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日刊イオ

月刊イオがおくる日刊編集後記

高校無償化、朝鮮学校への適用審査再開へ

2011-08-31 10:06:19 | (K)のブログ


 8月29日、昼前に「高校無償化」の朝鮮学校への適用審査を再開するよう、菅直人首相(今はもう前首相ですが)が文部科学大臣に指示したというニュースが飛び込んできました。
 その日はご存知の通り、民主党の党首選挙が行われる日で、菅首相にとって、首相として実質的に最後の日であったわけです。また、これは偶然でしょうが、朝鮮民主主義人民共和国のサッカー代表が6年半ぶりに日本に到着した日でもありました。
 このまま適用審査が再開されない状況が続けば、朝鮮学校生徒が国家賠償請求訴訟をおこそうと準備をしていた中での首相の指示でした。

 最後の最後になぜ菅首相が適用審査再開を指示したのか、そこにどのような力が働いていたのか、よくわかりません。また、審査再開は至極当然のこと、本来は昨年4月に他の外国人学校と同じく朝鮮学校も無償化が適用されていなければならなかったわけですが、このニュースを聞いて、とりあえず、ホッと安堵しました。


 私はこのニュースをツイッターで知ったわけですが、ツイッター上には、「ここまで適用せず差別してきた朝鮮学校に謝罪すべき」「生徒や保護者、学校関係者の受けた様々な痛みは消えることがない」というような意見が流れていました。もっともな意見だと思いましたが、私自身はこのような日本政府を「糾弾」するようなことは書くことはできませんでした。
 まだ、適用審査が再開されただけであるということもありますが、何と言うのか、「糾弾」するようなことを書くことで、何らかのところに刺激を与え、それがどんなマイナスの作用をもたらすのかわからないという心理が働いたためです。さんざん引き伸ばしにされて、臆病になっているんですね。「とりあえず良かった」という気持ちのほうが強かったということもあります。


 しばらく、ツイッター上ではこの話題のつぶやきが多く流れていました。しかし、「良かった」とい意見は少数で、先ほど書いた「遅すぎる」などの日本政府への「批判」はもっと少数。「朝鮮学校に適用するとは何事か!」という角度からの「糾弾」の意見がほとんどでした。
 ツイッター上に実際に書かれていた文章をいくつか紹介します。

 「朝鮮学校無償化とか狂ってるとしか思えん」
 「日本が大変なときに外国人の心配ですかそうですか」
 「朝鮮学校無償化・・・最期に爆弾きたわーーーしかも遡って払う・・・て、これで増税とか来たらさすがに暴れたくなる」
 「朝鮮学校無償化するまえに震災復興してくださいよ!」
 「菅総理が朝鮮学校無償化を指示されたそうですが、こんなのアリですか?信じられない・・・怒りを通り過ぎて、呆れてます。なんとかなりませんか?」
 「しかし朝鮮学校無償化とかふざけてるとしか思えんな。日本の高校無償化は金がないから打ち切るってのに朝鮮に貢ぐ金はあるってんだろ。」
 「北朝鮮情勢が改善されたわけでもなく、今でもスパイ養成校で反日教育の朝鮮学校を支援する理由はない。」
 「他の外国人学校で無償化を求めている学校(国)はない。朝鮮学校のみ無償化にするのは逆に他の国に対しての差別である。」


 このような書き込みが延々と続いています。一度ツイッターで「朝鮮学校無償化」と打ち込み検索してみてください。排外、差別、偏見、無知、事実誤認などに満ち溢れているわけですが、書いている本人たちは、まったく自分たちが正しいと思い込んでいる。そこに怖さを感じます。何か目的があっての発言というより、心底、このように思っている。
 日本学校と同じように外国人学校にも適用した「高校無償化」制度は、ある意味画期的なものでした。しかし、昨年2月の中井拉致担当大臣(当時)の発言から迷走を続け、朝鮮学校を除外したまま4月にスタートし今日に至っています。同じ外国人学校を3つのグループに分けているのも気に入りません(同胞弁護士はこれを1軍、2軍、3軍と表現しています)。

 政治的な思惑で朝鮮学校が除外され、今回また適用審査が再開するわけですが、政治的な思惑よりも、日本社会にさらに充満してきた排外的な考え方や偏見、差別意識がより根本的で深刻な問題だと思います。このような考え方をもつ人の割合が増えれば増えるほど、日本はどんどん沈没していくことでしょう。政治的な思惑で、そういうものを助長させている人たちがいるのかもしれませんが…。


 とりあえず、適用審査は再開されても、まだ適用されたわけではありません。まだまだ安心できない。いろんな方面から審査再開を反対する声や動きが出てきています。
 また、適用された場合、今年3月に卒業した2010年度の3年生にも、必ず遡って支給してもらいたいものです。(k)

チョチョン夏講習in群馬県

2011-08-30 09:23:27 | (麗)のブログ


先週の土日にかけてチョチョン夏講習へ行ってきました。
今年は群馬県みなかみ町(水上)で、バーベキューやラフティングをしたりと、なにかと普段では出来ない事を体験しました。

一日目のラフティングでは、2組にわかれインストラクターの指導のもと、川下りを体験。
ちなみに、群馬県みなかみ町に端を発する利根川は、激流がたくさんあるラフティングのメッカで、日本三大急流の一つだそうです。
私にとってはじめてのラフティング体験は「素晴らしい」の一言。(ただ、泳げないので水に落ちた時は誰よりもパニックになりました。)
みんなで心をひとつにして激流の中を下るのは本当に楽しかったです。

