ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸にある二つの流れ

2017-12-09 20:51:35 | 水戸

那珂川と桜川
 那珂川は、関東第3の延長150kmの河川で、昔から物資や文化を運んだ大動脈だそうです。かつては鮭や鮎の漁業も盛んだったそうですが、水戸城北側の守りとなっていたそうです。桜川は、延長13kmの小河川で、徳川光圀が、桜川市にある磯部・稲村神社の桜をこの川沿いの河和田に移植して名付けたという川で、水戸城南側の守りだったそうです。桜川は、現在、吉沼町で那珂川に合流していますが、以前は、城南小学校付近で那珂川に合流していたそうです。これら二つの川は、水戸を代表する川といってよいでしょう。写真は吉沼町の桜川(手前)が那珂川へ合流する地点です。

 

水戸徳川と一橋徳川
 9代水戸藩主・徳川斉昭の長男・慶篤(よしあつ)の流れが水戸徳川家で、7男の慶喜は一橋家に養子に行き9代当主となり、さらに徳川宗家に入り、徳川幕府最後の将軍になりましたが、この二つの徳川があるようです。水戸徳川家伝来の品々は見川の徳川ミュージアムに、一橋徳川家の伝来品は茨城県立歴史館の一橋徳川家記念室に置かれています。後者は一橋徳川家12代徳川宗敬(むねよし 慶篤の孫で水戸徳川家から養子に)が寄付したものだそうです。写真は斉昭がつくった弘道館です。

 

天狗党と諸生党
 定府(じょうふ)ということで、藩主がふだん江戸にいて水戸にはいない水戸藩では、実質的に地元の藩務に携わっていた門閥派が、大きな力を持っていたようです。ところが、藩主として幕末混乱期の改革でリーダーシップをとろうとした徳川斉昭によって、門閥派以外から抜擢された下層武士を中心とした改革派(尊王攘夷派)が勢力を持つようになり、両者の軋轢が烈しくなっていったようです。天狗党という言い方は、武士としては低い地位にありながら斉昭による抜擢で活動するようになった人たちを、成り上がり者が天狗になっているということで名付けられ、諸生党は、弘道館の学生のことを諸生といい、天狗党による筑波挙兵に対してその諸生と門閥派が結びついて対抗したのでいわれたそうです。これに中間派などもあって、複雑で悲劇的な幕末混乱の時代となっていったようです。写真は双方の戦いでできた弘道館正門にある弾痕です。

 

太神楽
 水戸藩御免といわれ、東照宮祭礼には必ず加わって勢いを誇ったという水戸大神楽の流れは、江戸末期には足黒神楽に、明治になっては初代柳家正楽に引き継がれたそうです。2代正楽(寿翁)は初代の弟で、その長男・菊蔵が柳貴家正楽社中に、次男・勝蔵が柳貴家勝蔵社中になったということのようです。写真は常磐神社にある水府神楽記念碑前の狛犬下方に刻まれた2代正楽のうたです。

 

天狗納豆
 明治22年に笹沼清左衛門が納豆事業を始め、水戸納豆の名を全国的にしたそうです。それを継いだのが2代笹沼清左衛門で、それを昭和20年笹沼五郎が継承したのが、黒天狗といわれる笹沼五郎商店だそうです。初代清左衛門の次男・笹沼辰蔵が店を開き、笹沼敏衛が昭和20年に焼け跡から復興したのが白天狗といわれる天狗納豆だそうです。写真は水戸駅南のペデストリアンデッキにある水戸の納豆紀念碑です。

コメント
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