牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

少年院や少女の家でも

2007-05-31 08:05:54 | Weblog
今年の初め頃からテレビや週刊誌、電車のポスターや新聞折込などで、日本ハムのトレイ・ヒルトン監督のにこやかな顔、「多くの試練によって、私はこの成功へと、みちびかれてきたのだ」のコメント字幕。パワー・フォー・リビングの本を無料で差し上げますとの案内が流れ続けました。

 一体何だろう?という?・・・・信仰宗教か?キリスト教の異端か? 全国に???が流れました。申し込んでみるとすばらしい聖書の教えが書かれた本で、ヒルマン監督や著名人が悩みの中から、イエス・キリストを信じて救われ、すばらしいクリスチャンとして生活していることが、幸せな顔写真とともに紹介されていました。

 無料でプレゼントとのことでたくさん贈ってもらい、毎日のように出会う方々にプレゼントし続けました。コンビニや郵便局、交番や病院でも警察官や看護師の方々が受取ってくれました。教会の階下の喫茶店や近くの古書店でもプレゼント用に置いてくれました。テレビの影響力はすごく、ああ・これ欲しかったんです!と、どこでも喜んでもらってくれました。

 特に少年鑑別所や少女の家、少年院や留置場、拘置所、刑務所に入所している方への差し入れに用いました。

 少年鑑別所の一人は少年院行き間違いなしと言われていましたが、改心が求められて公判で保護観察で出所。ひとりはまだ入所しています。少女の家では6月になれば差し入れ本の読書が許されるので、楽しみにしていると嬉しい手紙が届きました。

 少年院の少女は出所し教会にも出席しました。刑務所からはひとり出所、6月にも一人の女性が出所します。

 前のブログにも書きましたが、留置場と拘置所でイエス様を信じた女性は、パワーフォーリビングに書いてある聖書の言葉を全部筆記し、公判で執行猶予になり出所し、家族で教会の礼拝に出席しています。

 そのほかにも多くの方々が、シッカリ読みさえすればキリストの救いを正しく理解してもらえる本だと思います。

 今、日本は混乱の中にあります。ひとりでも多くの方にパワー・フォー・リビングを読んで欲しいと祈り願い続けています。

 読んでみたい方は、350-0390 鳩山郵便局私書箱10号 パワー・フォー・リビング係

 FAX.049-296-5019

 E-mail pfl@nlljapan.com

ローマ人への手紙

10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
  10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。
10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。


アシュレー!幸いな叫び!

2007-05-30 08:05:30 | Weblog
アシュレー 幸いなことよ!

リビング詩篇

1:1 悪人の入れ知恵に耳を貸したり、罪人といっしょになって神様をあざけったりしない人は、なんと幸いなことでしょう。

1:2 そうした人は、神様がお望みになることを何でも喜んで実践し、いつも、おきてのことを考えては、どうしたらもっと神様に近づけるかと思いめぐらします。

1:3 そのような人は、川の土手に植えられた木が、毎年欠かさず甘い実をつけるのに似ています。 その葉は決して枯れず、することなすこと、みな栄えます。

「アーメン。信じます。ありがとうございます。大いに祝福されました。ハレルヤ。感謝します。神の栄光のために。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」

 アシュレー!幸いだ!の叫びで毎朝を迎えましょう。

幸せとは、「何かを得る」とか「欲しいと思っていたものを手に入れる」ことではなく、「今の自分が幸せの中にいること、幸せの中に存在していること」を知ることです。

欲しい物を手に入れたいとか、今以上の何かを得たいなどと、自分以外の外に求めるものがあり、それが求められた、手に入れたということで、「幸せ」を感じるならば、人生は実に苦悩に満ちたものでしかないでしょう。

