正統的というか伝統的との表現が良いのか、多くのファンがあった喫茶店「あすなろ」が復活していた。
午後4時からの1時間ほどの散歩コースにトヨタの販売店がある。
先日ここを通りかかったらショールームに懐かしい車が他の新車を圧する
存在感で鎮座していた。
トヨタ自動車初代クラウン(正確にはその後期モデル)。昭和37年頃の
製造なのでもう50年以上経っている。まだ車検を取って公道を立派に走
れるようだ。
私はある事情で、高校卒業とともにこの会社に就職し、そこで整備士とし
て4年間働いた。今では考えられない劣悪な作業環境の中でこの車やトラ
ックの修理をしていた。どちらかといえば非力な若者だったが、力仕事に
従事したことで頑丈体質に変わった。職業としての整備士は4年で終わっ
たが、その後に就いたいくつかの仕事ではこの体力でかなりの無理もこな
してこられた。そういう意味でこの車との出会いは私の人生に影響したと
ころ大である。そして車の構造を熟知することでその後所有することが当
たり前になった自分の車を長く乗り続けることができた。(何台かの車は
20万km以上走った)
この形式のトヨペットクラウンは隅から隅までの構造やそこかしこに使用
されるボルトやナットの形や種類を思い出すことができる。工具とジャッ
キ、バイス付の作業台があれば今でも殆どの部分を分解してまた組み立て
ることができるだろう。
当時の車はよく壊れた。修理してその機能を元に戻すのが当たり前だった。
アッセンブリーで交換ということはいくつかの例外を除けば無かった。殆
どのアッセンブリーはボルト1本に至るまで分解洗浄し、不良部分のパー
ツを交換ないしは修理して組み立て車に戻した。必然的に車の構造を熟知
することができた。
中でも国産初の自動変速機トヨグライドの修理は面白かった。ダブルクラ
ッチという運転技術が残っていた時代に自動変速機は驚異の技術だった。
プラネタリュームギヤとかハイポイドギヤという特殊な歯車も知った。ま
たトヨタよりも日産の方が元気があった時代であった。修理工場に持ち込
まれるトヨタ車ばかり見ていたので日産は壊れない車という先入観が植え
付けられた。
改めて運転席周りを見てみる。初期モデルに比較すると随分と洗練されて
いる。初期ではフロント一枚ガラスでなく2枚で真ん中に枠があった。
暖房装置はオプション、冬場に使うチョークがあった。寒冷時これを引い
てエンジンをかけたことを私世代は経験している。暖房機のない車の寒さ
は尋常ではなかった。後期モデルではオートチョークのキャブレータが装
備されて冬の朝にエンジン始動で失敗することが少なくなった。(失敗す
るとガソリン吸い込み過ぎになり点火プラグが濡れてしまうと暫くエンジ
ンがかからなかった。)それほど深くこの車の整備に携わっていた。4気筒
1990ccのエンジンも見たいのでボンネットを開けてと申し出たが受
付の孫世代のお嬢さんにやんわりと断られた。座席に乗り込むこともドア
に触ることも禁止なのだそうだ。半世紀の歳月がこの車をレガシーにして
いる。
こんな思い出を語っていると、いつの間にやら歴史の証人という年代にな
っていることに気付き呆然とする。
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