2日目は、月夜野びーどろパークのガラス作品を作れる体験工房で、各自、思い思いの作品を真剣に作りました。
私にとっては、こういう自分でデザインを考えて自由な発想でモノ作りをすることが非常に楽しく、一切の妥協を許さずにガラス作品を作り上げました。(笑)

今年は講習前に討論を済ませていたので、思いっきり羽を伸ばせた時間となりました。

写真はその時のみんなの作品です。(麗)

音楽舞踊劇 チェジュパラをみて

2011-08-29 10:10:18 | (里)のブログ
昨日、「チェジュ★パラ」という音楽舞踊劇を観にいきました。
故郷の済州島が恋しくて、死後も故郷に帰りたいと願う1世の祖母と、
東京・荒川の三河島で生まれ済州島を知らない孫娘が、故郷探しをするというストーリー。
「ハルマニン(おばあちゃん)」の霊と、生きている孫娘の珍道中がなんともユニークでした。

会場となったのは、東京朝鮮第1初中級学校の近くにある、サンパール荒川。
サンパール荒川といえばそれこそ、東京第1の学校行事(卒業式や学芸会など)はじめ、
昔から荒川の同胞たちに親しまれてきた馴染みの場所です。
「チェジュパラ」の開催にはもってこいの場所だと思いました。

劇中、済州島のサトゥリ(訛り)が台詞として登場した時は、
会場がざわついていました。笑
済州島の言葉はご存知の方はいると思いますが本当に独特で、
かつてその言葉の飛び交う環境の中で育った同胞にとっては懐かしくてたまらないものというか、
強い同郷意識を生み出す大切なものだったんだと思います。
昨日は荒川の同胞たちがたくさん訪れていたことから、
久々に済州島訛りにふれた人も多かったのではないでしょうか。
私も、訛りが出た途端に劇がもっと身近に感じられました(ちなみに私の祖父や祖母の故郷も済州島ですので)。

劇で、済州島の海や菜の花畑の光景が舞踊で表現されていてとっても綺麗でした。
登場する済州島出身のおばあちゃんのように、
私にとってもそれらの景色がなつかしいものになれば素敵だな…と思い、
むしょうに済州島に行きたくなりました。
日本で生まれ育ち、普段は正直済州島のことを考える機会なんてありませんでしたが、
劇を見て、私にとって済州島はどういう場所なのかな、と自問していました。
主人公の女の子が「(済州島に)初めて来たはずなのに、なつかしい気持ちになる!!」と話していましたが、
まさに自分もそんな体験をしたいな、いやしなければ…と考えさせられました。
祖父や祖母たちが大切にしていたものなら、きっと私にとっても特別なものに違いないと、そこだけは確信できるからです。

劇を見たある在日2世の70代の女性は、
済州島出身のオモニが話していた済州島の訛りを思い出したと言っていました。
聞くとその言葉とは、病床にあったオモニが自分に最後に残した言葉だったらしく、
生涯忘れられない済州サトゥリとなったと、涙ながらに話してくれました。
私も気づけばぽろぽろと涙をこぼしていました。話が聞けてよかったです…。


忘れてはならない済州島の記憶を呼び起こしてくれたチェジュパラ公演に、感謝②です!
最後に、今でも在日は「コヒャン(故郷)どこ?」という会話をしますが、
これは本当にずっと残していきたい文化だと思います。
何代先になっても、自分のルーツは朝鮮半島にあるんだと感じられる。これはとてもロマンチック(?)なことではないでしょうか。(里)

巨匠ガウディの生きた時代

2011-08-27 09:00:00 | (淑)のブログ


 ガウディ伝「時代の意志」を読む(田澤耕著・中公新書)という本を読んでいます。
 バルセロナのサグラダ・ファミリアをはじめとする世界建築史に燦然と輝く遺産を残した・・・なんて説明は不要なほど誰もが知る建築士アントニ・ガウディの伝記です。
 私事ですが世界遺産、なかでも文化遺産が好きです。いくつか本も持っていますが、本書は私の知る他の本とは視点が異なっていて、おもしろそうだったので買ってみました。
 日本はガウディに関する本がもっとも数多く出版されている国の一つだそう。この本では、それらをほぼ読みつくしたという著者が、ガウディの異才がどのように発揮されたのか、ガウディをとりまく環境―政治混乱や産業構造の変化といった19世紀末から20世紀初頭のスペインおよびカタルーニャの時代史に焦点を当てて書いています。
 第三章では「ガウディのパトロン」について書かれています。ガウディはパトロンとの出会いにより、自身の創造性を存分に発揮するチャンスを得るという幸運に恵まれました。ではパトロンたちの資金はどこからきたものなのか。彼ら振興ブルジョアジーの多くは奴隷貿易で資金を肥やしガウディの創作活動を支えたそう。それを時代を遡って詳細に解説していて、とても興味深かったです。
 まだ半分しか読んでいませんが、読み進みながら、私を魅了してやまないガウディの作品を彼の生きた時代になぞって想像し、思い焦がれ、至福の読書時間を過ごしています。
 バトリョ邸にグエル邸、ミラー邸、そして21世紀においても建設中のサグラダ・ファミリア!ガウディ亡き今、彼の新しい作品が生まれることはありません。サグラダ・ファミリアは、まるで肉体を離れて生きる彼の創作への飽くなき意志そのもの。一部でサグラダ・ファミリアの完成を惜しむ声があるのは、こんなところに理由があるのかもしれません(今これを書いているだけで若干興奮しています)。
 いつの日かバルセロナに行き、1日中ガウディの作品群を見て過ごしたいものです。

