風の旅人 西村一広 Sailing Diary

海とセーリングだけの人生で考えたこと、悩んだこと、感動したこと、学んだこと、あれやこれや。

ホクレア経由アメリカスカップ

2010年01月23日 15時33分19秒 | Weblog
1月17日 葉山
ヨットデザイナーのH氏の発案で、仲間内の新年会。
H氏を尊敬する若手ヨットデザイナー陣や海洋カメラマンたちが集まり、
それぞれがすごい酒豪なものだから、ものすごい酒消費量を伴う、
えらく楽しい宴会になった。

でも内容は真剣。
日本のセーリング界が復興するにはどういう手を打てばいいのか、などを中心に、午後3時からけっこうな深夜まで、まじめに話し合った。


1月21日 横浜
横浜市職員兼名うてのOC6の漕ぎ手Y氏と、湘南の伝説サーファー兼名うての広告プロデューサーDサンと一緒に、航海訓練所へ。
Y氏発案の、ホクレアと横浜市を繋ぐプロジェクトについて、
ホクレア関係者の間ではすでに有名な、航海訓練所のA船長に相談するため。

A船長は、この会合に備えて、同所の優秀なスタッフの方々の時間をおさえて
その皆様に同席して頂く手配をしていただいていた。
若いY氏が、汗をかきかき一生懸命に説明する企画の趣旨を、
皆様深く理解いただき、非常に前向きにご検討いただくことになった。

この会合の後、A船長は同所のO理事長との面会もアレンジして下さり、
理事長室では、ホクレア日本来航の際の、思い出話を咲かすことができた。

ホクレア日本航海における最も危険なレグのひとつであった沖縄-熊本間の水先案内を、
個人的事情が突発して急遽乗れなくなったぼくのピンチヒッターとして、
これまたホクレア関係者の間では有名な、O一等航海士がカマヘレに乗艇できるようになった裏には
非常に難しい判断を伴ういきさつがあった。
それを解決する判断を下して下さったのが、O理事長だった(当時は理事長職ではなかった)。

O理事長は、ぼくが大学1年生のときに乗った練習船で次席2等航海士(私の記憶が確かなら…。最近怪しい)だった方だ。
10代の若造だったぼくに、航海士としての基本を、海の上で温かく教えてくださった方だ。
そのような雲の上のような方と、ホクレアを核にしたお付き合いが再びできていることに、
感謝している。

ホクレアの日本航海を振り返るとき、
ぼくは航海訓練所の職員の方々から受けた恩を決して忘れることができない。
O一等航海士、A船長、O理事長、I様、S様・・・、本当にありがとうございます。


1月23日 葉山→成田→ホノルル
やり残した仕事をやっと終え、最後に1時間ほど余裕があったのでこのブログを書き、
これから成田に行き、ハワイ・ホノルル行きの飛行機に乗る。

明後日から、ホクレアの8日間ぶっ続けの外洋セーリングトレーニングが始まる。
日々の慌ただしさに追われ、航海術の予習も、肉体トレーニングも不足している。
とても不安だ。

A船長や現地からの情報によると、
エルニーニョの影響で、ハワイ周辺には安定した貿易風が吹いてない様子なので、
肉体的にはちょっと苦しいトレーニングになるだろう。

でも、O一等航海士改めO准教授(O氏は富山高専の先生になった)も一緒だ。
航海術の部分で分からないところは、全部O准教授に聞けばいいさ、と開き直っている。

2月3日夜に日本に帰国し、2月6日朝には、第33回アメリカズカップを現場で観るためにスペインのバレンシアに向かう。
なので、このあとこのブログはしばらく中断します。

2月7日あたりから、スペインで再開することを、目標としています。


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2009-2010年末年始日記

2010年01月13日 10時37分41秒 | Weblog
2009年12月24日。
2009年のセーリング収め。
NACRA5.5という名前の、双胴艇。舶来語で言うと、カタマラン・ディンギー。
葉山、森戸海岸沖。

[copyright:Sakai/KAZI]

