牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

すごい救い

2017-02-08 18:11:05 | Weblog
イザヤ書52:13-53章全体=旧約聖書救い主預言中、十字架預言のクライマックスの箇所。彼=イエス・キリストのことです。
見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。―そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
ありがとうございます。イエス・キリストの十字架の犠牲により、アーメンと言うだけで救われ、義とされ健やかに豊かな祝福、永遠のいのちと天国が保証され、感謝します。今日もまた天国の豊かな愛の一日です。ハレルヤ。

生かされている恵み

2017-02-08 18:06:47 | Weblog
使徒の働き13:36-41 ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで先祖の仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。
しかし、神がよみがえらせた方=イエス・キリストは、朽ちることがありませんでした。
ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。ですから、預言者に言われているような事が、あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい。
『見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。』」
人類の歴史の中には、偉大な人物が登場し、功罪は別としても大きな影響を与え、教祖となりあがめられたり、偶像神として拝まれたり、おかしな人類の歴史です。
イエス・キリストは十字架で死に、墓に葬られましたが、3日目の朝早く復活し、今も生きている主であり、救い主です。
戒律、宗教、哲学、道徳や修養、教育、どんな快楽によっても解放されなかったすべての点について、アーメンと信じる者はただちに解放され救われます。
どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことです。アーメンと信じるとき、聖霊の助けですばらしい信仰が与えられます。
コリント人への第一の手紙2:9-12 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。

泥かぶら

2017-02-08 10:27:14 | Weblog
聖書の約束
テサロニケ人への第一の手紙5:16 いつも喜んでいなさい=Rejoice always,

泥かぶら

あるところに、ひとりのたいへん顔の醜い少女がおりました。孤児だったこともあって、村の悪童たちからさんざんいじめられます。
昔から顔の美しいきれいな人を、うりざね顔、卵に目鼻と言います。
けれども。泥かぶらは、蕪のような顔の形でした。それも白ければまだしも、洗っていない泥んこの蕪というので、泥かぶらと言われいじめられたいたのです。
いじめられても、それを黙って受け止める子ではなく、竹の棒を振りかざして襲い掛かるから、ますます顔が怒りで醜くなります。

そんな毎日でしたが、ある日、一人の旅のおじいさんが通りかかり、竹の棒を振り回している彼女に声をかけます。
お前がそんなに悔しいなら、今日から、これからおじいさんが言う三つのことを毎日守ってごらん。お前は村で一番美しい子になれるよ。いい置いて度を続けて行きます。
その三つ
いつもにっこり笑うこと。人の身になって思うこと。自分の顔を恥じないこと。

この日から泥かぶらは、村の悪童たちとの闘いではなく。自分との闘いを始めます。
石を投げつけようと思っても、その小石をポトンとおとします。そしてにっこり、とにかく怖い顔をしなくて笑顔にします。最初は引きつったような笑顔だったが笑顔を続けました。
自分をいじめていた村の一人が病気になりました。山の高い所にしか生えない薬草で、年を取って取りに行けない。
泥かぶらはいい気味だと思ったが、人のためを思うことと言われたのを思い出します。
崖をよじ登って薬草を取り、病気のおばあさんに届けて上げます。
そんなことが続くので、村に人々、子供たちも、泥かぶらが変わったよ。笑顔がよくなった。やさしくなった。
いつも間にか、泥かぶらは村の人気者になりました。
子守をたのまれたり、お使いを頼まれたり、それを笑顔でいそいそとする、そんな泥かぶらに変わっていました。
でも、村の中を流れる小川に行って顔を写してみるんです。こんなに苦労して笑顔をして、やさしくしているからきれいになったんだろうか、と顔を写して見る。けれども顔は相変わらず前と同じ。それしか映らない。
でも泥かぶらは、きれいになりたい一心で、おじいさんが言った三つのこと守り抜きます。
いつもにっこり笑うこと。人の身になって思うこと。自部の顔を恥じないこと。

村にある日、一人の人買いがきまいた。村でも器量よしで評判のこずえちゃんを、借金の方に連れて行こうとします。
その様子を見ていた泥かぶらは、人買いの男に向かって、おじさん。私を連れて行ってと言って、身代わりに連れて行かれます。
道すがら、泥かぶらはニコニコしながら、その人買いの男に、村の人たちが親切で、子供たちがどんなに可愛いかを話します。
そして人買いの男が、疲れたとか、お腹がすいたというと、水を汲んであげたり、近くの村里に行って、食べ物まで持ってきてくれる。逃げたかなと思っても、ちゃんと帰ってきて人買いの世話をする。
ある朝のこと、人買いは一枚の紙を残して、泥かぶらをおいて去っていきます。
その神には、ありがとう。仏のように美しい子よ。と書かれていました。
泥かぶらは、自分がきれいにはなれなかったけれど、美しい子と言われたことに気づいた。泥かぶらという劇のあらましです。

きれいさより、心の美しさに気づいてもいいのではと思います。
どんなに外形がきれいでも、笑顔を忘れ不機嫌になり、不平不満を口にしてしまう。そんな時は、自分勝手、自分さえよければ、家族さえよければ、と自分のことしか考えていないようです。
そして、自分の顔を恥じている。美醜の顔というより、人と比べて、どうしてこうなの、ああなのと、自分の面子を恥じている。
もうそろそろ、化粧品で美きれいになるよりも、心の化粧品で美しく輝く人生を、平安で幸せに生きたいものです。
それが、アンチエイジングの秘訣。年を取らないためにも、年を取ることは止めることはできないけれども、にっこり笑顔と、自分の顔を恥じることなく。受けるよりも与えるほうが幸いなゴールデンルール。相手の幸せを祈り実行する愛を実践の日々です。
ありがとうございます。きょうもまた天国の一日です。感謝してます。