Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

樋口裕一氏の「特別な存在でなくなること」

2016年10月04日 | 身辺雑記
 東京新聞の10月3日夕刊に多摩大学教授の樋口裕一氏のエッセイ「特別な存在でなくなること」が載った。さすがにベストセラー「頭がいい人、悪い人の話し方」の著者だけあって、簡潔な名文だ。

 樋口氏は大分県出身で、現在は東京都にお住まい。昨年2月に大分県のご両親を東京都のご自宅近くの高齢者住宅に移した。お母様はそれ以前から軽い認知症に陥っていた。お父様は高齢者住宅に移った後、昨年10月に亡くなった。それらの日々に考えたことをお書きになっている。

 お父様は高齢者住宅に移ってから「あれこれと不満を言い出した。本来、愛情深い人なのに、周囲となじまず、意地を張り、妙な自慢をした。」が、お父様が亡くなった今、樋口氏は思う、「父は匿名の存在として扱われることに不満を抱いていたのだった。」と。

 一方、「軽い認知症ながら愛想のよい」お母様は、「多くの人に愛される存在」になっていたが、一人残された今は、「ヘルパーさんや周囲の人との関係を心配している。嫌われたのではないか、気を悪くされたのではないか。そんなことばかりを気にする。」。

 そして、結論として、樋口氏はこう言う、「高齢者問題で最も大事なのは、一言で言えば、一人一人の高齢者を特別扱いする状況を築くことだと思う。現在は公平性と効率性のために、多くの高齢者施設では特別扱いをしない。だが、それではいつまでたっても高齢者は不満を抱くだろう。」と。

 拙い要約なので、多くのニュアンスが落ちてしまっているが、このような趣旨のエッセイに、わたしは共感した。わたしは義母を自宅で看取った。ヘルパーさんに入ってもらった3年間の最後の時期に、わたしが心を痛めたことは、ヘルパーさんが義母の生活スタイルを理解せず、自分の尺度で一律に扱うことだった。

 わたしたち夫婦には子供がいない。いずれは一人になる。頭や体がしっかりしているうちはよいが、それが衰えたら、ヘルパーさんや高齢者施設のお世話にならざるをえない。そのときわたしは一律の扱いに耐えられないのではないか‥と思うと恐い。

 高齢者は‘個’として尊重してほしいのだと思う。でも、今の福祉の現場でそれができるのかどうか心細い。職員の方の忙しさとか、待遇とか、そういった問題はもちろんあるが、背景には‘個’の尊重という価値観が乏しい風土もありそうな気がする。

 結局は自宅で野垂れ死にが一番よいのだが、それも現実的には難しい。
コメント (2)
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