風の旅人 西村一広 Sailing Diary

海とセーリングだけの人生で考えたこと、悩んだこと、感動したこと、学んだこと、あれやこれや。

ハワイ島 (1)

2009年09月07日 12時28分40秒 | Weblog
ナイノア・トンプソンは、太平洋に拡散した民族が遥か数千年前から伝承してきた航海術を現代に引き継ぐナビゲーターである。

ナイノアは、太平洋の島々に住む民族が、祖先から伝わる航海能力と文化を誇りに思い、それを未来に伝えていくことを強く願っている。
ナイノアは航海セーリングカヌーのナビゲーターとして太平洋を自由自在に航海する。
ナイノアは、ポリネシア人と同じように太平洋に浮かぶ島国に住むわれわれ日本人もまた、祖先を同じくする太平洋民族の一員であると強く信じている。

ぼくが、ナイノア・トンプソンというハワイ人の名前を初めて知ったのは、もう10年近く前のことになる。彼のことを書いた本や、彼をテーマの一つとして作られた映画を通じて、ナイノア・トンプソンという人物が、太平洋を舞台に非常に意義深い航海や活動を成し遂げてきたことを知るようになった。

その後、実際にナイノア・トンプソンに会うことになり、ハワイの海を走る航海カヌーに乗って一緒にセーリングしたり、沖縄の海でパドリングを共にするようになると、彼の存在と生き様は、ぼく自身の考え方や生き方そのものに、深い影響を及ぼすようになった。
・・・海で生きる人間として、こういう男に自分はなりたかったのではなかったか・・・。
彼のような姿勢で海とセーリングに関わりたくて、現在に至る自分の生き方を選んだのではなかったか・・・。

ナイノア・トンプソンという人物に触れて以来、自分が日本人であることの意味や、ぼくたち日本人が海に出ることの意味、そしてセーリングという文化に自分が関わっている意味について、真剣に考える時間が増えた。

そうなってくると、セーリングの技に長けることやヨットレースで勝とうとすることだけに人生の意義を見出そうとしていたそれまでに比べて、海の上で過ごす時間やセーリングそのものに、一層の愛着を感じるようになった。
そしてさらに、自分が日本人として生まれたことや、海で生きる人生を選んだことの誇らしさが、我ながら驚くほど、強く湧いてくるようになった。

ノルウエーの故トール・ヘイエルダール博士は、太平洋の島々に生活するポリネシア人たちが南米大陸から海流に乗って太平洋に拡散したという仮説を実証するためにバルサ筏・コンティキ号での実験航海を行なった。
だが、ヘイエルダール博士の立てた仮説はいかにも西洋人らしい固定観念に縛りつけられていた。彼は、他のほとんどの西洋知識人と同様、古代太平洋民族が西欧の航海術を上回る航海能力や知的水準を持っていたはずがないと考えた。したがって、ポリネシア人たちが海流と貿易風を遡って西から東へ拡散していった可能性を検討することなど、彼には思いもよらないことであった。

しかしヘイエルダールの実験航海後しばらくすると、動かしがたい考古学上の発見や科学的調査分析を通じて、彼の仮説が間違っていたことが明らかになる。

現在では、太平洋の民族と文化圏は西から東へ、つまり現在のミクロネシア、メラネシアを経てポリネシアに拡散していったこと、そしてその一部が南米まで到達したこと、などが明らかになっている。
相変わらずの固定観念から抜け出せない多くの西洋人考古学者たちも、この学説については渋々認めざるを得なくなっている。

しかしこの学説の大部分は、実は今から200年以上も前に、皮肉なことに、西洋人の英雄であるキャプテン・ジェームス・クックがすでに看破していた。

クックは複数回に渡る太平洋への遠征航海を通じて、広大な太平洋に広がる、ポリネシアからメラネシアに至る島々で使われている言葉や文化が同じ系列であることに気付いた。
そして、彼らが操る全長30メートルを越すセーリング航海カヌーが高速で走るのを目の当たりにする。また、彼の西洋型帆船に水先案内として同乗したタヒチの長老が示した驚くべき航海能力から、彼らが太平洋についての深い知識と高度な航海術を持っていることを知った。
それらのことから、太平洋の民族が非常に古い時代から太平洋の島々を自在に行き来してきたことを、クックは驚きを持って確信せざるをえなかったのだ。