 これを読み終えた後には、マチュ・ピチュに代表されるインカ帝国の秘密に迫った本が棚に控えています。(淑)

夏休み、東北へ②被災地編

2011-08-26 11:49:32 | (相)のブログ
 

 先週の予告どおり、今回は夏休み中の東北旅行の被災地編について書きます。
 旅行初日目の15日、世界遺産・平泉(岩手)を観光した後、一ノ関から大船渡線に乗って宮城県の気仙沼に足を延ばしました。3月19日、震災発生1週間後に取材で訪れて以来、5ヵ月ぶりの訪問。今回は、被害のひどかった南気仙沼や唐桑、前回訪れた松岩や鹿折川沿いの地域ではなく、食事も兼ねて気仙沼港に行きました。JR気仙沼駅は山の方に位置しているので、まったく被害がなく、一ノ関-気仙沼間は震災後数週間で復旧。しかし、気仙沼以降の路線は陸前高田、大船渡駅などが流失してしまい、今も復旧のめどが立っていないとのこと。
 津波の直撃を受けた港でしたが、だいぶ片付いて、以前の姿を少しずつですが取り戻し始めている印象を受けました。港の商業施設も営業を再開していて、観光客も少なからずいました。私が遅い昼食をとった、食堂とお土産店が合わさった複合施設。内装、外装ともにやけにきれいだなと思いましたが、店の人に聞いてみると案の定、浸水した1階部分を突貫工事で建て直して、営業再開にこぎつけたそうです。

 

 震災直後は漁船が港の岸壁に乗り上げ、がれきがそこらじゅうに散乱するなどひどい状況だったそうですが、5ヵ月経った今は津波被害からある程度復旧していました。しかし未曾有の大災害の爪跡が簡単に消えるはずもなく、港の周辺には半壊した建物がいまだに多く残っていました。
 今回、港を見て驚いたのは、水面が異常に高いということ。満潮に近い時間だったこともありますが、海水が今にもあふれ出しそうな状態でした。実際に海水があふれ出し、地面が冠水している箇所もありました。これは、海の方に問題があるのではなく、今回の地震で地盤が大幅に沈下したからです。気仙沼に限ったことではなく、東北全土で。

 

 

 2日目は、午前中に松島を観光した後、石巻へ。松島海岸駅から矢本駅までバス、そこからJR仙石線で石巻を目指しました。
 石巻も、3月22日、青商会「焼肉塾」の炊き出しを現地で取材して以来の訪問。駅員によると、震災当日、津波は駅前にも押し寄せ、水は胸の高さまであったそうです。それから5ヵ月。津波の爪跡が生々しく残っていた駅前は、今ではかなりの程度に復旧が進んでいました。

 
 石巻は漫画家・石ノ森章太郎のゆかりの地。駅や街中には彼の作品のキャラクター像が立てられています

 炊き出しの会場となった市役所前駐車場。地面が割れ、砂埃が舞い、「世紀末」的な雰囲気が漂っていた一帯はきれいに整備され、臨時の避難所だった市役所も元通りになっていました。

 

 信号が消え、無残な姿をさらしていた市役所前の通りもきれいに。営業を再開した店がある一方で、1階部分が津波で破壊されたままの建物も所どころに残っていて、シャッターが閉まっている店舗も少なくありませんでした。
 
 

 駅からタクシーに乗り、市内の沿岸部へ。最も被害の甚大だった場所の一つだと言われている南浜、門脇町に向かいました(3月に取材した炊き出しの場にも、この地域から避難してきたという被災者が多くいました)。まずは、海沿いの町が一望できる日和山へ。山を登っていると、「山の上から見るよりも直接町に入ったほうがいい」という運転手のアドバイス。山を下って町に入ります。
 そして、眼前に広がる光景に言葉を失いました。

 

 

 車を降りてしばらく立ち止まり、絶句、そして瞑目。
 3月11日、そのとき。
 南浜、門脇町は津波と、同時に発生した火災によって壊滅的な被害をこうむりました。運転手に聞いた当時の状況。
 すべてを飲み込む大津波。建物が波にさらわれ、粉々に砕け散る。日和山のふもとでは波に流され行き場を失った車同士がぶつかり、流れ出たガソリンに引火、火の手が上がる。火災は3日間続いた。人々は日和山の上に逃げ、眼下の惨劇を見つめるしかなかった。
 そして、いま。
 かつて町があった場所。家、商店、本屋、コンビニ、ガソリンスタンド、病院が立ち並んでいたそうですが、その面影はありません。残るのは、わずかばかりの建物と土台だけ。その建物ですら、無傷なものは一つもなし。町を覆っていたがれきの多くが撤去されて、残ったのは一面の広大な空き地。生い茂る雑草が5ヵ月という時を感じさせます。元から人の住んでいなかった場所ではないか、そんな錯覚すら覚えるほどでした。

 

 その場にいたのは、自宅から物を運び出す住人、警察と消防、ボランティアか地元の人なのか、がれきを片付ける若者たち。
 がれき。かつて存在した暮らしの残骸――。市内のあちこちには撤去された大量のがれきがうず高く積み重なっています。いまだに海水が引かず、冠水している場所もあちこちに。立っているとハエが大量にたかってきて、数分と同じ場所にとどまっていられません。

 

