静岡ホーリネス教会グレースチャペルBlog

(日本ホーリネス教団静岡教会)

天のマナ

2018年02月25日 | 天のマナ
「得ることではなく用いること」

 祈祷会のメッセージ(列王記上のソロモンの聖書箇所)の準備中、次のような文章が目に留まりました。
「空しいとは、文字のごとく『空(から)っぽ』です。地上の富で満たされているようだが、それは空っぽです。地位や名誉を得ても、実際は空っぽであれば、それは空しいのです。人にとって大切なことは、得ることではなく、用いることであり、持つことではなく、正しく管理することです。用いる知恵、管理する知恵を神に祈り求めよう。」

 ソロモンは、神から知恵を頂き、また多くの財、物、名誉、王の地位を授かりました。そして、箴言や伝道の書を神の霊感によって記しました。伝道の書には、どんなに得ても神なしには一切は空であると語っています。主を畏れる知恵をいただき、また預かっているものを主に喜ばれるように管理し、用いさせていただきましょう。

「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12:1)
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天のマナ

2018年02月18日 | 天のマナ
「過去の踏み直し」  
  
 誰でも人生を振り返ってみると、喜びの出来事だけではなく、痛みの出来事をも思い出すのではないでしょうか。痛みの出来事を癒され慰めの出来事として捉え直し踏み直せたらどんなに幸いでしょうか。クリスチャンはそれができるのです。では、どうしたらできるのでしょうか。

 それは、その過去の痛みの出来事の場面に、そこにも共にいて下さったイエス様に目を向け、イエス様がそこで語って下さっていた言葉に耳を傾ける事です。辛い中で痛んで泣いている自分の横にイエス様が立っておられる。ラザロの墓の前で泣いていたイエス様が、この私に寄り添って共に泣いていて下さっている。ただ泣いているだけではなく、慰めに満ちた声で語っていて下さっている。決してそれはもっと頑張れという叱咤激励ではなく、また責める言葉ではなく、主イエスが福音書で痛む者らに語られた、温かく包む慰めと平安と希望の言葉である。また主は十字架の傷の跡が残る手を私の肩に置いて下さっている。しっかりと霊の目を開き霊の耳を傾けてみようではないか。過去の失敗や痛みで縛ろうとするサタンの鎖から解放され、主の恵みの中で自由に生かされていこう。

「その傷によって、あなたがたはいやされたのである」(Ⅰペテロ2:24)
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天のマナ

2018年02月11日 | 教会案内
 「転機の経験が大切」

 オリンピックが始まりました。アスリートの方々の努力は素晴らしく、その方々は尊敬に値します。しかし、彼らにもスランプや怪我の時期があったことでしょう。けれども、それを乗り越え突き抜け成熟したのです。そのスランプや怪我の時を転機としたからです。

 人間として生まれた私達は、人間らしく成長して行きます。子供の人格から大人の人格になる時には転機があります。自分の事や自分の思い、我を主張し通す事で精一杯であった子供が、周りの人の事を考えれる人になり社会に貢献できる者になります。自然といつの間にか大人になるのではありません。命ある信仰も同じであります。イエス様を救い主と信じ罪を悔い改め神の子とされ新たな命(永遠の霊の命)をいただいた私達は成長していきますが、自分の事や自分の思い、我を主張し通す子供のクリスチャンが、ある転機を迎えることによって、大人のクリスチャンになります。それが「きよめ」の経験です。主の御心に従う、主の体なる教会に仕える、主が愛された隣人を愛する者とされるのです。
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天のマナ

2018年02月04日 | 教会案内
「礼拝に集う姿」 

 ご高齢の兄姉、病名の中にあり治療のただ中にある兄姉、けがをされ回復の中にある兄姉が、主なる神を求め主なる神を礼拝するために、会堂に入られてくる姿、礼拝をささげている姿は、私達にメッセージを伝えています。どんなメッセージでしょうか。

 祈祷会で開かれ語られている列王記上では、ソロモンが最初の神殿を建て神に奉献の祈りをささげています。その内容は、神殿は立派だからではなく、神の恵みによる「わたしの名をそこに置く」(列王上8:29)という言葉によって、神は臨在されるということ、そして、この場でささげられる様々な人の様々な祈りを聞き、神が神の前に出る者達を取り扱って下さいと続きます。神殿は、神が礼拝され、神のお言葉が語られ、人々の応答の祈りがあり、神がみ言葉を人々に適応し取扱う場であります。今では、教会堂が神殿であります。さらに言うなら、教会がまさしくその場であります。主イエスを主と告白する者達の集まりである教会に、主は目を留め臨在し、主に目を向ける者達を、癒し、赦し、きよめ、成長させ成熟させてくださるのです。このことを知り経験している兄姉がその姿でこのことを語っているのです。
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