専門誌の取材を兼ねていたので、微風下だったけど、
カメラマンのために、なんとか風上側の船体を空中に上げようと努力して、
やっといい感じに片ハルが浮いたところに、タイミングがいいことに、
この日一番のパフが入り、メインシートを出したが、
ブロックのフリクションでシートが出ずに、あっという間に、転覆。

[copyright:Sakai/KAZI]

[copyright:Sakai/KAZI]

[copyright:Sakai/KAZI]

ウエットスーツもドライスーツも着てない状態で、年末の相模湾を泳ぐ。
相模湾で素肌の冬のスイミングは初体験。
冬の海水浴はとても寒いことだと知る。

この日クルーとしてマルチハル・セーリングに付き合っていただいたO田さんと [copyright:Sakai/KAZI]


この転覆からの復帰に手間取って、鎌倉由比ガ浜への帰着が遅れ、
この日、このあと、夕方4時に東京で、こちらからお願いしていた重要なアポをキャンセルせざるを得なくなる。
海に出る日は、何があるか分からんのだから、そのあとの予定を入れたら相手に迷惑をかけるのだ、絶対に避けるべし! との認識を久し振りに新たにする。


12月25日。
一族郎党を引き連れて、北九州・小倉に里帰り。
雨の福岡空港に降り立つが、小倉行きの高速バスにタッチの差で乗り遅れ、地下鉄で博多駅に行って、新幹線で小倉駅へ。

遠賀川を渡るときに
「オトウはこの川の下流の漁師町で遊びながら育ったとよ」
と隣に座る幼稚園年中組の娘に説明するも、彼女は長旅に疲れて熟睡中。残念。


12月28日、29日。
帰省先の小倉から関西へ出張。2009年の仕事納め。
普段、東(関東)から訪れることに慣れている関西に、西(九州)から訪れることに新鮮さを覚える。

翌日の帰りの、新大阪から小倉までの新幹線は、帰省の人たちでいっぱい。
故郷に向かう車内で、どの顔もなんとなく明るい。
お正月を過ごすふるさとはいいものなんだなあ、と思う。
あ、自分も同じだった。

小倉駅で母と家族と待ち合わせ、小倉の街で年末ショッピング。
ここは高校を卒業するまで暮らした街。
毎週のように通った数軒の映画館は、ことごとく廃業したり、商売換えをしてしまったけど、
美味しい油揚げと冷たい麦茶が懐かしいうどんの「はるや」は、今も健在。
高校生の空腹を満たしてくれた焼きうどんの「だるまや」もまだある。でもさすがに、あのおばあちゃんはもういないんだろうな。

この日の昼は五島列島のうどんを食べさせてくれる店で、とろろうどん。
「とろろ」と言っても「とろろ昆布」。アゴ出汁が効いて旨い。麺はそうめん方式の手延べ麺だ。
早朝、新幹線に乗る前に新大阪駅構内ですすったのに続いてこの日2度目のうどん。
関東にいるとき、ぼくは蕎麦食いで、外食でうどんを選ぶことは皆無だが、
京都から西では、何がどうあってもうどんに限る。


明けて新年、2010年1月3日。
小倉高校時代に水泳部の同期だったMと、劣等生仲間だったHとWの4人で、
小倉駅前のコレットで待ち合わせ、焼き鳥本陣の開店を待って店内になだれこみ、新年会。
冬休みのバイトに励む高校生が、太鼓をドドンと鳴らして、本日の口開けご新規4名様を歓迎してくれる。

K大の法科に進んだMは、「K大はK大でも、俺は“あほうか”やけんねぇ」と当時自分を卑下していたが、
卒業後転進を決意して、国立Y大学医学部に進学、
今では小倉南区で内科と外科の病院を開業するお医者さん。
本人は言わないが、福岡県の外科医師学会でも要職に就いているらしい。