 
 写真奥に写る壁みたいなものはがれきの山

 
 上の写真の拡大版。土手の上に積み上げられたがれきの山がどこまでも延びている

 県道240号石巻女川線を挟んで向こう側、日和山のふもとにある門脇小学校。火事で真っ黒になった校舎が被害の凄惨さを物語っています。

 

 震災当日、子どもたちは、校庭に避難していた住民たちとともに日和山に避難。津波は学校まで押し寄せ、火の手は同校にも燃え移ったそうです。門脇小学校の近くにある日和幼稚園の園児を乗せた送迎バスが山に通じる坂の上り口で津波にのまれ、乗っていた人たちが亡くなったという胸の締めつけられるような話も聞きました。
 2時間ほどの滞在でした。前述の初老のタクシー運転手も被災者で、自宅は全壊。仮設住宅にはいまだ入れず、現在も避難所暮らしを続けているそうです。
 帰り際、日和山の上から見た石巻の海はあの日の津波がうそのように静かで穏やかでした。

 当初、両親から東北への家族旅行の話を聞いて、複雑な気持ちになりました。「被災地を見る」と言われたとき、被災地は見世物ではない、物見遊山なんてとんでもないと否定的に思ったのも確かです。被災地の現状は依然厳しく、復旧、復興に関しても複雑な要素が絡み合って、安易な楽観論などおくびにも出せない、そんな圧倒的な現実を目の前にして、私などただ数回被災地を訪れただけの人間は立ちすくむしかありません。でも今回、被災地を含めて東北地方に足を運んでよかったと思っています。実際に自分の目で見ないとわからないこともある。限られた時間、限られた場所であっても。

 
 被災地に立つ2本の松の木。津波にも流されずに残っていました

 

 今後もさまざまな機会を借りて東北、そして被災地を訪れたいと思います。(相)

真夏の夜のライブ

2011-08-25 09:32:51 | (愛)のブログ
夏休みも明けて、いまイオ編集部は10月号に向けて始動中です。
そんな私の夏休みは実家には少し帰っただけで、
あとは修行のような日々を過ごしていました。
編集部の方々は夏を思いっきり満喫したようで、
皆の旅行先からのツイッターを見ながら、いいな~とうらやましい限りでした。

さて、夏休みも明けた先週日曜日、都内某所で行われたライブに行ってきました。
もともとプライベートでも行こうと思っていたもので、
突如取材としても参加することになりました(写真担当)。

そのライブとは
Show Boat18th Anniversary
【YUTAKA ODAWARA PRODUCE NIGHT~CHAPTER6】~The Big Beautiful theory~
小田原豊さんという有名なドラマーさんが主催したライブで
東日本大震災で被災した東北ハッキョの支援も兼ねた、
チャリティーライブでした。

この小田原豊さんという方、なんとレベッカのドラマーとして在籍していたということで、
レベッカ解散後には桑田佳祐や浜田省吾、ゆず、徳永英明等のレコーディングにも参加している
すごい方なんですね。
その方が在日コリアンのコーラスグループ「アエ」のメンバーの一人とひょんなところで知り合って、
話を聞くうちに色々と興味を持ち、一緒にライブをするそうになったそうです。

今回のライブは3部構成。
1部に日本人ボーカルの宮田アキナさん、
2部にソヘグム奏者のハ・ミョンスさんとシンガーソングライターのルンヒャンさん、
そして3部にコーラスグループ「アエ」http://www.jc-koubou.jp/artist/index.html
パフォーマンスをしてくれました。

小さなライブ会場で行われたものでしたが、内容は素晴らしかったです。
宮田アキナさんがリムジン河を歌ってくれたり、
ソヘグム奏者ハ・ミョンスさんのオリジナル曲パンキル、
ルンヒャンさんの演奏と歌、そしてアエの迫力ある歌声…。

(余談ですが、ルンヒャンさんは私が朝鮮大学校時代、スターでした。
ルンヒャンさんは在学当時「손목시계(腕時計)」という遠距離恋愛のオリジナル曲を歌う歌手として有名でした。
その歌を聞きながら何人の在学生が涙を流したことか…。
いつかの機会にまた聞きたい)

取材だったのでお酒は飲めませんでしたが、
歌も曲も、お酒片手に夏の夜にじっくり聞きたい、本当に素晴らしいライブでした。
詳しくはイオの記事にでると思うので、ここではあえて書きません。

今回の取材はやはり写真が難しかった。
ライブを撮る機会はなかなかないので、いい経験になりましたが、腕不足を実感しました。
はあ、鍛練します。

とりあえず、
ライブっていいな。歌っていいな。そして、やっぱりウリ曲と歌もいいな。
生で聞くとなおさらです。
またそんな機会があれば積極的に足を運びたいです。
皆様も、来年はぜひ、このライブにもどうぞ。とってもいいですよ~!(愛)


ピカピカミレキャンプ

2011-08-24 09:00:00 | (K)のブログ
23日から広島の福山でピカピカミレキャンプという同胞の子どもたちのイベントが開かれています。私も取材で参加しています。

ピカピカミレキャンプは、山口を除く中四国地方の若い世代の同胞たちが企画したもので、今年で2回目。中四国地方の各県から子どもたち80数人が参加しました。

初日のメインイベントは、運動会。ゲーム大会のようなものですが、これはガチのイベントで、初対面で緊張していた子どもたちも一気に打ち解けていました。

意外に好評だったのは、バスケットのフリースロー。各班の代表のシュートが入ったり外れたりするたびに、悲鳴のような歓声があがっていました。既に班の団結ができていました。