思い通りに得られるものなど、ほとんどないからです。「得えること」や「手に入れる」ことだけを考えている間は、ほんとうの「幸せ」は手に入ることはないように思います。

 幸せとは、この世で生きると言うことは、雨あられのように降ってくるありとあらゆる現象にたいして、いかに不平不満を言わないで過ごすかにかかっています。

 さらに同じ出来事に対して不平不満やグチや呟かないどころか、どうのようにしてその現象の中に、「うれしい、楽しい。幸せ」を見つけるかもその鍵です。

 また同じ現象の中で、いかに「ありがとう」と感謝することができるにかかっているのです。

 幸せの3つのかたち

1. 過去、自分に起きたことをすべて「受け入れる」こと。そのすべてが全部自分に必要だったと信じることで、そのひとつひとつすべてが感謝に変わります。

2.そのすべての過去を受け入れた延長線上にあるのが現在ですから、現在のすべてを受け入れることです。それに感謝することです。「それがなければ、現在の自分はないのだ」と思い定めることです。そうすると、すべての出来事が感謝の対象になってしまいます。それはすべて「喜び」となり、「幸せ」になり、感謝の対象に変わります。

3.そうするとほんとうの幸い、「自分の存在が感謝される」と言う喜びです。自分の存在(自分がこの世に生まれたこと)が感謝され、喜ばれるという「「幸せ」を一度味わってしまうと、至上のよろこびです。アシュレー!

詩篇1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

 自分の口から出てくることばは、「言えば言うだけもう一度それを言いたくなるような現象が起こってくる」と言うのが、聖書の法則です。心を込めなくてもいいから、「ありがとう。感謝します」をたくさん言っている人には、「ありがとう。感謝します」と言いたくなるようなことが、次から次へ起きてくることになる。

 嬉しい。楽しい。好きです。愛しています。ありがとう、感謝します。恵まれています。祝福されています。幸いです。

 次から次へと起こってくる現実に対して、どんなことがやって来ても、愚痴らない、不平不満を言わない、文句をヤ泣き言を言わない。落ち込まない。悪口や非難、中傷しない。それを笑顔で受け止めて、「あー、これが私の人生なんだね」 ありがとう、感謝しますと、笑顔で生きていく・・・・。

 その最高の力は聖書のみことばです。私は、エレミヤ29:11や詩篇103:1-5 23篇、

黙示録3:8など、その都度都度に告白することばをたくさん持っています。約束は必ず実現します。

 聖書のみことばに従って、不平不満、グチや泣き言、悪口、文句や非難、中傷などを決して言わない決断をして見ましょう。

 気分が良かろうと悪かろうと、いつもありがとう、感謝します。恵まれています。祝福されました。嬉しい!楽しい!大好きです!愛しています!満たされています!と、前向きなことばを口癖にして告白し続けましょう。

詩篇

1:1 幸いなことよ。
 悪者のはかりごとに歩まず、
 罪人の道に立たず、
 あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、
 昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、
 水路のそばに植わった木のようだ。
 時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
 その人は、何をしても栄える。

1:4 悪者は、それとは違い、
 まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、
 罪人は、正しい者のつどいに立てない。
1:6 まことに、【主】は、正しい者の道を知っておられる。
 しかし、悪者の道は滅びうせる。
 

結婚式メッセージ

2007-05-29 07:48:45 | Weblog
愛はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。Ⅰコリント13:4-7

ご結婚おめでとうございます。お子様の・・・ちゃん、おめでとう!またご両親はじめ、ご家族の皆様、ご参列の皆さま、おめでとうございます。

 キリスト教の結婚は、先ほど神と牧師の前で二人が愛を誓いました。聖書のことばにアーメン(アーメンとはほんとうです。本音の本音からです)と言う誓約をし夫婦となりました。仲良くお過ごしくださいね。おめでとうございます。

