「BORN TO RUN」という本をご存じだろうか。走ると膝が痛くなるジャーナリストがいた。彼が取材で南米山奥で見たのは、ペナペナのゴムぞうりを履いて24時間走り続ける者たちだった。(ほんとかよ!)分かったのは、クッションの効いた分厚い底の靴を履いて走るよりも、薄っぺらい方がかえって膝の負担を軽減できるということ。(うそー)
嘘だと思ったら、試しに裸足で体育館を走り回ってみよう。踵から着地すると衝撃が脳天まで突き抜けるはずである。たぶん自然と、足の前の方から着地するか、あるいは足の裏全体で着地するはずである。ハイテクシューズを履く→クッションが効く→踵から着地する→膝に負担 となる。裸足で走れば、負担が膝から、足底筋やふくらはぎへとシフトして、24時間走る(?)ことも可能になる。(のかな…)
現代の世界で裸足で走るのは難しいので、裸足に近い形で走ろうというのがベアフット・ランニング。昨今ニューバランスやヴィブラム社、アディダスもそれに近いシューズを出している。
私もこの本を読んで衝撃を受けて、ベアフット・ランニングあるいは前足着地を意識して走るようになった。確かに膝の痛みはほとんどなくなった。
その本の中に登場するのが、スコット・ジュレク。ウルトラマラソンで何回も優勝している、超長距離走界の巨人。彼の生い立ち、思想、走り方、トレーニング、そして完全な菜食主義(ヴィーガン)について書いたもの。
「走る」ということに全く興味がない人にはあまり面白くないのだろう。方法論的な話が多いし。あるいは「菜食主義」なんてバカバカしいと思っている人にも同様。しかし、「鍛える」ことや「食の効率化」に関心がある人なら何か得るものはあると思う。
確かに。そういうことか。人生とは、コントロールの効いた落下だ。なんてな。(筋力記憶力の落下とも言える)し(精神的な転落とも言える)あるいは、生きるとは(堕落してゆくことだ)と言ってみたりして。
私自身は全然よいランナーではないので、タイムとかフォームについてえらそーなことを言うつもりはないんだけれど(いやフォームを矯正したいのだけれど、どうすれば良いのか分からない)、エンドルフィンのもたらすランナーズハイは他ではなかなか体験できない快感。
ドラッグなどの中毒患者が克服するためにウルトラマラソンをはじめてそっちの中毒になったという例が少なくないそうだ。その話は何を示唆しているのだろうか…
ニンゲンは誰もが何かの中毒になっている。ゲーム、携帯、恋愛相手、競馬、親、ニコチン、スイーツ… 重篤かそうでないか、他人に後ろ指さされるかそうでないか、自分が不幸かそうでないかの差はあるけれど。だとすれば、どうせ中毒になるのなら、ウルトラマラソンもしくはランニングは「他と比べればずっと良い中毒」なんじゃなかろうか。
そうそう。サックスプレーヤーで役者の武田真治氏が、雑誌のインタビューで、ボクシングを始めたら疲れて余計な心配をしなくなったというようなことを言っていた。肉体と精神は、別々の存在のように普段意識しているけれど、根っこでは切り離せないほど密接にくっついているわけね。精神的に問題を抱えている人、そこまで行かなくても、ココロが苦しいと思ったら、直接ココロを変えようとするのではなく、肉体の方を変えるって考えるといいのかも知れないなあ。
だとすれば、私のむちむちナイスバディをむきむきナイスバディへと変えてゆけば、私のショボイハートも多少ショボクないハートに変わってゆくだろうか。
では、また。
「EAT & RUN 100マイルを走る僕の旅」スコット・ジュレク / スティーヴ・フリードマン NHK出版 2013年
MY UNLIKELY JOURNEY TO ULTRAMARATHON GREATNESS, Scott Jurek with Steve Friedman 2012
嘘だと思ったら、試しに裸足で体育館を走り回ってみよう。踵から着地すると衝撃が脳天まで突き抜けるはずである。たぶん自然と、足の前の方から着地するか、あるいは足の裏全体で着地するはずである。ハイテクシューズを履く→クッションが効く→踵から着地する→膝に負担 となる。裸足で走れば、負担が膝から、足底筋やふくらはぎへとシフトして、24時間走る(?)ことも可能になる。(のかな…)
現代の世界で裸足で走るのは難しいので、裸足に近い形で走ろうというのがベアフット・ランニング。昨今ニューバランスやヴィブラム社、アディダスもそれに近いシューズを出している。
私もこの本を読んで衝撃を受けて、ベアフット・ランニングあるいは前足着地を意識して走るようになった。確かに膝の痛みはほとんどなくなった。
その本の中に登場するのが、スコット・ジュレク。ウルトラマラソンで何回も優勝している、超長距離走界の巨人。彼の生い立ち、思想、走り方、トレーニング、そして完全な菜食主義(ヴィーガン)について書いたもの。
