My Favorite

信越線住民の好きなもの~フリッチャイ、鉄道・・・

榛名&伊香保

2020-10-29 19:11:03 | 写真
榛名が紅葉見ごろになったということで、行ってきました。
この写真は、「湖畔の宿記念公園」から撮った榛名富士と榛名湖です。
「湖畔の宿」は、1940年に高峰三枝子が歌ったヒット歌謡曲で、作詞の佐藤惣之助が死の直前、榛名湖畔の一軒宿、「湖畔亭」の仲居に手紙を送り、そこで詩の舞台の湖は「榛名湖」で、宿は「湖畔亭」と明かしていたそうです。

隣接して竹久夢二のアトリエ(復元)があります。

そして、猫ちゃんもいました。


続いて伊香保へ。
実は、こちらが目的。東武伊香保軌道線で使用されていた車両、デハ27。
伊香保の温泉街、「峠の公園」に展示されています。
伊香保軌道線は1956年に廃線になりましたが、2014年に温泉街の入口付近のかつての軌道跡が公園に整備されたのです。車両は、個人が長く所有していた台車のない車体に、また別の人が所有していた同形式の台車を取り付けて展示することになったとのことです。(最近、知りました。)

少し先に行ったところが終点の伊香保駅です。
写真は、終点近くの線路跡です。

かつての軽井沢から草津温泉まで線路が通っていた草軽電鉄も同様ですが、よくこの勾配のきつい山中に線路を敷いたものと感心します。
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今日のDL・SL群馬県民の日

2020-10-28 15:44:41 | 写真
下り列車は磯部~松井田間、上り列車は磯部~安中間で撮りました。

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今日のSLぐんまよこかわ

2020-10-24 17:55:32 | 写真
磯部駅で撮りました。
「鬼滅の刃」のヘッドマークが付いているということで、妙義山をバックに正面から撮ろうとしました。しかし列車到着後、カメラマンが画面に入ってしまったので、避けようと対処したのですが、妙義山も入れられず中途半端な写真になってしまいました。元は横の構図でしたが、人をカットして縦型にトリミングしました。
今日はいつになく多くの人がホームに入ってSLを見ていました。「鬼滅の刃」人気は凄いです。

ELは違うデザインのヘッドマークでした。

これも鬼滅関係?
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今日のSLぐんまよこかわ

2020-10-18 14:45:56 | 写真
安中~磯辺館で撮りました。
久しぶりの下り列車、煙を期待していましたが、こんな感じでした。
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群響562回定期

2020-10-16 22:26:12 | 演奏会
○スメタナ 「わが祖国」
 高関健/群馬交響楽団

久しぶりの「わが祖国」全曲。
「ヴィシェフラド」では、弦の合奏のところが、先に進むにつれて、なんかわからなくなってきたような気がしました。盛り上がるところでのティンパニの強打はインパクトがありました。
「モルダウ」は、狩りの場面、もう少し躍動感があると良かったかなと感じました。
「シャールカ」は、終わる前のクラリネットのソロと、静かにさざめく弦、そして終曲への盛り上がりが素晴らしかったです。
後半の3曲は、躍動感に満ちとても素晴らしかったです。特に「ブラニーク」で、曲が始まってしばらくしたところの木管楽器とホルンのかけあいが絶品でした。

今回は、3曲演奏して休憩をとりました。
渡鏡子さんは、著書「スメタナ/ドヴォルジャーク」で「六曲から成るこの連作交響詩は、二曲ずつ組みにして仕上げられ、組のはじめの方におかれているものには、歴史的あるいは回顧的な主題を用い、あとの方のものは生きた現在の鼓動あるいは未来を表そうと意図されている。」と述べて(高関さんは、プレ・コンサート・トークでの曲あとの方を「自然」といような説明をされていました。)おり、そういう観点からすると私は「シャールカ」と「ボヘミアの森と草原から」の間で休憩を取るべきではないかと思うのですが、いかがなものでしょう。
(高崎芸術劇場)
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今日のSLぐんまよこかわ

2020-10-11 15:08:03 | 写真
磯部~安中間で撮りました。
当初の天気予報では安中市は曇りでしたが、台風一過で晴れてきて、妙義山がくっきり見えました。