 五月晴れのさわやかなこの日、お二人の結婚式にふさわしいスタートですね。
お二人の愛と努力もよりますが、イエス・キリスト様の大きな愛と力が支えとなると信じます。 

 キリスト教の中心は、聖書に書いていることばにアーメンと言えば、その通りになるということです。アーメンとは真実、本当ですという意味ですね。
 第一に、愛してくださる神がいることを聖書は教えています。目に見ることも形として刻むこともありませんが、この世界を創造し、生きているまことの神様が、「あなたはわたしの目に高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と、語りかけているのです。あなたは愛されているのです。
 そんなにすばらしい愛なる神様がいるのに、人間は幸せから遠く離れて、罪と汚れの中にうごめいています。平安も喜びもこれがそうだと思っても、それは束の間の幸せに過ぎません。
神から離れていることを、聖書は罪と呼んでいます。
聖書は、そのためにイエス・キリストが十字架の上にいのちを捨ててくださったと宣言しています。
十字架の上に死なれたのは、私たちの罪と汚れを背負い、罪を取り除いてくださり、健康にし、祝福を与え、豊かにし、永遠の命を与え、天国に行くためでした。
墓に葬られましたが、わたしはよみがえりです、いのちですと宣言されたイエス様は、3日目に復活されました。
イエス・キリストを信じるとき、すべての罪が赦され、新しい生まれ変わりを経験し、きよく正しく、健やかに豊かに祝福されるのです。
神の子とされ、豊かな平安の人生を生き、そして天国へ行くことができるのです。

今日もキリストはあなたの心の扉をノックしています。心を開いてイエス様,私の心にお入りくださいと祈ってください。
ご家族の愛する皆さまにも、ぜひ、この結婚式の最高の引き出物として、イエス・キリストの救いを受け取ってください。私のあとについてお祈りください。

「イエス様。ありがとうございます。今、私の心にイエス様をお迎えします。今日結婚した二人が、豊かに実を結ぶ人生、子どもたちが健やかに賢く美しく成長する幸せな家族となることを心から信じます。イエス・キリストも名前によって祝福をお祈りします。アーメン」

「愛はいつまで決して絶えることはありません。いつまでも残るものは信仰、希望、愛です。その中でもっとも大いなるものは愛です」
 人間は愛がなければ生きて行くことができません。人間にとって生きることは愛することです。人の心の奥底にある願望は愛されたいということです。愛される限りにおいて、人は人間として存在している実感を持つものです。
 お二人の結婚は決して二人だけの幸せだけではありません。愛し育ててくださったお互いの両親の愛の喜びであり、愛の実りなのです。おめでとうございます。

 結婚生活は愛されることだけをお互いに求めてはいけません。愛するとき愛されるのです。要求し合う関係からは、愛も温かさも生まれてきません。要求し合うだけだと、愛は干からびてしまいまい、塩の海のようになります。

 私はあなたを愛しますということばには、二つの意味があります。一つは、「あなたが欲しい!あなたが必要だ!」という意味だけの愛です。
 もう一つは、「私はあなたを幸せにしたい!あなたのことを気遣っている!」
 最初の愛はエロースの愛、自分のために何かよいものが欲しい、「愛は惜しみなく奪う」ということばが、それを上手に表現しています。奪うもの得るものがなくなったら、サヨウナラしてしまう愛です。
 しかし、もう一つの愛はアガペの愛です。その意味するところは、相手に何かよいものを与えたい!「愛は惜しみなく与える!」のです。今日結婚した二人には、またここのお集まりの皆さまには、アガペの愛が聖霊によって満ち溢れることを心からお祈りいたします。アーメン。

 そのような愛の模範をイエス・キリストは示してくださいました。
 「人がその友のために命をすてるという、これよりも大きな愛はだれももっていません」とイエス・キリストは教えました。キリスト教は愛の宗教だとよく言われます。その理由を少しお話させてください。
 
愛はすべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
ふたりの結婚生活がその聖書のことばどおりに豊かなアガペの愛の実を結ばせることを確信します。

 ではアガペの愛をどのようにして与えるのでしょうか。
 愛は相手をあるがままで受け入れます。相手を受け入れることは、あらゆる人間関係の秘訣でもあります。お二人にとっては、これまでのお付き合いにまさってお互いを受け入れあうことになります。

 愛はまた相手をあるがままに理解します。どれくらい愛しているかを時計で計ることができると言われています。それはほんとうです。人は愛しているもの、興味のあることに時間を使います。人の心のあるところに時間もあります。明日は日曜日です。イエス様を愛するクリスチャンたちは、時間をささげて礼拝を守ります。
 愛は見つめています。愛するとき必ず愛するものを見ています。アイ・コンタクトは、愛のコンタクトです。お互いに気づきあいのある夫婦となってください。
 愛は長い耳を持っていると言われます。人間に一つの口と二つの耳があるのは、話すことの二倍、愛する者の話を聞くように、神様がしてくださったのです。
 愛はまた相手に何かを与えることを喜びとします。その最高の表現は、自分自身の心と身体を相手のために犠牲にすることです。イエス様は、「人がその友のためにいのちをすてるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」ヨ15:13と語り、十字架の上に私たちの身代わりとなってくださいました。
伝道4:9 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。
4:10 どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。
4:11 また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。
4:12 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。