Wは家業の大きな材木屋を継いで、今は堂々たる社長さん。

某有名外資系企業の営業で辣腕を振るったHは、昨年独立して博多に事務所を開いてコンサルタント業を営んでいる。

タイムマシンに乗ったように、焼き鳥本陣のテーブルの一つで、
4人のおじさんたちが高校生時代に帰る。
ぼくの小倉弁も、徐々に戻ってくる。

ラグビー部だったWと水泳部だったぼくは、ひとりの背の高いテニス部の女の子をめぐって闘ったことがあるらしい。
そうやったかのー? 
すっかり記憶から欠落していた。

そう言えば、夏休みにキャンプで行った山口県の角島の浜で、Wとその件で大声で話しているシーンを、
夏の星空の光景と、夜の日本海の潮風の匂いと一緒に思い出した。
当時は酒に弱かったMが、その横で「頭が下がる、頭が下がる、気持ち悪い」とつぶやきながら、
砂の上を仰向けになってグルグル回っていたことも、ついでに思い出した。

Hが時々教室からいなくなっていたのは、
授業をサボってゴルフバッグを肩に担いで自転車を漕いでゴルフ場に行き、
ゴルフの修行をしていたためらしい。
それを知りつつ容認していたのは、ラグビー部顧問だった体育の先生だ。
男気のある先生やったけんのぉ。
あの頃Hのヒーローは、ジャンボ尾崎やったっちゃねー。

みんなによると、その頃からボクは、将来は海に出る、船に乗る、とうるさかったらしい。
「ガールフレンド不要」、「不言実行」を、幼少より人生の座右の銘としてきたつもりだったが、どうも、そうでもなかったみたいだ。

小倉高校はよく勉強できる生徒が多く、学年内で思ったような成績が取れないことを気に病んだこともあったが、
そのうちに、
「高校では将来の海での生活に備えて体を鍛えることに専念し、
密かに酒のトレーニングも始めておき、
勉強のほうは商船大学の航海科に入れるだけの成績であれば十分やんか」、
と開き直っていたような記憶も、脳みその隙間からじわじわと滲み出てくる。

黒麹霧島のボトルを3本空け、4人のおじさんたちは再会を期して、
翌日の仕事始めに備えて、それぞれの家族の元へと、ヨレヨレになって解散した。
Hは本当にヨレヨレに酔うとったけど、博多まで無事帰り着いたやろか?


1月4日、5日。
この日80歳になる父の誕生祝いを兼ねて、家族全員で、玄界灘内の小エリアである響灘に面した岬に建つ、若松の温泉に行く。
JRで小倉から折尾へ。その駅に宿からの車が迎えに来ることになっていた。

折尾は、いつも美味しいお酒を飲ませて頂いている鎌倉の豆腐料理屋『葉』を営むBさんの故郷でもある。
Bさんは、ぼくの母と同い年だ。

駅前に東築高校のラグビー部の生徒がたむろしている。東築高校は俳優の高倉健さんの母校でもある。
宿からの車を待つ間、女衆を駅前のミスタードーナツに置いて、父と2人で折尾駅周辺を歩く。

父は、第2次世界大戦での日本の敗戦直後、この折尾から程近いところにあった炭鉱で働きながら、
小倉の北九州外国語専門学校(現・北九州大学)に通った。
朝、炭鉱から煤で真っ黒になって出てきて風呂を浴び、
朝飯も食べずにこの折尾駅まで歩き、
旧国鉄と西鉄路面電車を乗り継いで大学に通った。

父は大学を卒業すると、玄界灘に面した小さな漁師町の中学校の英語の先生を振り出しに教職の道に入った。
その直後、当時は死病でもあった肺結核を患って長い療養所生活も送ったが、
ボクシングの九州学生チャンピオンの意地を見せて見事帰還。
我々家族を養いながら、自身の野心にも沿って努力し、
周囲の先生方に比べて、学歴の劣等感は常に彼を苦しめたようだったが、努力のバネにもなり、
県立高校の校長を歴任したり県の教育委員会勤務も経験した。
公務員定年後は、九州最大の私立予備校の校長職を10年も勤めてから、教育一筋の現役人生を引退した。