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今日聴いた曲

2020-10-10 19:14:54 | 他の音楽
○ドヴォルジャーク チェロ協奏曲 A.ワイラーシュタイン(Vc)、ビエロフラーベク/チェコ・フィル 2013年6月28、29日

ビエロフラーベクのドヴォルジャーク交響曲全集に収録されているもの。単売でもでています。
ワイラーシュタインのチェロは、とても骨太かつ豪快でロストロボーヴィチを凌駕するのではと思いたくなります。
ビエロフラーベク/チェコ・フィルのバックも素晴らしく、思いがけず、良い演奏に出会えました。

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ドヴォルジャークの交響曲第1番について-その5(終わり)

2020-10-09 19:00:07 | 他の音楽
最後に、演奏について触れます。
【演奏について】
★カット、改訂について
前に触れましたが、この曲は、1936年に相当カットされた形で初演されました。
この曲をカットしたり改訂することについて、相当カットし、また一部改訂した形でこの曲の最初の録音を行ったヴァーツラフ・ノイマンは、「交響曲第1番は、いくつかの箇所をカットしなければなりません。それは、あまりにも多くのテーマがあって、これでいくつかの交響曲を作ることができるくらいですから。」と述べていたとノイマンのアシスタントをしていて、自身もさらにカットした形で録音したイヴァン・アンゲロフは回想しています。
実際、ドヴォルジャークは、自身が作曲した曲を後に改訂することを多く行っています。
例えば、第1交響曲と同じ年の1865年に作曲された第2交響曲は、作曲後20年以上経った1887年に出版をもくろんで相当なカットを行っています。それは五線紙でいうと260ページから212ページになっています。
そういう点から、ドヴォルジャークが実際、この曲を聴いたとすれば、同じようにカットをしたと思われます。そして、ドヴォルジャークがするであろうと思われるカットを施して演奏をするということは、自然ななりゆきです。
しかし、このことについて、レイ・ミンシャルは次のように警告しています。
「・・・そうした手術(改訂)に対する反対意見として、それはただ僭越であるばかりでなく、誤りを犯すことになるであろうということがいわれる。つまり、ドヴォルザークが自分の交響曲の演奏を聴いたあとで、その構成を充実させて行く時のやり方は、その長さを縮めるのと同時に、対立主題や関連楽句を強化して行く方法をとっているからであり、そうした操作は作曲者自身にしてはじめて可能な、全く個人的な行為であることは明らかである。」
そして、もう一つ、「名声を得る以前の、若いドヴォルザーク独自の方法論とその成果を盗み見する(多少うしろめたいとしても)またとないチャンスがここにある」ことも触れています。もし、ドヴォルジャークがこの曲を聴いて改訂したとすれば、「その生のエネルギーを修正してしまったと思われ」、それは大変もったいないことと思います。
長い間、行方不明であったことが、かえって幸運だったともいえるのではないかとも思います。


★商品化された録音について
これまでにリリースされたレコード、CD等は23種類あります。(ただし、ビエロフラーベクのCDとDVDの2種は、同一の演奏かも知れません。)
演奏時間やカットなどは、次表のとおりです。(クリックして拡大表示にして下さい。)

(カット箇所など漏れや誤りがありましたら、お知らせ下さい。→B番号に誤りがあり修正しました。)

演奏には、それぞれ一長一短があり、優劣つけがたい状況ですが、私的ではあるもののいくつかのお薦め盤を紹介します。まずは、ノーカット、ノー反復省略(1楽章主部の反復省略は除く)の演奏を紹介し、番外としてカット等はあるものの、捨て置けない演奏を紹介します。なお、私はフリッチャイの演奏を好んでいることもあり、彼の晩年のスタイルである緩徐楽章をゆったりしたテンポで演奏するのが好みなので、お薦め盤もそちらに偏りがちとなりますので、あらかじめご承知下さい。

●ロヴィツキ盤
私がこの曲を最初に聴いたのは、中学3年生頃、50年弱前のことです。
それが、このロヴィツキ盤でした。それゆえ、私にとって、この曲の基準となる演奏となりました。金管優位の演奏です。
今回、全ての演奏をじっくり聴くことにより、1楽章の再現部の手前でホルンが2回主要動機を吹くところが、弦楽器が全面に出過ぎてほとんど聴こえないという残念な箇所にも気づきましたが、それでも基準たる地位は揺るぎません。