 その大きな愛により私たちは救われました。聖書はそのことを夫婦の関係にも適応しています。
妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。エペソ5:22-25

そのような愛によって結ばれたお二人に申し上げます。
どうぞ、お互いの成長と祝福のために、妻は夫に従ってください。夫は妻を愛してください。それが夫婦となったものへの神のみこころです。
毎日の挨拶と微笑を絶やさないで、与え合いましょう。ゴールデンルールを実行し合うすばらしい家庭を築いてください。
すばらしいし愛と幸せがお二人を通して、世界中に広がりよう期待し、祝福をお祈りします。アーメン。

悲しみも喜びも、何でもありの牧師の日々

2007-05-28 06:46:48 | Weblog
昨日は5月最後の日曜日、ペンテコステの日(キリスト教会の誕生日)でした。4月末に留置場や拘置所で出会った方が、許されて家に帰り昨夜は3人の子どもたちと一緒に礼拝に出席しました。

 パワーフォーリビングや天の虫けらに引用してある聖書の言葉(聖句)を全部ノートに書き出し、約1ヶ月間も聖書のことばだけに触れる生活でした。神の言葉(聖書の言葉)は生きていて力があります。

 主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます(使徒16:31)の約束どおりにご家族(5名の子どもたち)が救われ、幸せになるようともに祈りました。特に18歳長女は少女の家に、中三次女は少年鑑別所にという厳しい状況ですが、手紙を書いたり本を贈ったりして救われるよう励ましています。

 今年は不思議にそのような施設にいる方々との文通や出会いが多く、15歳は少年鑑別所、19歳は少年院、67歳は刑務所から出所。来月は40歳も出所します。また刑務所にまだ数人います。ただ紹介されたとき、パワーフォーリビングや天の虫けらを差し入れ、手紙を送るだけですが返信(最近法律が変わり手紙のやり取りが易しくなった)が来て・・・・と言う感じです。出所して一度は教会へ来てくれますが、そのような方を専門にフローする伝道師や牧師も必要だと感じています。

 今日は16日に召された古藤英臣伝道師の納骨式(院内に納骨堂があるので)を10時に家族とともに行います。「伝道の書12:7 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」とあるように、彼の霊は千の風になるのではなく、天国の平安の中に憩っているので、復活の朝まで納骨をして主の御手に委ねるのです。ご家族の慰めと平安を祈りながらの式です。

 午後1時から、高田威作師と宮崎恵師の結婚式を司式します。二人とも生駒聖書学院の卒業生で息子・娘の同級生。教会が軽井沢と江田島なので、その中間点の生駒で式をとの願いがあり、披露パーティもあるので、同窓会のような和やかな式になるだろうと思います。

 難しいことや苦しいこともありますが、神のなさることはみなその時にかなって美しく、また全てのことが相働いて益となる幸いを、日々体験しつつ与えられた使命を生かされ続けています。

 五月晴れの生駒の空はどこまでも澄み切っている朝に、「アーメン。信じます。ありがとうございます。全てが祝福されました。感謝します!」と、宣言しつつ、新しい一日にスタートです。

