京都童心の会

ほっこりあそぼ 京都洛西の俳句の会
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「予定調和」という言葉

2021-09-01 07:50:17 | 俳句
「予定調和」という言葉
         金澤ひろあき
 ある句会で、若い人の句が討論されました。どういう句かは割愛しますが、ある若い人の句を年配の俳人が添削したのです。
 すると作者である若い人は、「僕はそんな予定調和的な考えは嫌だ」と抵抗したのです。
 ここで言う「予定調和」とは、「古い権威に従って、無難な作品にすること」ぐらいの意味でしょうか。しかし、本来の「予定調和」とは、そのような軽い意味なのでしょうか。
 「予定調和」とは、もとはキリスト教の中でもプロテスタントの考え方だそうです。
 それによると、神が誰を救うのか、救わないのかは「あらかじめ決まっている」そうなのです。ただ、人間は自分が救われる側なんか、救われない側なのか、「全くわからない」のです。
 「全くわからない」人間は結局「自分の自由意志」で「行為を選択」するしかないのです。しかし、各自の「自由意志による選択」こそが、全てを見通している神があらかじめ見通していることに合致するのです。それが明らかになるのが、歴史の最終日で、「最後の審判」と呼ばれています。
 本来の「予定調和」の意味で、先ほどの若い俳人の言葉を見直してみましょう。
 予定調和的に考えると、
1 俳句が評価されるか、されないかは、作者は全くわかりません。
2 そこで作者は、俳句をどう書くかは「自由意志で選択」します。
3 その選択の評価は「最後の審判」(未来)を待つのです。
 ところで、この若い俳人は「予定調和」を拒否しているので、こういう感じになります。
1 作品が評価されるか、されないかは、作者が知っています。
2 そこで作者は「自由意志」を捨てて、作品をどう書くかも、自分で「選択」しません。(評価される基準に則して書くようです。)
3 その評価は未来を待たず、「その時」「その場」だけのことになります。
 こうやって振り返ると、私自身は「予定調和」のほうに居ます。いや、多くの人が「予定調和」の中にあるのかもしれません。

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