中四国(山口以外)には朝鮮学校が広島、岡山、愛媛に三つあります。しかし、朝鮮高級学校は広島にしかなく、愛媛、岡山の子どもたちも高級学校は広島に通います。また、このキャンプには日本学校に通う子どもたちも多く参加しています。主催者の方が言っていたことで印象的だったのは、ここに参加した子どもたちがキャンプ期間に絆を深め、みんなが広島の朝鮮高校でまた出会えたらうれしいという言葉でした。

このブログは、初日の夜、キャンプの定番イベントである肝だめしの最中に書いています。泣き声も聞こえてきます。

キャンプは25日まで続きます。(K)



モノを捨てる

2011-08-23 09:17:43 | (麗)のブログ
「断捨離(だんしゃり)」という言葉をご存知でしょうか。

断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる

☆ヨガの「断行」、「捨行」、「離行」という考え方を応用して、
人生や生活に不要なモノを断つ、また捨てることで「モノ」への執着から解放され
身軽で快適な人生を手に入れようという考え。
…だそうです。


休日に家でゴロゴロしていたら突然「いらないモノを捨てよう」という衝動に駆られ
服などを大量に捨てる作業が始まりました。

過去に愛着があったものも「捨てる」と決心すれば意外とあっさりと捨てられるものですが、
どんなにくだらないものでもそれらには自分なりの歴史がありました。
少しばかり悲しいですが、思い入れの強かったものはその記憶も加えつつゴミ袋へ。


不思議と「アレもしよう、コレもしよう」という気持ちになり、いつもの倍、行動力が増します。(笑)
終わった後は部屋も片付き、清々しい気持ちになって一石二鳥。


「これが断捨離か…」


無心でやると、尚良いです。(麗)

2011、夏

2011-08-22 09:12:51 | (里)のブログ
今年の夏休みは大学時代の友だちと「夢の国」や花火大会に行ったり、
地元の人たちとビアガーデンに行ったり、結構充実していました。
今日はその中でも、家族で行った旅行について書きたいと思います。

今年旅行に行ったのは、上高地(長野県)と飛騨高山(岐阜県)。
メインは上高地で泊まったのもそこで、飛騨高山は2日目に足をのばして行ってきました。

1日目、上高地についたのはお昼ごろ。
まずは上高地の玄関口ともいえる大正池に行きました。

大正時代に焼岳が大爆発を起こし、流れ出た土石流によって川がせき止められてできたこの大正池(ちなみに焼岳は今でも活火山です)。
昔行った時より少し水が少なくなっているような気がしないでもなかったですが、
綺麗でした!


アヒル?カモ??も優雅に泳いでいました。


子どもたちも。


池を後にしてからはいざ散策へ。
森の中はマイナスイオンがたくさんな感じで涼しいし気持ちがいい~。


途中、足をとめたくなる絶景スポットも。


お昼を食べた後はさらに奥へ奥へ。
このあたりから雨が降ってきてさらに肌寒いくらいの天気に。
山の天気は午後は崩れやすいんだそうです。


…河童橋が見えてきました!


上高地のシンボルともいえる河童橋。
吊り橋の上に人が満載でした。

「渡る?どうする?」「人多いし写真だけ撮ったら引き返そう」
…と、肝心なところで諦めの早いうちの家族。笑
まぁここまで辿り着くのに1時間以上歩いていたので少々疲れが出てきてたのでおとなしく退散しました。
帰りは雨も降っているのでバスで引き返そうと思ったのですが、バスターミナルには長蛇の列が。
なので帰りも徒歩になりました。(トホホ…)
マイカー規正がされている上高地では、バスかタクシー、徒歩しか移動手段がないのです。


その日泊まった宿は大正池のほとりにあるホテル。
部屋の窓から大正池を眺めていると、昼にはなかった「もや」が!


夕方と朝、このようなもやが現れるそうです。なんとも幻想的でした。


8月15日であったこの日、長野のテレビ局のニュースでは、松代大本営の歴史が取り上げられていました。
もちろんそこで犠牲となった朝鮮人のことも。
後で知った話ですが、上高地に来る時に通った「釜トンネル」の工事にも、多くの朝鮮人が動員され命を落としたといいます。
「こんなところにも朝鮮人の足跡があったのか」と、なんともいえない気持ちになりました。




2日目、上高地を後にしてから飛騨高山に行きました。
山あいの道を1時間ほど進むと、高山の街にたどりつきました。
飛騨といえば、合掌造りの昔ながらの家屋が有名。
そこで私たちは、「飛騨の里」という博物館的な場所に行きました。
(恥ずかしながら、行く直前まで私は、てっきり「白川郷」に行くものだと勘違いしていて、
かなりガッカリしたのですが、ここもそれなりに雰囲気を満喫できました)

大きな合掌造りの家。
1階は居住空間で、上階(屋根の内側の部分)は養蚕に利用されていたそうです。
また急勾配の大きな屋根は、積雪に耐えるのにも適していたそうです。

次来る時は、雪化粧した家を見てみたいものです。

次に訪れたのは飛騨牛を堪能できるお店。
飛騨牛を楽しむためのメニューは、すき焼きや「朴葉(ほおば)焼き」といろいろあるのですが、
やっぱり焼肉というパターンに。笑
ただ、タレではなく岩塩でいただきました^^


最後に、私が個人的に一番気に入ったスポット、飛騨高山の古い町並みを散策しました。
人がかなり多くてびっくり!


