不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

石川淳「紫苑物語」

2018年07月01日 | 読書
 石川淳の「紫苑物語」を読んだ。一読してまず気が付くことは、多数の二項対立が絡み合って物語が進む点だ。表題に取られた紫苑(わすれな草)と萱草(わすれ草)、歌と弓、此の世と桃源郷、忠頼(鬼神)と平太(仏)、うつろ姫(淫蕩)と千草(清純)、子狐の化身と老いた狼の憑き物、という具合に。

 以上の例示は、思いつくままに、端的なものを挙げたが、他にも類例があるのはもちろんのこと、描写のディテールにも二項対立をなす例が散見され、それらの二項対立の連鎖が物語を進めるエネルギーとなっている。

 さらに、それだけではなく、二項対立の連鎖によって、次第に主題が研ぎ澄まされ、鮮明になり、先鋭化する。二項対立の連鎖は、その目的のもとで、意識的に選択された手法だろう。

 では、本作の主題とは何か。それは、一言でいえば、鬼だ。いつとは知れぬ古代の、都から遠く離れた僻地で、主人公の忠頼は、さまざまな有為転変の末、自ら鬼神になろうとする。鬼神になる道をつかみ取ろうとする。歌を捨て(文芸を捨て)、弓を捨て(武術を捨て)、仏と対峙する鬼神となることが、自らの道だ、と。

 生のエネルギーが急進化して、自分でも、それがどこに向かっているか、わからないまま、闇の中を突き進み、その究極のところで鬼神という概念に突き当たり、そして、そこに自らの道を見出すという、善悪を超えたドラマが本作だといっていい。そのような生のエネルギーの運動を、忠頼という人物で造形する試みが本作であり、その意味では本作は実験作だろう。

 わたしは本作を講談社文芸文庫で読んだが、そこには他に「八幡縁起」と「修羅」が収められている。「紫苑物語」との関連でいうと、応仁の乱を時代背景とする「修羅」の登場人物の一人で、被差別を率いる胡摩は、忠頼で造形された生のエネルギーの応用例といえる。

 加えて、胡摩がジャンヌ・ダルクを想わせることから、ジャンヌ・ダルクに触れようとしながら、ついに触れ得なかった「普賢」と本作はつながり、さらには「焼跡のイエス」に登場する戦争孤児にも、その不分明の萌芽が見られるのではないかと思う。

 なお、補足すると、「紫苑物語」で見られる二項対立の手法は、深沢七郎の「楢山節考」を思い出させる。主題はまったく異なるが、二項対立による主題の鮮明化という点では似ている。偶然だろうが、両作はともに1956年(昭和31年)に「中央公論」誌に発表された。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« MUSIC TOMORROW 2018 | トップ | 「紫苑物語」のオペラ化 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読書」カテゴリの最新記事