●セレブリエール盤
総合的に見て、一番優秀な演奏ではないかと思っています。ゆったりとした壮大な演奏です。唯一残念なのは、第4楽章主部の第2主題が出る少し前のホルンにより第1主題を奏する箇所が、出だしの音量が低すぎるというところです。

●佐伯盤
日本初演時の録音。アマチュア・オーケストラではあるものの、この曲の本質を一番よくつかんだ壮大な演奏ではないかと思っています。弦楽器は若干弱く感じるなど精度において課題はあるものの、雄弁な金管、ティンパニ、そしてクラリネットが魅力的です。なお、自主制作盤です。

●ビエロフラーベク盤
全体的に速いテンポですが、とても充実した演奏です。1楽章主部の終わり頃のティンパニの強打、3楽章スケルツォ部終わり頃のティンパニの連打、そして終楽章展開部終わり頃のティンパニの強打は、雄弁で弾力に満ちており、アンチェル時代のティンパニの音を思い起こします。

●ペシェク盤
ティンパニが雄弁で、1楽章、2楽章のヴィオラ・ソロも実施しています。
ただ、ノイマン盤(2回目録音)と比べると、ノイマン盤の方が、オーケストラが格上と感じざるを得ません。

●カンゼンハウザー盤
この演奏はちょっと特徴があります。全体にわたって金管楽器が控えめでちょっと物足りなさを感じます。(音量を上げることによって少しは緩和されますが。)1楽章のティンパニの立ち上がりなど他の指揮者では聴かれないティンパニの雄弁な箇所があります。また、なんといっても1楽章、2楽章のヴィオラ・ソロが絶品です。

●クーベリック盤
ヴァイオリンを対向配置にした演奏。1楽章ゆったりとして、2楽章を早めテンポにする演奏ですが、私自身としては好みではありません。(このようなテンポ設定をしているのは、スイトナー、A.デイビスです。下野さんも、こんな感じの演奏でした。)
しかし、演奏自体はさすが、ベルリン・フィル、素晴らしい演奏です。
対向配置で面白いのは、第4楽章の最初の頃に、第1と第2ヴァイオリンが同じようなフレーズを交互にピチカートと弓で弾く箇所が左右に分かれて聴こえるところです。普通の配置ですと交互に演奏しているのに気づきにくく、ただ同じフレーズを反復しているだけのように聴こえます。

番外
●ボッシュ盤
一番新しい録音。第1楽章主部の反復、1楽章、2楽章でのヴィオラ・ソロと全てオリジナルのとおり演奏しており、演奏自体も素晴らしいことから、ようやくこの曲の決定盤かと思ったのですが、2楽章を聴いているとなんか違和感があったのです。ぼーっとしていて聴き逃したのかなと思っていたのですが、同じようなことが続いたので、よく聴いて見たら、なんと1小節カットされている部分があったのです。
他のどの指揮者もカットしておらず、信じられないような箇所でのカットなので、録音時になんらかのトラブルがあったのではと思いたくなります。

●ノイマン盤(2回目録音)
正直言って、3楽章の反復省略がなければ、最高の演奏として最初に紹介したかったところですが、残念です。きりりと引き締まった演奏で、1楽章序奏は一般好きです。全体を通じてティンパニが雄弁で、各楽器の音色もアンチェル時代に近いものを感じます。
ノイマンは、この曲を3回録音していますが、3回目の録音は3楽章の反復の省略もなく、演奏も素晴らしく模範盤的ではありますが、2回目の録音と比べると安全路線に行ってしまったように感じます。

★日本での初演
日本では、2009年1月18日、日野市民会館で行われたアマチュア・オーケストラのナズドラヴィ・フィルハーモニー管弦楽団による演奏(佐伯正則指揮)が初演になります。そして遅れること5ケ月、2009年6月9日に東京芸術劇場で行われた読売交響楽団の演奏(下野竜也指揮)が、プロ・オーケストラでの日本初演になります。
世界初演から70年余り、楽譜出版から50年弱経っての日本初演です。