折尾駅周辺には、
父が経済的に親に頼ることもできずに大学に通った、苦学生だった頃の、青春時代の思い出が詰まっている。

折尾の駅舎はとても古い。
ぼくの記憶にある幼稚園の頃から同じ建物なのではないかと思えるが、
父によるとさらに、父の学生時代からもほとんど変わってないようだと言う。

「ここには映画館があった」、
「ここに直接プラットホームに上がれる小道があった」、
「あの写真屋さんは昔からあの場所にあった」、
と父は興奮で頬を上気させている。

父の記憶はとても鮮明で、きめ細やかだ。苦学生だった頃の町の風景が、脳裏に鮮明に蘇っているのだろう。

しかし、遠い昔の記憶は鮮明でも、父は最近、数分前の記憶が消えることが増えている。
母が心配して、時々状況を電話で伝えてくる。
いまだにプールで泳ぐことを日課とし、腕立て伏せ70回をこなし(敵わない!)、庭の雑草抜きも苦にならない様子の父だが、
ぼくが父と共有することができる時間は、もしかしたら、もうあまり残されていないのかもしれない。

「そのとき」のことを思うと、山田太一の『異人たちとの夏』の悲しく辛いシーンが重なってくる。
父と話しておくべきことはたくさんあるはずなのに、面と向かうとなんだか照れてしまう。
もっともっと父からいろんな話を聞きたいと思っているのに…。

迎えの車が来てくれる時間が近づいてきたので、父と、再びここに来よう、と話しながら、駅に戻る。
さっき、ミスタードーナツの店内の席に着いた母に
「ちょっと駅の周りを歩いてくるから」と話しかけていたくせに、
「ありゃ、母さんはどこに行ったんかなあ?」と、
駅舎の中を覗いてキョロキョロしている父の独り言が聞こえない振りをして、
父の背中を押して、一緒に店までみんなを迎えに行った。

若松の宿からは、宗像大社の沖にある神様の島、沖ノ島や、ぼくが生まれ育った芦屋町、
そして関門海峡の玄界灘側の入り口に至る海を一望することができた。

この日、この地方の冬の名物である北西の季節風が吹き荒れ、
玄界灘に繋がる響灘は大時化だった。
ホクレアを水先案内したときのことを思い出していた。

翌日、若松の温泉からの帰り、
小倉城の近くにある松本清張記念館に行き、
みんなでゆっくりと見て回った。

通っていた中学校のすぐ近くにできた松本清張記念館のことは、
小倉に帰省するたびにいつも気になっていたのだが、なかなか行く機会を見つけることができなかった。

行って良かった。
展示の充実振りに正直驚いた。
極貧時代を小倉で過ごした松本清張の話は、ごく近い距離にいた人物の話として、子どもの頃母方の祖父から良く聞かされていた。
松本清張の3年ばかり先輩で、『無法松の一生』の原作で知られる岩下俊作も、祖父母と同じ町内に住んでいた。

松本清張記念館を出たあと、粉雪が舞う中を小倉城に登って久しぶりに小倉の街を俯瞰し、
それから、父母が結婚式を挙げた八坂神社に、みんなでお参りする。

明日1月6日、関東に戻る。
2010年の戦闘開始だ。


1月7日 神奈川県・葉山新港。
2010年仕事始め。
詳しいことは書けないが、新発想のセール(帆)の話。
仕事になるかどうかは今のところまったく予測できないが、
しかし、新年早々大好きなセールの話を仕事としてできるとは、
今年は春から縁起がいい。


1月8日 東京。
自分にとってはまったく未知の分野で大活躍をしておられる2人の方と、
午前中からお昼過ぎにかけて別々にお会いする。

今後、どのような形で仕事をご一緒していただくかはこれから探っていくことではあるが、若くして成功体験をしたお2人のオーラを、存分に感じ取ることができた。

午後、深川の門前仲町、富岡八幡宮に行き、御札をいただく。
おみくじ、吉。
ヨッシャー!

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