ペテロの第一の手紙

3:1 -2妻は夫に歩調を合わせなさい。 そうすれば、今は、あなたがたが語る主のことばに耳を傾けようとしない夫であっても、その敬虔な態度に打たれて、やがては信仰を持つようになるからです。 神様を敬う生活は、どんなことばよりも影響力があります。
3:3 宝石や、ぜいたくな着物や、ヘアスタイルなどで、外見を美しく見せようと夢中になってはいけません。
3:4 むしろ、やさしく、おだやかな心の持ち主となり、いつまでも色あせのしない魅力で、内面を美しく飾りなさい。 これこそ、神様の目に価値あるものです。
3:5 このように崇高な美しさを、昔の敬虔な婦人たちは身につけていました。 心から神様を信じ、夫に歩調を合わせていたのです。
3:6 たとえばサラは、夫アブラハムを一家の主人として尊敬し、従いました。 このサラに見ならいなさい。 そうすれば、サラの信仰を受け継ぎ、正しい行ないをすることになるのです。 これで、夫のきげんを損ねる心配もなくなるでしょう。
3:7 同様に、夫も、妻を心にかけてやりなさい。 いつも妻の気持ちを察し、女が男よりも弱い者であることを意識して、いたわってやりなさい。 神様の祝福は、妻と共に受け継ぐべきものだと心得なさい。 もし妻に対する態度が誤っていれば、あなたがたの祈りは、むなしくなってしまいます。
3:8 さて、あなたがた一同に言っておきます。 お互いに家族の一員として、心から思いやりなさい。 やさしい心と、謙そんな思いで愛し合いなさい。
3:9 害を受けたからといって、仕返しをするのはやめなさい。 侮辱されたからといって、口ぎたなく、ののしり返してはいけません。 かえって、その人のために、神様の助けを祈り求めなさい。 だれに対しても親切にしなさい。 そうすれば、神様から祝福していただけます。

7度を70倍するまでのゆるし

2007-05-27 07:43:05 | Weblog
コーリー・テンブームの赦しの愛



オランダにコーリー・テンブームという世界的に有名な婦人がいました。第二次世界大戦のとき、彼女の家族はユダヤ人をかくまったと言う理由で、ドイツの収容所に入れられました。両親と妹は拷問に耐え切れず、収容所で死にましたが、彼女は九死に一生を得て国に帰ることができました。そして神学を学び、献身して世界中を周って神の愛を語るようになりました。

 神の愛を世界中で語るたびに、数多くの人々を虐待したドイツ民族が、罪責感にあえぎ苦しみ悩んでいる。そこへ行って赦しの福音を語りなさいといううながしの声を聞きました。

 彼女はかっての辛い経験からドイツにだけは行きたくありませんでした。しかし、ついに神の愛のうながしに従い、仕方なく出かけることにしました。どの国でも語るようにドイツでも、イエス・キリストが十字架で死なれたのは、すべての人の罪を背負い老い、赦すためだったことを語りました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:24)と祈られたイエス・キリストの愛を語りました。「7度を70倍するまでに赦せ」と語ったお方はそのように、自分を十字架につけた人々の赦しを祈りました。

 敗戦の中で罪責感にあえぎ、精神的にも物質的にも病んでいた人々は、この赦しのことばを聞いて、神に感謝し勇気を与えられました。救われる人が続出し、肉体の病からいやされた人々もたくさんいました。彼女が話し終えると、人々は列を成して握手を求めてきました。

 しばらくの間、次々と差し出されてくる手を握っていた彼女は、目の前に立って手を差し出している男を見て、思わずその場に立ち竦んでしまいました。心臓が止まる重いでした。その男こそ、強制収容所で彼女を裸にし、拷問した兵士だったのです。その男は何も気づいていません。みんなと同様に手を差し出して握手を求めているだけです。悪夢のような強制収用所を思い返し、手を差し伸べて握手する気持ちには到底なれませんでした。男が手を差し出している時間が、まるで何千年のように思えました。

 神の愛を語り、勇敢にキリストの十字架の赦しを語った彼女です。しかし、寛恕の家族と青春を微塵にも踏みにじったこの男をどうして赦すことができましょうか。

彼女は心の中で祈りました。「主よ。私はどうしてもこの男を赦すことができません。どうか私を助けてください」その時、イエス・キリストの御声を聞きました。「わたしがわたしを十字架に釘付け他人々を赦したことを、あなたは知っているでしょう。また語ったでしょう。早く手を差し伸べななさい」その声を聞いた彼女は、鉄の塊よりも重くなったその手を差し伸べ、その男と握手をしました。

 まさにその瞬間でした。神の愛が聖霊によって豊かに注がれました。神の愛が前進を覆い、彼女は目から涙を流し、心の底からその男を赦すことができました。彼女は自分の身体がまるで10年以上も若返ったような気持ちさえしました。



 あなたは心の中に、どうしても赦すことのできない憎しみや恨みを持っていませんか?

