静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

講壇の花

2021年10月31日 | 生花
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天のマナ

2021年10月31日 | 天のマナ
 「教会はキリストの体」
 全国の多くの教会と同じく静岡教会もコロナを経験して、ハイブリッドの礼拝形式(対面、リモート)を持っていますし、これからもそうしていくことを考えています。特にリモートでは、遠方の地にある兄姉、病院や施設にある兄姉、病で教会堂に来ることができないに兄姉が、施設や自宅からでも礼拝をささげられることができるようにと願っています。教会堂に来ることができるのにリモートでということはお勧めできません。
 それではなぜ、教会堂に集まって礼拝をささげることに重きが置かれるのでしょうか。それは、「教会はキリストの体である」からであり、それは「一体性」をあらわしています。「一体性」を実感していくには、やはりリモートでは弱く薄くで十分ではありません。共に集まり、声を一つにして賛美し信仰告白し、聖餐に与り、み言葉に聴き入ること、対面で喜びを分かち合い重荷を分かち合い祈りあうこと、共に奉仕をささげることで「キリストのある一体性」をより深く実感できるからであります。だからといって、教会に属する私たちが、教会内だけにとどまるのではありません。キリストの体は成長していきます。世(社会)に遣わされ、キリストの香りを放ち宣教に励み、さらに成長していくのです。キリストの体とされている私たち一人一人が、キリストの体の「一体性」を深く実感しながら、「成長性」をも体験してまいりましょう。
「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」(コリント一12:27)。
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天のマナ

2021年10月24日 | 天のマナ
 「コロナで変わったこと、変わらないこと」
 9月のコロナの猛威も収まりつつある10月、このまま収束することを願っていますが、なお祈りつつ警戒をしてまいりましょう。
 「コロナによって社会は変わり、コロナ以前には戻れない」という言葉をテレビ番組から時々聞きますが、コロナ以前とコロナ後で変わったことは何でしょう。また変わらないことはなんでしょうか。マスクをしたり、ある程度の距離をとったりと人との距離感の変化があげられるでしょう。また外(街)より内(家)で過ごすごとが多くなったとの過ごす場所の変化、インタネットなど利用によりコミニケーションの方法や会社勤めの方法(在宅ワークに)が変わったとも言えます。では変わらないことは、それは主のみ言葉であり、主の言葉に支えられいかされている私たちの信仰であります。今後も主が再び来られるまで、私たちの信仰が、主に対しては忠実に、隣人に対しては愛として掲げられあらわされていきますように、主によって励んでいきましょう。
「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)。
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天のマナ

2021年10月17日 | 天のマナ
 「それ(主の慈しみ、その憐れみ、主の恵み)は朝ごとに新しい。あなたの真実は尽きることがない。」(哀歌3章23節)。
 聖書は、数千年にわたり世界中で読まれているのに、空き廃れたりブームが過ぎてしまったりしません。なぜなら聖書は聖霊によって記された神の言葉であり、読む人に聖霊が働き、読む人を変え満たすからです。
 本日の聖書の箇所(ラザロの兄弟マリヤの油注ぎ)は、主イエスがマタイ26章13節で預言したように、2000年にわたり福音が伝えられた場所で語られ続けられた出来事であります。今年の3月の主日礼拝に主任牧師が語り、本日も副牧師が語ります。同じ個所からなら、同じメッセージになるかというとそうではありません。主のみ言葉は深くあふれる恵みがあります。まさしく冒頭のみ言葉です。主の恵みは、日ごと朝ごとに新しいのです。この箇所はもう知っていると先入観をもったり、何度も聞いていると自分で完結してしまったりすることがないように、今日始めて聞いたような思いで、主から新しい恵みをしっかりと受け信じたいのであります。そういう者に主は豊かな恵みを注いでくださるに違いありません。
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天のマナ

2021年10月10日 | 天のマナ
「神とつがながる恵みと喜び」
 アフリカの奥地にいるひとりの青年が、街にやってきました。彼にとっては見るものどれもが、始めて見るものばかりで驚きの連続でした。その中でも、彼が最も感心したのが、蛇口でした。彼の村では井戸に水を汲みに行かなければなりませんが、この街では、蛇口をひねると水が出てくるからでした。彼は帰るときに様々なお土産を買って帰った中に、この蛇口も入れました。彼は帰宅するとすぐに村中の人を集め、「もう井戸に水を汲みに行かなくてよい」と話し、皆の前で新品の蛇口を壁に取り付けてひねりました。しかし、何回ひねっても、一向に水はでてきませんでした。
ご存じのように、どんなに蛇口が新品で光っていても、水道管、そしてその先の水源につながっていなくては水はでてきません。この話は私たちに大切なことを教えています。私たちがどんな外側を立派に飾っても、愛の源である主なる神とつながっていなければ、
 私たちから愛は流れません。自らの愛はすぐに底を尽くからです。神と豊かにつながりましょう。
 「愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれたものであり、神を知っているからです。」(ヨハネの手紙一4章7節)
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天のマナ

2021年10月03日 | 天のマナ
 「わたしを仰ぎ見よ」     
 先日の祈祷会のメッセージ(イザヤ書45章)の最後に、イギリスの大説教家であったCHスポルジョンの救いの証しを引用させていただきました。彼は若かりし時、聖霊によって自分の罪がわかり(認罪)、神の救いを強く求めていました。その日曜日も、教会堂へ礼拝をささげに行こうとした時、猛吹雪に遭い、近くの教会に行くしかありませんでした。吹雪でその教会に牧師も来ることができず、14~15人の信徒の方々が集まっていました。見たところ、靴の仕立て屋といった風貌の1人の貧相な男が、講壇に上って説教しました。突然のことで準備もなく立った彼は、選んだ聖書のみことばを何回も何回も繰り返さずを得ませんでした。そのみ言葉は、「地の果てのすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」(イザヤ45:22)でした。 彼は、単語すら正確に発音することができず10分で話は終わってしまいましたが、そこに聖霊が働かれたのです。彼は、「みことばは、『わたしを仰ぎ見よ』と言います。ああ、多くの人は自分自身を見ています。自分自身を見ても無益なことです。あなたは決してあなた自身の中に平安を見いだすことはできません。イエス・キリストは、『わたしを見よ』と言われます。今あなたが成すべきことはキリストを見ることです。『わたしを仰ぎ見て』と書いてあります。このキリストを見上げてください。」と語りました。スポルジョンは、その聖書のみことばの中に、希望の光(救い)を見出したのです。 
 あなたはどこを、だれを見ていますか?自分に埋没せず、キリストを仰ぎ見るのです。
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