【最後に】
ドヴォルジャークの交響曲第1番は、作曲コンクールに応募後、長い間、楽譜が行方不明になっていましたが、現在、NHKで放送されている連続テレビ小説「エール」の主人公、小山裕一のモデル、古関裕而も、1929年、イギリスの作曲コンクールに舞踊組曲「竹取物語」ほかの作品を応募(こちらは2等に入賞したとの本人からの報告がありますが、詳細はわからず、本人の勘違いではという説もあります。)しており、現在、その楽譜は行方不明とのことです。(楽譜が本人のもとに返却されたのかどうかはわかりませんが、原稿か写譜かが、一時、古関の手許にあったようです。)
コンクールに応募した作品が行方不明というのは状況が似かよっていますが、ドヴォルジャークの場合、楽譜は幸運なもとに保管され、作曲後、約60年を経て発見されました。古関の「竹取物語」もいつか発見されるのではと期待しています。
(終わり)
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ドヴォルジャークの交響曲第1番について-その4

2020-10-08 20:05:08 | 他の音楽
今回は各楽章の解説その他です。私的な感想も含みます。
★各楽章の解説と感想
第1楽章 速度指定なし ハ短調 2/2拍子~3/4拍子 ソナタ形式
1楽章では、いきなりホルンによるファンフーレのようなコラール風の荘厳な序奏に始まります。これは、とてもインパクトがあり、展開部や終楽章でも使われています。
[譜例8]第1楽章序奏 ホルン

序奏に続いて、「主要動機」に導かれて暗いイメージの第1主題がヴァイオリンで奏されます。第1主題と「主要動機」を素材に盛り上がった後、ヴァイオリンの前奏に続いてフルートとオーボエで安らぎを求めるような第2主題が奏されます。
[譜例9]第1楽章第1主題 第1ヴァイオリン

[譜例10]第1楽章第2主題 フルート

主部は反復が指定されています。展開部は、序奏、「主要動機」、各主題を素材に壮大な音楽が構築されます。再現部は、序奏が再現された後は、第1主題の後半から始まり、ヴィオラ・ソロ(実際にソロで弾いている演奏は少ないです。)の前奏に続き第2主題が再現されます。この1楽章は、多くの部分で「主要動機」が使われ、エネルギーに満ちたとても堂々とした闘争的な楽章です。
私は、展開部の終わりくらいのところで、弦楽器が嵐の前の静けさのようなたゆたうメロディ(第1主題の変化形?)を奏するところが好きです。
[譜例11]第1楽章展開部終わり頃 第1ヴァイオリン

第2楽章 アダージョ・ディ・モルト 変イ長調 2/4拍子 3部形式
2楽章の主題は、オーボエで奏でられ、とてもメランコリックで、憧れに満ちています。「作曲家別名曲解説ライブラリィ ドヴォルザーク」(音楽之友社1993年)では、この交響曲には「初恋の女性に対する慕情や激情がこめられているとみることができる」と解説していますが、さしずめ、この楽章は、初恋の人への恋焦がれる思いが伝わってくるように思います。
[譜例12]第2楽章 オーボエ

中間部の直前には、ヴィオラ・ソロがあり、とても哀愁に満ちた音を奏でます。(こちらも、ソロで弾いている演奏は少ないです。)
[譜例13]第2楽章 ヴィオラ・ソロ

中間部は、ホルンで奏されるファンファーレ的なものです。第3部では、弦楽器による二重フガートがあります。
[譜例14]第2楽章中間部主題 ホルン

第3楽章 アレグレット ハ短調 2/4拍子 3部形式
3楽章は、明記されていませんが、スケルツォに相当する楽章です。とても人懐っこく愛らしい曲です。ケルテス/ロンドン交響楽団によるドヴォルジャーク交響曲全集を制作したレイ・ミンシャルによれば、「《ズロニツェの鐘》は3楽章の作品として構想された。最初の二楽章と終楽章が先に完成し、そののちにドヴォルザークは愛らしい第3楽章を加えることをいみじくも思いついた。」と全集の解説で説明しています。コーダでは「突然の大胆な転調」(ミンシャル)があります。
ちょっと控えめな気分の序奏に続いてオーボエでスケルツォ主題が奏されます。中間部の主題もオーボエで奏され、ちょっと愉快な感じです。中間部には、ヴァイオリンのチャーミングなソロがあります。
[譜例15]第3楽章スケルツォ主題 オーボエ

