「主の聖徒たちの死」 (聖句は新改訳)
「主の聖徒たちの死は主の目に尊い。」(詩篇116:15)、「主にあって死ぬ死者は幸い」(黙示録14:13)の二つのみ言葉を先週一週間、なぜなのかと考えていました。
インマヌエル金沢教会のHPを参照させて頂きますと次のようにありました。
一つに、そこに、魂の永遠の安息があるからです。すべての労苦から解放され、休むことが出来ます。{また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。」}(黙示録14:13) 二つに、そこに復活の希望があるからです。イエスさまは、仰いました。イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」 (ヨハネ11:25) 主の聖徒の死は、新しい霊的な体によみがえる復活の希望への門なのです。 三つに、そこに、天の報いが待っているからです。パウロは言っています。「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(Ⅱテモテ4:8)主イエスは、「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』」と言われました。 (マタイ25:34)
これらの意味で、主の聖徒が召されることは、本当に尊いことであると再認識いたしました。
2010・1・29