キャプテン・クックはさらに、太平洋民族の航海術の詳細について知り得たことを報告している。
すなわち、西洋航海術では不可欠な、時計をはじめとする天測用具を一切必要としないらしいことと、彼らがそれぞれの島への方位、距離を正確に把握しているらしいこと…。
しかしクックは、太平洋の民族の航海術についてそれ以上具体的に知ることはできなかった。

その後、比較的最近になって、ミクロネシアの島々にかろうじて残っている伝承や、数少ない航海士の末裔の記憶から、その航海術の実際が世に知られるようになった。

その伝統航海術は、それぞれの島の、航海士として特殊な能力を備えた子孫だけに伝承されていく。
その航海術は、すべて、数千年の昔から脈々と受け継がれてきた”記憶”だけで成り立っている。
その航海術は、どんな道具も使わなければ、データを記録する筆記用具の類も必要としない。
その航海術は、歌として記憶した星や太陽の位置、脳に記憶した航海時間とスピード、カヌーを通して体に伝わる海のうねりなどの情報を元に、目的地へと向かうのだ。

次世代の航海士と定められた者は、生れた直後からそのための教育を受け始めるが、それは、膨大なデータを記憶し海での感覚を研ぎ澄ますために、みずみずしい状態の脳細胞が必要とされるからだ。

ナイノア・トンプソンは、この航海術を自らの意思で学ぶことを決心したが、そのとき彼はすでに20歳を越えていた。伝統航海士としては、遅すぎるスタートだった。
しかし、祖先がかつて持っていた航海能力を自分が蘇らせ、自分が後生に伝えなければならない、という信念が、彼を衝き動かし、不可能への挑戦を奮い立たせた。

ナイノアはミクロネシアのサタワル島を代表する航海士、マウ・ピアイルグから伝統航法を学んだが、それと同時に、現代の天文学と自然科学を猛勉強した。
天文学を勉強したのは自分独自の星測航法を取り入れるためだった。
自然科学を勉強したのは観天望気を近代科学で補強するためだった。
航海士はカヌーのコースを決めるだけでなく、天候の変化を予測し、カヌーと乗員の安全にも責任を持つ。
ナイノアはこれらの工夫と努力によって、成人してから伝統航法を学ぶというハンディキャップを克服しようと考えたのだ。

1980年。27歳のとき、ナイノアは全長62フィートの双胴セーリングカヌーホクレア号のナビゲーターとしてハワイ-タヒチ間、片道それぞれ約30日に及ぶ往復航海を成功させる。
安全の目的で伴走船が随行したが、針路はもちろんホクレア号の航海士であるナイノアが決定した。
伴走艇はその後ろを、後日の研究のためにホクレア号の実測コースを記録しながら走ったに過ぎない。

航海後に照らし合わせてみると、ナイノアの推測コースと電波航法で伴走艇が測定した実測コースは、誰もが驚くほど接近していた。それはその後のいかなる航海の際にも同様だった。

1985年には、ナイノアが率いるホクレア号は、2年間をかけてタヒチ、ニュージーランド、トンガを巡ってハワイに戻るという大航海に出かける。そして、それらのコースのすべてを伝統の航海術で走ることに成功した。

タヒチからニュージーランドに至る航海は、ハワイキ(現在のタヒチ西側の島だと想定されている)から指導者パイケアに率いられて祖先がやってきたというマオリ神話を実証する形になり、マオリの人々に深い感銘を与えた。
神話を目の当たりにしたマオリの人々は自分たちの民族に対する誇りを思い出した。それはその十数年後製作され日本でも大評判になったニュージーランド映画『クジラの島の少女』を生み出すキッカケにもなった。

