても、もっとあれもこれもしたいのに・・・と。その都度、「うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富もせず、ただなくてはならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、『主とはだれか』と言うことのないため、また貧しく盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです。」(箴言30:8~9)が心に浮かんできて諭されます。しかし、今回は更に教えられました。「神はケチ?、ケチな神ならば自らの独り子をあなたを救うために十字架につけますか?」と問われました。「いいえ、ケチではありません。それどころか豊かな溢れる恵みを下さっています。」と悔い改めました。神の豊かさを留めているのは神ではなく、私でした。
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天のマナ

2018年09月09日 | 天のマナ
「パラダイスとは」
 
 地上での人の生とは、「主なる神は、土のちりで人を造り、命の息(霊)をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者になった。」(創世記2:7)ことであり、地上での人の死とは、「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道の書12:7)ことであります。ゆえに、地上での死とは、土のちりである肉体が、肉体という器の内にある霊と分離し、肉体が土に帰り、霊は神のもとに帰ることです。「イエスを主(自分の救い主、自分の主)」と告白し悔い改めて救われた(罪赦され義とせられ、神の子とされ、永遠の命を与えられた)クリスチャンたちは、死後、肉体は土に帰りますが、霊は主イエスの再臨の時までパラダイスで憩います。神を信じなかった者は、陰府(よみ)に行き神の審判を待ちます。パラダイスを聖書辞典で調べてみますと、「塀で囲まれた庭や果樹園などを意味するペルシャ語のパエリダエーザに由来する語である」とあります。聖書には、三か所(ルカ23:43、Ⅱコリント12:2~4、黙示録2:7)に記載されています。言葉の意味とこれらの三か所から私自身が解釈するには、パラダイスは神の国の庭であると考えます。もちろん、メインは神の国の中心である新天新地でありますので、それを思うと心が躍ります。
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天のマナ

2018年09月02日 | 天のマナ
「そこから神のみわざがあらわれる」  
 「土の器」という賛美があります。その一部の歌詞は、「土の器 欠けだらけの私 その欠けからあなた(神)の光がこぼれ輝く 土の器 ヒビだらけの私 そのヒビからあなたの愛が溢れ流れる・・・」です。私達は、「良き器になりたい、欠けのないヒビのない器になりたい」と願います。もちろん栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくわけですが。しかし、仕上がった器だけを主は用いるのではなく、ロバの子のように、仕上がり途上にあるの器をもお用いになります。時には、私たちの欠けやヒビを通して、神の光と愛がこぼれ溢れるのです。あのパウロが、肉体のとげ(目が悪い?てんかん?迫害?などと言われている)を取り除いて(癒して、離れさせて)下さいと三度主に祈り願いました。そうしたらもっと宣教に励めると。しかし、神の応えは、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」(Ⅱコリント12:9)でした。癒されること解放されることは、もちろん神のみわざですが、癒され解放されることだけが神のみわざではなく、私達が負い続ける重荷の中でも神は、星野富弘さんやレーナマリアさんのように、神のみわざをあらわすことができ、あらわしておられるのです。賛美は、「・・・こんな私でさえも、主はそのままで愛してくださる・・・」と続きます。
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