「光」三浦しをん 集英社 2008年(初出小説すばる、2006年11月号~2007年12月号に加筆・訂正)
エッセイでは大爆発を遂げる、我らが腐女子、三浦しをん。小説では変貌を遂げる。
美浜島という架空の島で、少女に執拗にせまる観光客、その者に怒りを覚える少年、父親に暴力を振るわれる少年。事件は起きる。事故は起きる。観光客は殺される。それから島を出た二人の少年と少女。逃れたはずの運命に絡め取られる人生、生活。彼らの行く手に待つのは、闇かはたまた光なのか。
ネタバレしないで説明するのがやや困難なこの「光」 純文学とミステリーの狭間にあると思った。冒頭に謎が提示されるわけではないのでコテコテのミステリーの文脈で語られるわけじゃない。しかしながら、二人の少年&少女のその後に大きな謎を読者は抱えるのが一つ、作中でまた殺人が起きるというのがもう一つ、ミステリー的な作品であると言いたくなる根拠が二つ。
なぜこのように隔靴掻痒なレビューをしているかと言うと、某友人に「本のレビューは読まない。後でその本を読むときに興を削ぐから」と言われたのがちょっとしたきっかけになっている。このブログ内で何かのレビューをするときにはネタバレすると明記していない限り、ネタバレナシなのだが、そう勝手に私がルールを定めていても、読む方がそう思うかどうか別なのだ。ので、最近(なんとなく)ネタバレを激しく避けたレビューを意識してしている(ような気がする) 後にまた路線変更するかも知れない。
さて、「光」に戻る。
三浦しをんという作家は男性の心を描写するのが実に巧い。桜庭一樹が少女の心を書くのに秀でているのと好対照である。(「ファミリーポートレイト」のレビュー) また罪に手を染めた少年少女のその後という意味で、この「光」=「ダークな『永遠の仔』」だという印象を持った。
家族を持とうと決めたのは、人並みの暮らしをしたかったからだ。だれにも求められず、必要とされず、波間に漂うような日々を送るのはもう限界だった。つなぎとめてくれるものがないと、海の底へ引きずりこまれてしまいそうになる。 (186頁より引用)
うんうん。その気持ちよく分かる。同じような心境になったことがあるから。
セックスがこわかった。複雑で奥深くなかなか正体を現さない心と体を持つ女を抱くのがこわかった。慎重さと観察を欠いた途端に、つながった部分から体が裏返り、快楽に逆襲されるような気がしてならない。いつからそんなふうに感じるようになったのか、なんとなくわかっている。 (204頁)
うーむ。三浦しをん恐るべし。なぜ男性の気持ちが、いや俺の気持ちをそこまで知っているのだ?などと、まるで自分だけがそう思っていて、その自分だけの気持ちをドンピシャと言い当てられた感に襲われる。
死んだら解放される。
この無情な理に、本当はだれもが気づいている。気づかぬふりをして、まっとうに暮らしているだけだ。余裕があるから。明日死ぬことはないと信じ、愛情を信じ、罪を犯したものには罰が下されると信じ、死にも不幸にも意味があると信じる。信じるふりをして生きる。
やつらを見るたび、反吐が出そうになる。
あらゆるものに意味を見いだし、しかし肝心な部分で気楽に運に身を委ねる人々のことが、信之には根本の部分で理解できなかった。そこに平穏と救いを見いだす精神がわからなかった。
意味などない。死も不幸もただの出来事だ。それらはただ、やってくる。 (232頁)
この無情な理に、本当はだれもが気づいている。気づかぬふりをして、まっとうに暮らしているだけだ。余裕があるから。明日死ぬことはないと信じ、愛情を信じ、罪を犯したものには罰が下されると信じ、死にも不幸にも意味があると信じる。信じるふりをして生きる。
やつらを見るたび、反吐が出そうになる。
あらゆるものに意味を見いだし、しかし肝心な部分で気楽に運に身を委ねる人々のことが、信之には根本の部分で理解できなかった。そこに平穏と救いを見いだす精神がわからなかった。
意味などない。死も不幸もただの出来事だ。それらはただ、やってくる。 (232頁)
ふむ。哲学だ。思想だ。登場人物を借りた、三浦しをんの死生観がここにあるのだろうか。それともあくまでも一つの考えなのだろうか。
癒しとか救いとか明るいモノを求めない本読みにはオススメできる一冊だった。
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読みかけの本たち
先日はトラックバック、ありがとうございました。
とってもダークで衝撃でした。
今回もトラックバックさせていただきました。
トラックバック送らせていただきました。
藍色さんの前回のコメントはとても新鮮でした。
トラックバックは受け取るのはどちらでもいいけど
送れるものならぜひ送りたいという人が
とても多いように思いましたので、
TB送ってくださいというコメントは新鮮でした。