[譜例16]第3楽章中間部主題 オーボエ

私は、この楽章のスケルツォ部の終わり頃のティンパニの連打が好きです。(ここを強調する指揮者は少ないですが・・・)
[譜例17]第3楽章 ティンパニ

第4楽章 アレグロ・アニマート ハ短調 2/4拍子 ロンド形式
CD等の解説によっては、ロンド・ソナタ形式とも不規則なソナタ形式ともするものがありますが、私はロンド形式というよりソナタ形式といったほうがわかりやすいと思っています。ミンシャルは、「再現部の直前の不協和の度は、ゆうに50年は時代を先取りしている。」と解説で説明しています。一方で、アンゲロフは、「形式を混乱させる不明確な転調」として、これを欠点ととらえています。
第1主題は快活、第2主題はどこかひねくれた感じで、どちらもオーボエで奏されます。
[譜例18]第4楽章第1主題 オーボエ

[譜例19]第4楽章第2主題 オーボエ

(譜例8~19は、国際楽譜ライブラリープロジェクトの楽譜の一部を管理人が加工して使用)

★標題
この交響曲には、「ズロニツェの鐘」という標題が付けられています。楽譜にはその記述はありませんが、ドヴォルジャークが遺した遺品の中に「交響曲ハ短調、ズロニツェの鐘・65年」と書いた小さなメモがあった(「わが祖国チェコの大地よ ドヴォルジャーク物語」黒沼ユリ子著、リブリオ出版1982年)ということで、ドヴォルジャーク自身が付けた標題ということが確認できます。(ドヴォルジャーク自身が標題を付けた交響曲は、この曲のほかに最後の交響曲第9番「新世界より」があります。)
この「鐘」が、この曲のどこで表わされているのかについては、「特にない」という説や、「1楽章の序奏」だとする説など諸説あります。私は、2楽章の序奏がそれにあたるのではと推測しています。
ただ、その「ズロニツェの鐘」ですが、ズロニツェのドヴォルジャーク博物館のJan Tůmaによれば、第一次世界大戦中に溶けてしまい、新たに作られていないということなので、残念ながら、その音を聞くことはできません。

★作品番号
作品番号を3とする資料も多くありますが、楽譜自体には表記はないようです。ドヴォルジャーク研究家の一人、ヤルミル・ブルクハウザーは、作曲順のリストを作成し、番号(B.○○と表記)をつけており、それによると9となります。(この後に作曲されたチェロ協奏曲、歌曲集「いとすぎ」にも番号は付されておらず、その次の作品、交響曲第2番は作品4となっています。)

(続く)



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ドヴォルジャークの交響曲第1番について-その3

2020-10-07 20:10:59 | 他の音楽
3回目は、曲の解説の1回目。主にベートーヴェンの交響曲第5番の影響について解説します。
【曲の解説】
この第1交響曲は、ドヴォルジャークの交響曲中、一番壮大でエネルギーに満ち溢れた曲であると思います。
★ベートーヴェン 交響曲第5番の影響
この交響曲は、前にも述べたように、ベートーヴェンの交響曲第5番の影響が、多く見られます。
(調性)
曲は4つの楽章からなり、調性は、1楽章から順に、ハ短調、変イ長調、ハ短調、ハ長調となっており、ベートーヴェンの第5交響曲と完全に一致しています。
(曲の構成)
また曲の構成も、闘争的な1楽章、そして勝利の大団円へと結ぶ終楽章と、こちらもベートーヴェンの第5交響曲と一致しています。そして、その両端楽章を挟んで、メランコリックで憧れに満ちた2楽章、愛らしいスケルツォの3楽章があります。
(運命の動機と取扱い)
1楽章の序奏に続いてコントラバスで奏される、第1主題に繋がる動機(譜例1)は「主要動機」とも位置付けられるもので、この楽章全体にわたって使われ、それは、ヴァイオリン、木管楽器、金管楽器、ティンパニと様々な楽器で奏されます。また、2楽章以降(譜例2、3、4)も使われており、終楽章のコーダ(譜例5)では、大きく形を変えて勝利を高らかに讃えます。
[譜例1]1楽章主部出だし コントラバス  [譜例2]2楽章 終わり頃 ティンパニ
             