町屋づくりの建物や、渋い色の暖簾がかかった感じなど、すごくいいなと思いました。
すぐ近くにそびえる山を見ると、山間の町なんだなということを再確認でき、「すごいな~」と感心しました。


ところで飛騨高山に来て知ったご当地キャラ「さるぼぼ」ですが、
とある土産屋には「さるぼぼキティ」がどっしり構えていました。

…案外かわいいです。

飛騨高山の街並みは、京都の縮小版のような感じがしました。
この川も、ちょっとだけ鴨川に見えてきませんか?


川の上の橋に面白いオブジェがありました。




下のオブジェを見て父が、「ソニョシデ?」とか言っていました。
なんでか理由はおわかりですよね。笑


2日間とても涼しく、内容も盛りだくさんの良い旅でした!(里)

映画「100,000年後の安全」

2011-08-20 09:00:00 | (淑)のブログ
 皆さまお盆休みはいかが過ごされましたか?暑気払いできましたか?
 休暇明けの編集部には各地のお土産がたくさん。昨日のブログで(相)さんも書いていましたが、イオ編集部のみんなもそれぞれ非日常を満喫したみたいです。
 私はといいますと、休暇の数日前に海外旅行を思い立って友人らに持ちかけたら「急すぎるわ!」とことごとく断られ(涙)、休暇は都内でごく普通の日常を過ごしていました。
 特筆する出来事がないので、この間観た映画の紹介をしたいと思います(季節感皆無)。

 何作か観たなかで印象深かったのは、フィンランドの放射性廃棄物の最終処理施設に潜入したドキュメンタリー映画「100,000年後の安全」。
 原子力発電所は現在世界に500以上あるとされています。たとえすべての原発を止めたとしてもゴミ(放射性廃棄物)が残ります。そして放射性廃棄物の放射能レベルが生物に無害になるまでには、最低10万年を要すると考えられています。本作は、今この瞬間にも排出され蓄積される放射性廃棄物をいかに処理するのかを問いかけています。
 現在、放射性廃棄物を安全に完全に処理する方法はありません(作中にも、理論上では可能でも危険を伴うため実現は不可能との説明があります)。世界中の国々では、原子力発電所から出される大量の高レベル放射性廃棄物が暫定的な集積所に蓄えられています。
 フィンランドでは地層処分という方法が発案され、10万年の耐久性がある世界初の放射性廃棄物の地層処分場を造る「オンカロ(「隠された場所」の意)・プロジェクト」が進められています。固い岩盤を掘削し、地下500メートルに作られる地下都市のような巨大システムで、廃棄物が一定量に達すると施設は封鎖され、二度と開けられることはない、無人の地下都市で10万年間機械だけが稼動するそうです。

 しかし、かりに施設が10万年間保持されたとして、それを未来の人たちが掘り起こさないと誰が保障できるでしょうか。10万年後の未来なんて誰にも予想できません。
 映画では、この施設に対する専門家たちのさまざまな意見が飛び交います。議論の大半を占めていたのが、施設の危険性を、どのようにして未来の人々に確実に警告するのかという点でした。
 私たちが古代の歴史に思いを馳せるように、未来の人々は21世紀の遺跡や歴史的資料がオンカロに秘められていると信じ、探求するかもしれません。また、現在より未来の文明が発展しているとも限りません。戦争や自然災害などで退化している可能性もあります。そうしたら原子力の危険性、ともすれば言語すらも理解できないかもしれません。
 この施設の存在そのものを人々の記憶から抹消することが最適なのではないかと、議論は行き着きます。映画監督は「永遠に忘れることを忘れさせない」と語っていました。つまり語り継がれなくてはならないということ。そのためにはどんな手段があるというのでしょう。

 専門家たちの議論を見ながら、途方もなさと恐ろしさを感じていました。原子力発電所を稼動している限り、放射能の恐怖は10万年、20万年と果てしなく続くのかと思うと、福島第1原発事故後になされてきた原発是非の論議すら不毛に思えます。今やるべきは原発是非の議論を越え、現在ある放射性廃棄物の処理方法と、原発に変わるエネルギーについて考えることだと映画を観て改めて感じました。

 「100,000年後の安全」、渋谷アップリンクにて絶賛公開中です。(淑)


夏休み、東北へ

2011-08-19 10:46:50 | (相)のブログ
 短い夏休みも終わり、昨日から仕事再開です。
 このたび、休暇を利用して家族で東北地方を旅行してきました。両親が計画したもので、休暇の直前までイオ9月号の締め切りに追われていた私は直前まで何も知りませんでした。
 旅行するなら、東日本大震災で打撃を受けた東北地方に少しでもお金を落としたい、被災地の姿を直接自分の目で確かめたい、という希望から実現したものです。

 初日目は岩手。新幹線で一関まで行き、そこから在来線で平泉へ。今年、世界遺産に登録された遺跡群を見て回りました。
 平泉は人口8000人あまりの町ですが、平安時代末期に奥州藤原氏の本拠地となり平安京に次ぐ大都市として栄えた場所として有名。中尊寺や毛越寺など当時の繁栄を偲ぶことができる遺跡が点在しています。
 世界遺産に登録されたということもあって、小さな町に県内外から多くの観光客が詰めかけていました。

 

 

 ちなみにみなさん、「毛越寺」の読み方知っていますか。答えは、「モウツウジ」。通常、「越」という字を「ツウ」とは読みませんが、「越」は慣用音で「オツ」と読みます。「モウオツジ」が「モウツジ」になり、さらに「モウツウジ」に変化したそうです。父いわく、「常識。読めないと恥ずかしい」とのこと。すみません、知りませんでした。

