牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

愛はとりなす

2016-10-20 20:33:52 | Weblog
愛はとりなし。とりなしの祈りは愛です。
今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。モーセの愛のとりなしの祈りです。
聖書には、アブラハムとモーセとパウロの必死のとりなしの祈りが書かれています。また、イエス・キリストのとりなしの祈りがあり、その祈りは今も絶えることなく続いており、アーメンと言えば救われ、信仰生活も守られる恵みの源です。
キリスト教会の歴史の中でも、とりなしの祈りの勇者たちがあり、世界中で信仰復興が与えられています。クリスチャンは、裁くためではなく、愛の許しととりなしにために、生かされています。家庭の中で、学校や職場で、日本と世界のために、モーセのように愛と情熱のとりなしの祈りをささげる、今日もまた天国の一日です。

アブラハムは、ソドムとゴモラのために、神の前に立ちもし50名の正しい人がいるなら、45人なら、40人、30人、10名の正しい人がいるならと、肉薄して祈りました。
残念ながらソドムとゴモラには10名の義人もなく、義人ロトと二人の娘だけが救われました。

使徒パウロは、私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(ローマ9:1-3)と、自分の同族イスラエルのためにとりなしました。

内村鑑三は、I Love two J’s(私は2つのJ=Jesus&Japan=日本とイエスを愛すると、迫害を受けながら日本の救いのために邁進しました。

そして何よりも、イエス・キリストは、ゲッセマネの園で、人類の罪と汚れの毒杯を飲み、十字架の上で罪の刑罰を引き受け、いのちを捨てられました。そして3日後の朝に復活し、今も生きて人類のために執り成しの祈りを続けておられます。
しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル7:24-25)
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。(ローマ8:34-35)

イエス様は、ペテロに、「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。全てのクリスチャンが、また全人類が、十字架の救いと復活のとりなしの中にアーメンと言えば救われるのです。
だから今、だれでもアーメンと信じバプテスマを受けるなら救われます。
失望しないで、とりなしの祈りが続くように、聖霊の豊かな愛に満たされる、今日もまた天国の

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