[譜例3]3楽章コーダ ティンパニ     [譜例4]4楽章 出だし頃 ティンパニ
              
[譜例5]4楽章コーダ トランペット


これは、まさにベートーヴェンの交響曲第5番の「運命の動機」と同じような扱いをしているように思えます。また、最初のコントラバスに続いて、第2ヴァイオリンで奏される「主要動機」(譜例7)は、3音目を除くと「運命の動機」(譜例6)と一致します。
[譜例6]1楽章 2ndヴァイオリン    [譜例7]運命の動機
             

ドヴォルジャークは、ベートーヴェンの第5交響曲を意識して、「運命の動機」に一音足して「主要動機」を作り、それを各楽章で使用するというように第5交響曲と同じような扱いしたのでしょうか。
このことについてコメントした資料(外国語の資料までは見ていませんが。)を見たことがありませんので、なんとも言えませんが、この交響曲を作曲するにあたって、ベートーヴェンの第5交響曲を徹底的に研究したことを考え合わせれば、意識して作曲したのではないかと推察されます。
ここまで、ベートーヴェンの交響曲第5番の影響について述べてきましたが、曲のイメージからするとベートーヴェンというより、むしろシューベルトとかシューマンを思わせるような・・・いや、すでにドヴォルジャークだという気がします。終楽章は、シューベルトの第8交響曲(グレート)の終楽章を思い起こします。
(続く)
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お花

2020-10-06 19:26:54 | 写真
菜園に、コスモスがたくさん咲きました。
ピンク、白、赤、そしてピンクのグラデーションと4色あります。

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ドヴォルジャークの交響曲第1番について-その2

2020-10-06 19:18:56 | 他の音楽
ドイツの作曲コンクールに応募した交響曲第1番、選に漏れ、返却もされなかった楽譜は、その後、どうなったのでしょう。
【楽譜の紛失と発見、初演】
ドヴォルジャーク自身は、未練もなかった交響曲第1番ですが、幸運なことに、丁度、ドヴォルジャークが廃棄した作品などのリストを「ジャコバン党員」のスケッチの最初の1枚に書き付けた年の1882年、ライプツィヒの古書店のその楽譜が並び、奇しくもドヴォルジャークと同名の東洋学の学生、ルドルフ・ドヴォルジャークがその楽譜を見つけました。恐らく、同姓の作曲家の作品を見つけて興味を持ったのでしょう、彼はその楽譜を購入しました。後に、彼はプラハのカレル大学の東洋学教授になりましたが、楽譜のことは生涯公表することなく1920年に亡くなりました。
その楽譜が世に出たのは、1923年でした。遺品を整理していた同名の息子がこの楽譜を発見したのです。驚いた息子は、プラハ音楽院のヴァイオリン科教授、インドルジヒ・フェルトに鑑定を依頼し、ドヴォルジャークの最初の交響曲であることが確認されたのです。ただ、この経緯については、プラハの古書店でこの楽譜が発見されたという話もあります。(「わが祖国チェコの大地よ ドヴォルジャーク物語」黒沼ユリ子著、リブリオ出版1982年 ほか)息子が遺品を処分しようと思ったのでしょうか。
この楽譜がドヴォルジャークの最初の交響曲と特定された理由は以下のとおりです。
・筆跡が一致すること。
・のちに作曲されたピアノ曲集「影絵」などに動機が使われていること。
「影絵」で使われている動機は以下のとおりです。
 影絵 作品8 B.98(1879年)
   第1楽章第1主題     第1、5、12曲
   第3楽章スケルツォ主題  第8曲
   第4楽章序奏、第一主題  第9曲
その他、狂詩曲イ短調 作品14 B.44(1874年)では第3楽章スケルツォの終わり部分が、レクイエム 作品89 B.165(1890年)では主要動機が怒りの日に使われています。

翌年には、ドヴォルジャークの研究家として有名なオタカル・ショーレックがこの作品の関する最初の論稿を発表しました。ドヴォルジャークが廃棄したと思われていた最初の交響曲が発見されたということで、その発表はセンーションを巻き起こしました。
しかし、息子は、なぜかこの曲の出版を拒否し続け、出版されたのは、息子の死後の1961年でした。それは、1960年5月27日、息子の未亡人、ヴィレーミナ・ドヴォルジャーク夫人がプラハのアントニン・ドヴォルジャーク協会に楽譜を献呈し、出版も許諾したからです。それは息子の遺志だったということですが、それならなぜもっと早く出版できなかったのかなと思います。
初演は、1936年10月4日、ブルノの州立劇場でミラン・ザックスに指揮により行われました。このときは、ザックスが修正と大幅なカットを施したうえでの演奏でした。
(続く)
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ドヴォルジャークの交響曲第1番について-その1