聖書は赦しなさい。そうすれば赦されます(ルカ6:37)と教えています。人を赦すことは決して容易なことではありません。

しかし、赦すときあなたに自由が平安が与えられます。赦すことは神様のお心です。赦すことはあなたのために必要です。また赦すことによって温かい関係をもつことができます。

神様は赦す人を赦してくださいます。赦す人の祈りを聞いてくださいます。赦された喜びとともに、赦した幸せであなたを包んでくださいます。



そのような赦しの力と愛は、イエス・キリストの十字架上の祈りからやってきます。自分を十字架に釘付け他人々を、「父よ。「彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と祈ったお方は、死人の中から復活し,アーメン。信じますとキリストを迎える人の心に住んでくださいます。同じいのち、同じ力があなたの与えられます。

赦しの愛に生きる幸せを今日体験してください。

マタイの福音書

18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
18:21 その時、ペテロが、イエスのそばに来て尋ねました。 「先生。 友達が私に罪を犯した場合、何回ぐらいまで赦してやればいいでしょうか。 七回でしょうか。」
18:22 イエスはお答えになりました。 「いや、七回を七十倍するまでです。






ペンテコステの日

2007-05-26 08:10:17 | Weblog
今朝は昨日の大雨がウソのような五月晴れが広がっています。バラが雨の風情を残しながら色とりどりにいっせいに開花しています。

 今日はVIP-amezing.comの方々が来てくれて、インターネット放送の録音をしてくれます。5月1日からインターネット放送を開始しました。インターネット礼拝は光ファイバ設置がまだなのでもう少し時間がかかりそうです。

 ラジオ放送希望の声35周年と同時にインターネット放送元年と思っていましたが、スタートしたのが1973年で来年です。インターネット放送を通してもイエス様の救いをひとりでも多くの方に伝えることができれば嬉しい限りです。

 明日はペンテコステの日。キリスト教会には大きな祝祭日が3回あります。12月のクリスマス、4月のイースター、そして今年は27日のペンテコステです。クリスマスはキリストの誕生を祝います。イースターはキリストが死んで墓に葬られ3日目に復活したことを祝います。ペンテコステはキリストの昇天した後、聖霊が祈り待ち望む弟子たちの上に来てくださり、キリスト教会が誕生した日です。

 3つの祝祭日に共通するのは誕生です。誕生には大きな喜びが伴います。キリスト教の本質は喜びの信仰です。特にペンテコステは、聖霊としてきてくださり教会とともに、信じる者とともにいてくださるすばらしいスタートの日です。聖霊に満たされるとき、最初のペンテコステの日のように異言を語り、大きな勝利と力が与えられます。

 インターネットが世界中に情報を発信する以上に、聖霊がイエス・キリストの救いと神の愛を全世界に発信しています。ペンテコステの日、十字架と復活の福音が心に届くよう祈ります。

使徒

2:1 五旬節(ペンテコステ)の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
2:17 『神は言われる。
  終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
  すると、あなたがたの息子や娘は預言し、
  青年は幻を見、
  老人は夢を見る。
2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、
  わたしの霊を注ぐ。
  すると、彼らは預言する。
2:19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、
  下は地にしるしを示す。
  それは、血と火と立ち上る煙である。
2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、
  太陽はやみとなり、月は血に変わる。

  2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

上り坂、下り坂、まさか?