「走る」ということに全く興味がない人にはあまり面白くないのだろう。方法論的な話が多いし。あるいは「菜食主義」なんてバカバカしいと思っている人にも同様。しかし、「鍛える」ことや「食の効率化」に関心がある人なら何か得るものはあると思う。
ランニングとはコントロールの効いた落下だ。(214頁より引用)
確かに。そういうことか。人生とは、コントロールの効いた落下だ。なんてな。(筋力記憶力の落下とも言える)し(精神的な転落とも言える)あるいは、生きるとは(堕落してゆくことだ)と言ってみたりして。
ウルトラマラソンを走る人々の多くは、精神安定剤を摂るのと同じ理由で走っていると思う。もちろん、走ることによって得られる友情や達成感や自然を身近に感じることが重要じゃないと言っているわけじゃないけれど、遠くへと長く走れば走るほど、僕は自分が追いかけているのが精神的な状態 - 決してなくならないと思っていいた心配事も消え、時を超越した美しい宇宙と今という瞬間が鮮明に見えてくる状態 - だったんだと気づく。(237頁より引用)
私自身は全然よいランナーではないので、タイムとかフォームについてえらそーなことを言うつもりはないんだけれど(いやフォームを矯正したいのだけれど、どうすれば良いのか分からない)、エンドルフィンのもたらすランナーズハイは他ではなかなか体験できない快感。
ドラッグなどの中毒患者が克服するためにウルトラマラソンをはじめてそっちの中毒になったという例が少なくないそうだ。その話は何を示唆しているのだろうか…
ニンゲンは誰もが何かの中毒になっている。ゲーム、携帯、恋愛相手、競馬、親、ニコチン、スイーツ… 重篤かそうでないか、他人に後ろ指さされるかそうでないか、自分が不幸かそうでないかの差はあるけれど。だとすれば、どうせ中毒になるのなら、ウルトラマラソンもしくはランニングは「他と比べればずっと良い中毒」なんじゃなかろうか。
そうそう。サックスプレーヤーで役者の武田真治氏が、雑誌のインタビューで、ボクシングを始めたら疲れて余計な心配をしなくなったというようなことを言っていた。肉体と精神は、別々の存在のように普段意識しているけれど、根っこでは切り離せないほど密接にくっついているわけね。精神的に問題を抱えている人、そこまで行かなくても、ココロが苦しいと思ったら、直接ココロを変えようとするのではなく、肉体の方を変えるって考えるといいのかも知れないなあ。
だとすれば、私のむちむちナイスバディをむきむきナイスバディへと変えてゆけば、私のショボイハートも多少ショボクないハートに変わってゆくだろうか。
では、また。
「EAT & RUN 100マイルを走る僕の旅」スコット・ジュレク / スティーヴ・フリードマン NHK出版 2013年
MY UNLIKELY JOURNEY TO ULTRAMARATHON GREATNESS, Scott Jurek with Steve Friedman 2012
着地するからだということは全く知りませんでした。
巷で「踵から下ろす」と言っているのはなんなんでしょ。
ペタンコ靴は膝に悪いと思っていましたが
足先から歩けばよかったんですね、やってみよう。
ドラッグやるよりマラソンの方がよほどいい中毒ですね。
人はおおかれ少なかれ何かの中毒であると聞けば
ちょっと楽です。
そういうと私も散歩をしだすと落ち込んでいると
気付きます。動いていた方がいいという証拠です。
(私見ではありますが)歩くのと走るのでは着地は違うように思います。歩くのは踵からの着地でないと難しいのではないでしょうか。
なお、走る場合、踵からの着地だと、膝に負担がかかりますが、踵にクッションを入れた靴である程度衝撃が吸収されるということもあります。クッションの効いた靴では踵から着地せざるを得ないように思います。(機会があれば試されてみると宜しいかと思います)
またある総合格闘家が言っていましたが、ある程度以上体重がある人は、クッションの効いた靴でないと走れないそうです。
ですから、「踵から」という言い方は合理的ではないとは言えないように思います。
BORN TO RUNや他の書籍に、詳しくベアフットランニングの効用(もしくは、クッションの効いた靴の功罪)が書かれていますし、TARZANなどの雑誌でランニング特集が組まれるときには言及されることが多いですから、参考にされてはいかがでしょうか。
歩くのと走るのでは全く着地が違いますね。
ほんとになんてとぼけた事を言ってしまったんでしょう。
申し訳ありません。
歩く走る以前にストレッチを頑張らねばならない段階の人間ですので顔を洗って出直したいと思います(笑)
お言葉を返すようで大変恐縮なのでありますが、
>歩く走る以前にストレッチを頑張らねばならない
ストレッチって、頑張っちゃいけないもの…のような気がします。
(揚げ足取りのようですみませんが、気になることをそのままにしておけないものですから)