鎌倉・海船教育会議(その1)

2007年09月27日 | 風の旅人日乗
9月26日夕方。 
航海訓練所の帆船海王丸の一等航海士のO君と鎌倉駅前で待ち合わせをして、豆腐料理屋さんに行き、美味しい豆腐料理と酒を前に、いろいろなことを語り合った。
海王丸は、横浜杉田のIHIでのドックを終え、明日27日、東京港の晴海桟橋に向かうらしい。翌朝の出港が早いと言っていた彼の言葉を忘れてしまい、O君に夜遅くまで付き合ってもらった。



O君は、突然発生した個人的事情で沖縄に戻れなくなったぼくのピンチヒッターとして、沖縄から熊本まで、ホクレアとカマヘレを水先案内してくれた、ぼくとすべてのホクレア関係者にとっての恩人だ。

沖縄から熊本に至る海は、特に春先は気象の変化が激しい。その上、黒潮が荒々しく流れて、波が著しく悪い海域も何箇所かある。さらに、見張りの義務を怠る外国船籍の船舶の交通量も多く、衝突事故も多く起きている。つまり沖縄から熊本までのレグは、今回のホクレアの日本航海の中でも最大の難所だった。



O君がいなければ、ホクレアとカマヘレが無事熊本までたどり着いたかどうか疑問だった、と今でもぼくは思っている。

4月23日の日没直前の17時30分、北緯26度11分、東経128度01分の沖縄本島沖でホクレアをやっと見つけて伴走を始め、翌日未明の糸満港までエスコートしたときにもO君はぼくの補佐を務めてくれた。
糸満入港からほんの数時間後の4月24日の早朝、ぼくはナイノア・トンプソンとチャド・バイバイヤンと次の寄港地である熊本県・宇土の入港方法の詳細などについての打ち合わせを済ませ、そのままO君が運転する車で那覇空港に向かい、その日の朝一番の飛行機で慌しく東京に戻った。

その後ぼく自身の身の回りに発生した、東京をどうしても離れられないという辛い事情と、ホクレアとカマヘレを“絶対に”無事に熊本まで届けなければならないという使命感の間で、どちらを選択すべきなのか、ぼくは恐らくこの一生の中で最も激しく悩み抜いた。身体が2つあればいいのに、と本気で願った。

そのとき、ぼくの代わりとして、ぼくが安心してホクレアとカマヘレの安全を委託することができ、人間性にも優れた海と船のプロフェッショナルは、O君しかいなかった。

しかし、彼は航海訓練所の一等航海士という職員であり、休暇中とはいえ、勝手に海に出ることは、しかも責任ある立場で、ある航海に立ち会うことは、職務上許されていなかった。彼の職場の上司からも、「西村さんの補佐という形であればよいが、O君を単独で航海に出すことは、考えないで欲しい」という、彼の立場を考えての、厳しいお言葉ももらっていた。

もし、O君が乗れなかったら、自分としてはホクレアを選ばざるを得ない、と決心したが、そうすれば、自分は自分の身内の中で、今後身の置き所のない人間になってしまうだろう、と思うと辛かった。心から血が出る思いとは、こういうことなのか、と思っていた。

しかし、O君は、そういうぼくの心を見透かしたかのように、職場での自分の立場が危うくなることを覚悟した上で、ぼくの代理として一人でホクレアを熊本まで水先案内することを決意し、上司を説得して回ってくれたのだ。

(続く)

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