2007-05-25 08:02:18 | Weblog
生駒はほとんどが阪です。聖書学院から生駒駅まで歩くと約3000歩。行くときは下り坂、帰りは上り坂でついタクシーを利用したり、迎えに来てもらったり。

 朝の散歩はできるだけ平坦な道を歩きますが、行き帰りとも阪です。先日、神学生が坂道を自転車でスイスイと登ってくるのに出会い、ビックリした顔で挨拶をすると電動自転車でした。足も電動だったらと思ったり・・・・。

 人生は平坦な道が長く続きます。もちろん上り坂もあり下り坂もあります。また「まさか」という坂もあります。なぜこんなことがと思うような出来事が起こるのが人生です。

 どんなときにもイエス様を信じ、信頼して進むことができればすばらしいですね。ヨブは一朝にして全財産と10人の子どもを失ってしまいました。聖書には、ヨブ記 1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
1:21 そして言った。
  「私は裸で母の胎から出て来た。
  また、裸で私はかしこに帰ろう。
  【主】は与え、【主】は取られる。
  【主】の御名はほむべきかな。」
1:22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。
とあります。

 また自分の身体まで悪性の腫瘍でおおわれたときのことも記録されています。

ヨブ記2:8 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。
2:9 すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
2:10 しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。

 人生のできごとを前向きに受け止め、爽やかに元気に受け止めて、主を信頼して前進したいものです。

テサロニケ人への第一の手紙

5:1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
5:3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
5:9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
5:11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
 
 

カラスといっしょの散歩???

2007-05-24 08:53:44 | Weblog
今日は神学生たちのピクニックで朝のチャペルがお休み。

 久しぶりにゆっくりとお気に入りの散歩道(竹やぶや木々の茂る細い道)を、朝露を踏みながら歩いた。頭の上をすれすれにカラスが鳴きもしないで横切る!少し先の木に止まり追い越すと、また頭すれすれに飛び先へ行く。頭が突かれるのではと何度もクビをすくめ、約2000歩もカラスと一緒の散歩。一度もカアーとも鳴かず、ヒッチコックの鳥という映画の場面(多くの鳥だが今朝は一羽だけ)を思い出す。同時に聖フランシスコは鳥と話したという伝記を思い、カラスと話すか?と祝福を祈る。

 それからずっと歩いて池のほとりまで来ると、朝付きまとっていたからスではないだろうが(まさか先回りして?)、カラスが待っていてくれカアーと鳴いて飛び去った。面白い経験をしたゆとりの一万歩のあさでした。???

ヨブ記

38:31 おまえは星を取り抑え、オリオン座やスバル座を引き止めることができるか。
38:32 四季の順序を正しく決め、牡牛座のすべての星を正しい軌道に導くことができるか。
38:33 宇宙の法則に通じ、天がどのような影響を地に及ぼすかを知っているか。
38:34 おまえの叫び声を雲にまで届かせ、そこから雨を降らすことができるか。
38:35 いなずまを呼び寄せ、意のままに雷を落とすことができるか。
38:36 直観力と本能を授けたのはだれか。
38:37 -38雲をぜんぶ数えられるほどのりこう者がいるか。 土地が乾ききって固まり、ほこりだらけになる時、だれが天の水がめを傾けることができるか。
38:39 -40子供のライオンがほら穴に伏し、またジャングルの中に寝そべって食べ物を待つ時、おまえは母親のライオンのように、獲物に忍び寄ってしとめることができるか。
38:41 からすの子がひもじさを訴えて巣の中で背伸びし、神に鳴き叫ぶ時、親がらすに餌を与えるのはだれか。


まことの神に祈る幸い

2007-05-23 07:55:04 | Weblog
 どの動物の目も上を見上げることはできないと言われています。人の目は上を仰ぐようにできています。

 苦しいときの神頼みということばもあります。日本人は敬虔の民ですから、何にでも手を合わせる方々がたくさんあります。生駒聖書学院の門柱に手を合わせて通り過ぎる人もあります。初詣やお盆は日本中が祈る人があふれます。

 聖書には祈りの約束がいっぱいあります。まことの神に本音でアーメン(本当です)と祈り時、まことの愛なる全能の神が答えてくださる喜びにあふれます。聖書の価値観に基づいた祈りを今朝からお祈りください。



神に祈る幸い

マタイ7:7-8 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

ヨハネ14:13-14 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

ヨハネ6:23-24 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。

あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

ローマ8:26-27 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

ピリピ4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

テサロニケ第一5:17-18 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。



祈りのことば



 愛する天のお父様。御名(みな)を賛美(さんび)します。

 イエス様を心にお迎えし、その十字架の救いを信じありがとうございます。イエス様の十字架によりすべての罪が赦されました。感謝します。また身体も心を健やかにされたことをありがとうございます。