ニュージーランドに限らず、伝統航法によるホクレア号の太平洋周航は、太平洋の民族に大いなる勇気を与えることになり、
各島でホクレアと同じような航海カヌーが相次いで造られ、
それぞれが伝統航法を使って太平洋へと乗り出すようになった。

ホクレア号に乗せてもらった日のことを思い出す。
一晩をかけてオアフ島からマウイ島までをセーリングした。
左右両舷の後ろ側、航海中ナイノアが常に座る場所の手摺には、幾筋かの切り込みが彫り付けられていた。ナイノアが考案したスターコンパスの目盛りだ。

真夜中。
波の大きなモロカイ・チャンネルの真ん中だというのに、伴走艇のドライバーと運転を交代して休ませるために、Tシャツを脱いだナイノアは小さなトーチだけを手に海に入り、伴走艇へと泳いでいった。
月のない夜。
ホクレア号とその周囲の海は、なんだか不思議な空間と時間に包まれていた。短いけれど、素晴らしい航海であった。

2003年の6月、ナイノアはサバニに乗るために沖縄にやってきた。サバニは、現在ではほとんど実用に使われることはなくなっている、沖縄に古くから伝わる優秀な性能を備えた帆装小舟だ。
慶良間諸島の座間味島から那覇までの航海に乗り出す朝、ナイノアに率いられた日本ハワイの合同クルーが、それぞれの手を繋いで円陣になって航海の安全を祈る。ハワイで、ホクレア号の出港前にも同じ儀式を行なったことを思い出した。目を閉じてナイノアがつぶやく静かな祈りの声を聞いていると、自分にも航海民である先祖の血が流れているのだという、不可解だけれど幸せで、雄々しい気持ちが満ち満ちてくる。

それから4年後の2007年、ナイノア・トンプソンは長い間暖めていた計画を、ついに実行に移した。ホクレア号による、ハワイからミクロネシアを経由して日本を目指すという、ホクレア号による大航海計画である。
(続く)

「続く」、のですが、今夜からしばらく日本を留守にします。
ここに書いてきたホクレアでのトレーニングに参加するためです。しばらくはこのブログは更新できません。
10月から燃油サーチャージが復活するためか、9月の飛行機の席はいっぱいいっぱいになっていて、ハワイからの帰り便は空席待ちです。ですので、帰国日は一応2週間くらい先ですが、未定です。
なので、「続かない」かもしれません。
スミマセン。

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スカンジナビア漂流 ・北欧の海洋文化を辿る旅・ (最終回)

2009年09月03日 04時38分01秒 | Weblog
バイキング船<ガイア>誕生


バイキングが活動したのは9世紀から11世紀の前半にかけてのことで、Norsemenと呼ばれる民族の多くがバイキングと呼ばれた。湾(Vik)に住む人、という意味でViking、バイキングと呼ばれたのだということを、かつて、故・野本謙作先生に教えていただいた。

サンデ・フィヨルド郊外のゴックスタで、その地方の首領の埋葬に使われたバイキング船が発掘されたのは1880年のことだった。
バイキング時代、有力者は自分の船ごと埋葬されていたのだ。

この船は注意深く復元作業を施された後、現在オスロ市にあるバイキング船博物館に展示されている。

バイキングは、コロンブスが“新大陸”を“発見”する15世紀よりも、さらに500年前、10世紀後半にすでに現在の北アメリカ大陸東海岸まで航海していた。
つまり、ヨーロッパ系新人類(コーカソイド)として初めて北アメリカ大陸に到達したのは、ぼくらが学校で教わったこと(コロンブス、アメリゴ・ベスプッチが北アメリカ大陸を発見した)とは違って、バイキングたちだったのである。

彼らバイキングはその大陸の一部を「ワインの国」、Vinland(ヴィンランド)と呼んでいたという。現在のニューファンドランド辺りである。

ゴックスタで見つかったバイキング船の精密なレプリカを造り、それに乗ってヴィンランド、アメリカ東海岸まで行こう、という運動が盛り上がったのは1980年代の終わりのことだった。