2020-10-05 19:46:42 | 他の音楽
ドヴォルジャークの交響曲第1番「ズロニツェの鐘」は、私が最も好きな曲の一つですが、今回より何回かに分けて、作曲の経過や曲の解説、演奏などについて、紹介していきたいと思います。
1回目は作曲までの経過です。

ドヴォルジャークの最初の交響曲は、1865年2月11日から3月24日にかけて作曲されました。
【作曲まで経過】
1841年、チェコの首都プラハから北方約35kmにある村、ネラホゼヴェスで、肉屋兼宿屋の長男として生まれたドヴォルジャークは、13歳のとき、家業を継ぐべく、プラハの北西約35km、ネラホゼヴェスからは西に約20kmのところにある町、ズロニツェに肉屋の見習いに出されました。しかし、幼少より音楽的才能を示し、自らの捨てきれない音楽に対する思いと、彼の才能を認めたズロニツェのドイツ語教師リーマンの強い勧め、そして叔父の経済的援助もあって1857年、プラハのオルガン学校に入学することができました。
1859年には、オルガン学校を卒業しましたが、オルガン奏者としての職には就けず、コムサック楽団(1862年からは、チェコ仮劇場のオーケストラの中核を担った。)というオーケストラのヴィオラ奏者として働くことになりました。しかし、それだけでは生活ができず、ピアノの家庭教師もして生計を補っていました。
当初、叔母の家に一間を借りて住んでいましたが、1864年に友人の家に引っ越し、音楽好きの学生4人と一緒に生活していました。
★ベートーヴェン 交響曲第5番を研究
そんな苦しい生活の中、大きな役割を果たしたのが、オルガン学校の級友、カレル・ベンドルでした。ベンドルは裕福な家庭の息子で、彼の家には著名な作曲家の楽譜がたくさん揃っていました。ドヴォルジャークは、ベンドルの家に行っては楽譜を見て、写して、勉強したのです。その中で特に彼の気を引いたのは、ベートーヴェンの交響曲第5番でした。ドヴォルジャークは、この曲を徹底的に勉強し、自分もこのような曲を書きたいと思ったのでしょう。後でくわしく触れますが、実際、第1交響曲には、ベートーヴェンの交響曲第5番の影響を色濃く見ることができます。
★初恋と失恋
1864年、ドヴォルジャークは、金細工師チェルマークの3姉妹に家庭教師としてピアノを教えることになり、次女のヨゼフィーナの魅力の虜になりました。ドヴォルジャークの初恋です。彼女は女優になり、しばしばチェコ仮劇場の舞台に立っていたので、ドヴォルジャークは、彼女が出演する度に劇場の裏口から入って、その姿に見惚れていたのです。しかし、1865年5月、そんな淡い初恋は、あえなく消え去りました。ある日の劇場の帰り、カウニッツ伯爵が当時16歳だったヨゼフィーナに求婚し、彼女もそれを受けたという噂話を耳にしたのです。ドヴォルジャークは、後に、11歳だった妹のアンナと結婚しました。

★本格的な作曲活動の開始
ドヴォルジャークは、これまでにも多くの作品を作曲していましたが、1861年作曲した弦楽五重奏曲には初めて作品番号を付けました。翌1862年には、弦楽四重奏曲を作曲し、作品番号2としました。
次は、交響曲とでも思っていたのでしょう。1862年からは、チェコ仮劇場のオーケストラでヴィオラを弾いていましたので、多くの作曲家のオーケストレーションも実際に演奏して学ぶということもできました。
そして、作曲されたのが交響曲第1番です。
ドヴォルジャークはその曲をドイツの作曲コンクールに応募しました。
曲は選に漏れ、楽譜も返却されなかったようです。ドヴォルジャークは、そのことはおかまいなしに、この年の夏には2番目の交響曲の作曲に取りかかったのです。
(続く)
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