静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2018年06月17日 | 天のマナ
「大人のクリスチャンの度量  ~行事から魂へ視点の転換~」
 
 「主の足もとにすわって。御言に聞き入っていた」(ルカ10:39)。

 この世では「何をなしたか」が問われますが、教会(クリスチャンの私達)は「主の御言に聴き主の愛を頂き、互いをどう愛したか」が問われると思います。言葉を代えますならば、教会は活動をいくつ成したかではなく、魂がキリスト者の交わりの中で、どう愛され、どう変えられ、どう成長しているかということです。教会の本質は、「イエスを告白する聖徒の交わり」ですが、その教会の実質は「主の恵みの支配」です。教会は神の恵みが支配する場で、主イエスの愛によって愛され、悔い改め、救われ、きよめられ変えられて成長していくところです。主イエスの恵みによって、罪赦され、心の傷が癒され、肉体も癒され、問題や課題が解決され、和解がなされるのです。私達大人は、「あれをしたか、これをしたか」とか言わないで、大きな器をもって主の愛によって、一人一人の魂(特に若者ら)に目を向け、彼らが成長していけるように心を配ろうではありませんか。
「しかし、無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」(ルカ10:42)
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天のマナ

2018年06月10日 | 天のマナ
 キリスト教放送局FEBC(AMラジオ1566)、「今、苦しむあなたへ:愛する人の死」(広田叔弘牧師)より要約を記載させていただきます。

「先月、伴侶を亡くしました。数か月前から体調不良を訴え、病院に受診しましたが、すぐ良くなると言われ薬の処方を受けました。しかし、良くならず再度受診、手の施しようもないほど病気は進行していて、あっという間に逝ってしまいました。あの時ちゃんと検査をし、すぐに治療していればとの医師への不満と後悔の念でいっぱいです。これから私はどうしたらよいか。神様はどうして何も言って下さらないのですか」という心の叫びです。
 広田牧師は、まず祈りの中で、「この方は痛みを抱えて、ご自分を責め、あなたに『なぜ?』と問うています。主を教えて下さい。今の現実をどう捉えたら良いのか。あなたの心はどこにあるのか。主キリストと出会わせて下さい」。続いて使徒1:12~14から十字架でイエスを亡くした母マリヤの思い語り、最後に「自分に対して赦しの眼差しをもって見る。それはキリストの愛と赦しの中に相手と自分の日々を置くこと。」「私の父は、出先で倒れ救急車で運ばれ八日目に死にました。私の思いは悔いだらけです。しかし、父の五十二才の生涯は、路傍に倒れた最期でも、そこにキリストの手があったことを信じます」。この中で信仰をもつとは、愛する者と自分の人生を、キリストの慈しみの中に置くことです」。全文は教会の掲示板にあります。
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天のマナ

2018年06月03日 | 天のマナ
  「あなたの御許にお返しいたします」

 5月28日(月)に教会の一人の姉妹が天に召され、翌日に納棺の時が自宅でもたれ、文章での報告をいただきました。その内容は、18名の集った者達が心をあわせ、姉妹の愛唱賛美を主なる神にささげ、続いて心を一つにした祈りがささげられ、姉妹の遺体が棺に納められました。牧師夫妻が不在でしたが、主の栄光があふれる納棺の時だったことがわかりました。また、その所でささげられた息子さんの信仰者の祈りの言葉を読み、アーメンと心をあわせ、主を仰ぎ見ました。その祈りです。「恵み深い天の父なる神様、御名を崇め感謝致します。母は、92歳と10ヶ月の生涯を終え、今、イエス様の備えたもう御国へ入る事が出来感謝致します。『死に至るまで忠実であれ、そうすれば、いのちの冠を与えよう』(ヨハネ黙示録2章10節)、まさにいのちの冠を頂いている事と思います。『試練を耐える忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう』(ヤコブ1章12節)。今まで母を通して頂いた神の愛に感謝を致します。又、皆様の導きの祈りと励ましを感謝致します。母のなきがらを棺に移します。そしてあなたの御許にお返しします。主の御名によってお祈り致します。」
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