2年をかけてこのレプリカが完成し、そのバイキング船は<ガイア>と名づけられた。
1000年以上も前に造られたバイキング船の精巧なレプリカを建造することができたのは、この地方に現代まで途切れることなく伝わる造船術があったからだ。
発掘されたバイキング船の構造のほとんどは、西ノルウエー地方で現在でも木造船の構造に使われているものと同じだったのである。

<ガイア>は1991年に、まずはニューヨークまでの大西洋横断航海を成功させ、そこから南米大陸ブラジルのリオデジャネイロまで到達して、そして無事サンデ・フィヨルドにもどり、バイキング船の航海能力を改めて現代の北欧人に印象付けた。

出土したバイキング船の構造を正確に復元した〈ガイア〉の船体構造は驚くべきものだ。

外板をフロア材に接合する部分の構造をよく見ると、フロア材と外板の間に隙間が空けられ、それらが細いロープで縛り付けられている。
つまり、外板とフロア材の間には、ごくわずかだが隙間があるのだ。こういう構造は、これまで他の船では見たこともないものだった。

<ガイア>が大西洋を横断したとき、大きな波を受け、その波が船底に衝撃を与える際に、船底外板がフロア材との隙間分だけたわむことによって波のパワーの一部を抜き、波の衝撃がフロア材に直に伝わって船全体に掛かる荷重を軽減する効果があることが分かったという。つまり、外板とフロア材の間に作られたわずかな隙間は、波の衝撃のショックアブソーバーとして機能することが分かった、というのだ。

話を聞いているだけではにわかには理解できないことだが、実際に〈ガイア〉で大西洋を渡った人たちが、現実に感じ取ったことなのだから、間違いのないことなのだろう。
バイキングたちの驚くべき知恵である。

現代の船言葉の語源どおり、〈ガイア〉のステアボード(舵)は、スターボード・サイド(右舷側)にが付いている。
とねりこ材でできた舵柄も正確に復元された。
舵の面積は、船の大きさに比べてかなり小さい。大きすぎる舵は、負荷が大きくなって壊れやすいし、船を速く走らせることにはマイナス要素になる。
舵を左右に動かすためのフレキシブルな軸には、レプリカではワイヤーが使われているが、当時どんな材質が使われていたのか、まだ分かってないのだという。

外板には黄色の三角形と黒のコンビネーションの、沖縄糸満のハーリー船の彩色を彷彿とさせる絵柄が描かれている。距離と時間を隔てた2つの船の彩色の符合に、鳥肌が立った。

復元バイキング船〈ガイア〉のマストを支えるシュラウド(マストの横方向を支えるリギン)は、素早く着脱できる木製のペリカンフックのようなもので船体に固定されている。

バイキングの時代、敵船に遭遇して海上戦になった場合、シュラウドがまず狙われた。相手に接近し、すれ違いざまに相手の船のシュラウドを蛮刀で切れば、マストが倒れ、その船はその後セーリングすることが出来なくなるからだ。

それを阻止するため考え出されたのが、素早くシュラウドをはずしてマストを倒しておくことができる、このペリカンフックを使ったシステムなのだという。
セーリング中は、セールを引き込むときに邪魔になる風下側のシュラウドをはずして、セールを強く引き込んで、風上に切り上がっていくセーリングもやっていたのではないかと思う。

バイキングたちは、速く走るために船を少しでも軽く造るべきだということも知っていた。
技術を駆使して船を軽く造っておいて、空荷で走る航海では、船体中央部に石を積んで復元力を増し、大きなセールを張って帆走した。
略奪品や交易品などを得た帰りの航海では、石を捨て、代わりに船底に荷を詰め込んで復元力を確保した。

デッキに置いた箱に私物やキッチン設備を入れるやり方は、太平洋をを自在に走り回っていたポリネシア人たちが双胴セーリング・カヌーでやっていた知恵と共通する。
バイキング船にはオールで漕ぐ際に必要なベンチがないため、船を漕ぐときは各クルーの私物を入れた箱をローイング・ベンチとして使っていたと考えられている。