 二日目は、午前中に日本三景の一つである松島へ。瑞巌寺など周辺の観光地を見て回った後、遊覧船に乗って湾内外の島巡り。美しい島々の景観を楽しむことができました。
 旅行は2泊3日。私は所用があり、2日目の途中で離脱しましたが、非日常的空間を満喫できました。たまには家族旅行もいいものですね。

 

 

 東日本大震災で甚大な被害をこうむった東北地方。岩手を今回初めて訪れました。宮城は震災直後の取材以来、5ヵ月ぶりの訪問でした。
 平泉は内陸部なので、地震自体は大きかったものの、被害はほとんどなかったとのこと。松島では地震とその直後に襲来した大津波によって、島の文化財の一部が破損するなどの被害が生じましたが、周辺地域と比較すると軽微だったそうです。
 滞在期間、観光の合間を縫って宮城の気仙沼と石巻にも足を延ばしました。がれきは片付けられ、震災直後に比べるとだいぶ落ち着いていましたが、変わり果てた町の姿に胸が締めつけられる思いでした。
 東北旅行被災地編は次回、くわしく書きたいと思います。(相)

イオ世代が同胞社会の主役に

2011-08-18 10:27:32 | (K)のブログ


 まだまだ暑い日が続きますが、月刊イオ9月号が完成しました。今月の特集は「豊かな同胞社会へ―主役は私たち」。

 いま30~40代(イオ世代と勝手に呼んでます)の同胞たちが日本各地で頑張っています。同胞社会を元気にするため、朝鮮学校を支えるために、汗も流すし、知恵も出す。そしてお金も出しています。

 同胞がたくさん住んでいる地域でも、同胞があまりいない地域でも。朝鮮学校があるところでも、朝鮮学校がないところでも。また、近畿、中四国、関東、九州、東北といったブロックごとの、そして日本全国をネットワークしての活動も活発です。
 主に在日本朝鮮青年商工会(青商会)に結集する同胞たちの各地域での活動の様子を紹介しました。


 特集の他にも、大阪府堺市で行われたコマチュック大会(在日朝鮮初級学校中央サッカー大会)の熱い戦いの様子や、福島朝鮮初中級学校での除染作業、ふたたび世界王者奪回へ歩みだした前世界チャンピオンの李冽理選手の復帰戦の模様、愛知県で行われたコリアンブライダルフェア・ミリネ2011など、今月号も盛りだくさんな内容となっています。

 ご愛読ください。
 表紙は、朝鮮の伝統的な遊びで日本のすごろくに似たユンノリを、裁縫道具風にアレンジしたものです。(k)



行ってきました、コマチュック大会!

2011-08-15 09:00:00 | (里)のブログ
夏休み真っ只中この暑い中、なぜか毎日屋外活動してしまっている(里)です。笑

1週間前の話になりますが、8月5日~7日、大阪・堺で行われた「コマチュック大会」(第33回在日朝鮮初級学校中央サッカー大会)に行ってきました!
今日はその時のようすを報告したいと思います^^

いや~、暑かった。いや「熱かった」…というのが、取材を終えてみての感想です。
良かったです、本当に。
言葉にしつくせないので、写真で汲み取ってください!笑


まず、参加校の多さに圧巻でした!
本当に、ほぼすべての朝鮮初級学校が参加していました。

↑開会式の写真ですが、写真左奥にもまだ列がありました。レンズに収まりきりませんでした。^^;

今年は東京第9が、本選大会で初優勝を決めました!


東京第9も広島も、実力的には互角だったんじゃないかと思います。
どちらの学校も本当に上手くて、決勝戦中は観客席から「お~~~!!」「上手い!!」とどよめきが起こっていましたから。
でも、勝利の女神は東京第9にほほえみました。



PKを決めて優勝が決まった瞬間、歓喜のあまり走り出す東京第9の選手たち。



監督としっかり抱き合ってよろこびをかみ締めます。「よっしゃーーー!!」とか、叫んでいたんでしょう。


保護者も思わずもらい泣きです。一番近くで子どもの成長を見ていたから尚更感極まるものがあったのでしょう。



泣き崩れる広島の選手たち。なんだか心が痛かったけど…。人数が少ない中、本当によく頑張りました!!




優勝チームは、お決まりの「胴上げ」です。選手一人ひとり、そして監督やコーチも胴上げされていました。


決勝戦のようすは「エルファネット」にて、実況つきで生放送されました。みなさん、見てましたか??



一番盛り上がったのは、やはり決勝戦でしたが、
コマチュック大会ではこれ以外にも、たくさんのドラマがありました。



まだあどけなさが残る「コマ(子ども)」たちも、試合中はおどろくほどキリリとした表情で真剣勝負。




試合に勝てばよろこびを仲間同士で分かち合い、



反対に負ければ涙し…。
こんなドラマが競技場のいたるところで繰り広げられていました。

応援席も盛り上がっていました。


「ケンガリ」片手に力強い声援を送る応援団。


「20年ぶりに再会したんだ」とよろこんでいた、朝鮮大学校卒業生の同級生の方たち。
(「イオでしょ!?」と声をかけられ、「載せて載せて」と頼まれ写真を撮らせていただきました。笑)
そう、会場では本当にいろんな人たちと会えるんです。私も楽しかったです。