 すべてののろいは十字架によって取り去られ、いまは祝福におおわれ守られていることを感謝します。

 またイエス様は貧しさを全部引き受けてくださり、豊かな心と繁栄を与えてくださいました。心からありがとうございます。

 十字架の死によって悪魔を滅ぼし、私の魂を解放してくださり、神の子として永遠の命を与えてくださいました。天国へ行く喜びを感謝します。

 私はもう何も恐れません。イエス様が死を打ち破り復活してくださり、世の終わりまでともにいてくださいます。イエス様ご自身が、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と約束してくださいました。その聖書の約束のとおりにいつでもともにいてくださいます。ありがとうございます。

 私は大いに祝福してください。アーメン。信じます。ありがとうございます。私は大いに祝福されました。ハレルヤ!感謝します。神の栄光のために。イエス様のお名前によって祈りを宣言します。アーメン。

(何をお願いしても必ず、アーメン。信じます。ありがとうございます。与えられました。ハレルヤ感謝します。と先取りのありがとうと感謝を必ずするようにしてみてください)



聖書の約束

マルコ11:22-24 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」

マタイ8:13 「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」

マルコ10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」



わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。    イザヤ43:4



バプテスマの幸せ

2007-05-22 08:00:28 | Weblog
今年歯科医院で出会った50代の主婦が、昨日の午後洗礼を受けクリスチャンとしての第一歩を踏み出しました。

 イエス様を出会った日に、「アーメン。信じます」と受け入れ、それから毎日奇跡的な恵みを受け続けました。最近大きな試練に出会があり、悩み苦しみの中で悶々とした日々でした。

 夜遅く電話があり月曜日に洗礼を受ける決心をし、昨日のバプテスマ式になりました。主はいま生きておられる 我がうちにおられる すべては主の御手にあり 明日も生きよう主がおられる 賛美の中で祈りと信仰の告白をし、水に中で幸せのバプテスマでした。

 イエス様は、「信じてバプテスマ(洗礼)受けるなら救われます。信じない者は罪に定められる」との命令を残しました。

 「アーメン。信じます」と、イエス・キリストを受け入れるとき、聖霊によりイエス様が心の中に訪れてくださいます。

 プローポーズに「ハイ」と答え、正式に結婚(入籍)することにたとえることができます。アーメンと言えば救われます。そして救われたので、信じてバプテスマを受けるのです。

 今年の11月24日で洗礼を受け、ちょうど50年になります。イエス様を信じたその日に、種子島の海岸でバプテスマを受けました。その日以来、イエス様の愛と恵みをイッパイ受け、クリスチャンとして牧師としての歩みを続けています。

 その間の事情をインターネット新聞のコラムに掲載中です。ぜひアクセスしてください。

Christian Todey コラムページ「天の虫けら」

http://www.christiantoday.co.jp/culture-news-1138.html



ローマ人への手紙

10:7 また、「キリスト様をもう一度復活させようと、死人の中を歩き回る必要もない。」
10:8 というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
10:9 なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、救いを確実なものとするからです。
10:11 聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
10:12 この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。
10:13 主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。
10:14 しかし、主を信じていなければ、どうして主に、「救ってください」と求めるでしょうか。 また、主のことを一度も聞いたことがなければ、どうして主を信じることができるでしょうか。 だれかが教えてくれなければ、どうして主のことを聞けるでしょうか。
10:15 また、だれかが遣わさなければ、どうして人々のところへ出かけて教える人が出るでしょうか。 旧約聖書に、「神との平和を宣べ伝え、良い知らせをもたらす人の足は、なんとうるわしいことか」とあるのは、まさにこのことです。 つまり、神様の良い知らせを伝える人は、なんと歓迎されることか、というのです。
10:16 しかし、この良い知らせを耳にした人がみな、喜んで受け入れたわけではありません。 預言者イザヤが、「主よ。 彼らに語った時、だれが、私のことばを信じましたか」と言っているとおりです。
10:17 しかし、信仰は、このキリスト様の良い知らせに耳を傾けることから、始まるのです。