参加した各校がそれぞれテントを設けていました。
学校ごとの特色があって、とてもにぎやか。


最後に私が個人的に好きなショットを。
この子は広い広い競技場で迷子になって泣いていた4歳の男の子です。
オンマが迎えにきてくれた時、泣きじゃくるでもなく、じーっとうれしそうにオンマを見つめていました。


夏のコマチュック観戦、かなりオススメです^^!!(里)

日曜日は丹波マンガン記念館へ行こう

2011-08-13 09:00:00 | (淑)のブログ
 6月26日に再開館した「丹波マンガン記念館」(京都府京都市右京区)へ行ってきました。
 「丹波マンガン記念館」は、日本植民地支配の加害の歴史を伝える博物館で、1989年に創られました。戦前、朝鮮人と被差別民たちが強いられた過酷な労働の現場を再現することで、日本社会に植民地支配の責任を訴えつづけてきました。
 同館は2009年、資金難から閉館となりましたが、再開館を果たしたということで、再建の経緯を取材してきました。関係者数人にお話をうかがい、実際に記念館にも足を運びました。その内容は9月号でご覧ください。

 さて、晴れて再開館したマンガン記念館ですが、私が見たものは「再開館」というポジティブな言葉にはおよそ似つかわしくないものでした。失礼ですが、あけすけに言えば「ボロボロ」でした。
 同館は初代館長である故・李貞鎬さんが家族とともに創り、その後息子の李龍植さんが継いで、20年間個人の努力により維持されてきました。博物館を個人で運営するというのは財政面はもちろん、整備や補修の面でも並大抵のことではありません。再会館にあたり、記念館を組織的に支えるため、運営を個人から「NPO法人丹波マンガン記念館」に移行しました。それで再開館を前に、坑内の坑木(支柱)を取り替えるなど、施設の補修工事を行いましたが、資金不足から最低限しか手が届かなかったそうです。本来であれば植民地支配の反省と謝罪から、日本政府が運営して当然です。しかし自治体からの運営補助はなく、再開館を果たした今も厳しい運営を迫られているのが実情です。
 NPO法人丹波マンガン記念館では、現在、財政基盤を立てるための懸命な取り組みを行っています。その一環として今月7日から始まったのが、「丹波マンガン記念館バスツアー」。毎週日曜京都駅から記念館まで直通で運行され、朝青や留学同、韓青のメンバーによるガイドボランティアが施設を案内してくれます。また、記念館周辺の観光名所もツアーに組まれています(※パンフレット参照)。従来、マンガン記念館へ行くには、バスを乗り継ぎ、さらに徒歩。運行ダイヤも間隔が広く、交通至便とはいえません。ですからこのツアーが広まれば、継続的な集客につながると思います!

 世間は夏休み、京都まで足を延ばして歴史を見つめなおすのもいいのでは?
 日曜日は丹波マンガン記念館へ行こう!私たち一人ひとりの関心が貴重な歴史保存事業を支えます。(淑)



※予約・問合せ:NPO法人丹波マンガン記念館事務局(075-681-0280)
 予約受付は前日17時まで

震災から5ヵ月

2011-08-12 11:43:31 | (相)のブログ
 前々回のブログで福島朝鮮初中級学校における放射性物質除染作業について触れました。その中で、福島県が行う校庭の汚染表土除去作業の費用補助の対象に福島朝鮮初中級学校も含まれることになったと書きました。補助されるのは経費の1/2です。
 つい先日、福島県私立専修学校等運営費補助金(線量低減化支援事業)交付要綱の一部を、現地にいる方を通じて入手しました。同要綱の第1条には、
 「県は、東日本大震災により発生した東京電力福島第1原子力発電所の事故に伴う県内の私立高等専修学校及び外国人学校(以下「私立専修学校等」という。)における生徒が受ける放射線量の低減化を図るため、私立学校法(昭和24年法律第270号)第3条の学校法人、私立学校法第64条第4項の法人(以下「学校法人等」という。)に対し、福島県補助金等の交付等に関する規則(昭和45年福島県規則第107号、以下「規則」という。)及びこの要綱の定めるところにより、予算の範囲内で補助金を交付する」と記されています。
 文書にはっきりと外国人学校と記されているのが注目されます。福島県内の外国人学校とは唯一、福島朝鮮初中級学校で、「私立学校法第64条第4項の法人」には各種学校が含まれます。
 線量低減化支援事業には、校庭等表土改善のほかに高圧洗浄機、エアコン、扇風機などの空調設備の購入、設置にかかる費用の補助(2分の1)も含まれます。

 また、福島県は通学路や公園の清掃など県内各地域の放射線量低減の取り組みを地域住民に委ねる方針を決め、市町村を通して町内会、自治会、PTA、ボランティア団体などに空間線量計や高圧洗浄機などの購入費として50万円を上限に助成すると報じられています。(福島民友ニュース)http://www.minyu-net.com/news/news/0706/news8.html

 福島県においては、朝鮮学校に対しても除染関連で行政の支援の枠組みがある程度整備されましたが、他の地域も含めて今後も外国人だから、外国人学校だからという理由で、震災復旧対策、原発事故対策事業の枠外に置かれることがあってはならないと思います。
 東日本大震災から昨日で5ヵ月。ある程度は仕方のないことですが、当初に比べると、人々の被災地に対する関心も少なくなってきています。
 イオでは7月号から毎月、被災地同胞のエッセイを掲載しています。数日後にできあがる9月号には福島朝鮮初中級学校で行われた除染作業の記事も載っています。半年、1年と時間が経っても、可能な限り情報を発信し、被災地同胞支援に少しでも貢献していきたいと思っています。(相)