親船と一緒に出土した小舟も復元された。うっとりするほど美しいカーブが連続する舟だ。
この舟は起倒式のマストを備えてセーリングもできるようになっていて、この小舟も、スターボード・サイドにステアボード(舵)が付いている。

バイキング船以来、この地方に伝わるオールは、先が鋭く尖っている。その時代、オールは戦闘の際の武器としても使われていたのだ。

現在、<ガイア>は地元の有志たちが保管・整備し、夏は毎週セーリングの練習をしながら、次なる航海に備えている。

祖先が乗っていた船を発掘し、そのレプリカを造って祖先が航海した海を辿る。
なんと幸せなことだろう。祖先の血を自分の血管の中にそのまま感じることができるに違いない。

日本にも菱垣廻船、北前船、八丁櫓、ウタセ船などの伝統帆装船を復元した例はある。しかしこれらは、なぜか広く一般に知られることのないまま、博物館にひっそりと展示されていたり、人知れず港のはずれに舫われたままであったりする。

日本ではバイキング時代よりもさらに数千年前の、縄文時代前期の大型丸木舟さえ各地で出土している。
そんな古い時代から海上交易を盛んに行なっていた事実も発見されている。日本列島に生活し、文化を築いてきた祖先たちは、北欧の民たちに勝るとも劣らない優秀な海洋民族だったに違いないのだ。

この北欧の旅で見てきたものは、日本の海洋文化を掘り起こしていく活動のヒントになるはずだ。その道を、これからも一所懸命探り続けることにしたい。

(おわり)
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スカンジナビア漂流 ・北欧の海洋文化を辿る旅・ (7)

2009年09月02日 09時31分38秒 | Weblog
情熱のレストア集団


その不思議なヨットクラブは、北緯59度7分22秒、東経10度13分58秒という場所にあった。

そのクラブのメンバーのほとんどは、木造艇を所有している。ただし、それらはただの木造艇ではない。
メンバーたちがつかの間の夏のセーリングを楽しんでいるそれらの艇の大半は、丁寧にレストアしたり、再生不能なまでに朽ちたボートを精巧に複製した、ノルウエーの古い船文化が現代に突然出現してきたようなボートである。

クラブハウス前の桟橋に舫われたそれらの艇たちを見ていると、恐竜たちが現代に蘇る映画「ジュラシック・パーク」をふと思い出させられさえもする。

ここのヨットクラブのメンバーは地元の医者や弁護士、リタイアした元会社員たちだ。彼らのほとんど全員がプロ顔負けの木工技術を駆使して古い艇を見事に復活させるという本格的な趣味を持つ。長い冬、彼らはクラブ内に作った快適な作業場で、コツコツとレストア作業に精を出すのだ。

水辺で朽ち果てそうになっている100年、200年前の古いボートがあるという情報が入ると、現場に出向いていってそれを買い取り、壊さないように慎重に作業場に持ち込む。正確に計測、採寸して図面を起こし、お互いに手を貸し合いながら当時と同じ工法で復元し、完成するとそれに乗って遊ぶ。

ヨットクラブには、古い船から引き上げて整備されたエンジン類を展示する部屋もある。駆動部を差し替えれば、船外機にもなれば電動のこぎりにもなるという、20年ほど前の面白いエンジンも展示されていた。

クラブ前の水面に浮いていた伝統的なスカンジナビア船型の帆走漁船は200年前のイワシ漁に使われていたものを復元したもので、それを復元したオーナーはこの艇を毎年の夏のクルージングに使っている。

この夏作業場で造られていたレプリカは、バイキング時代の後に普及していた、低いリグを持つ手漕ぎボートだ。バイキング船と同じくクリンカー張りで、ステム近くの船底部は湾曲がきつく、平板を曲げることが出来ないので樫の丸太材を根気よく削り出していく。
これも当時の工法と材料に正確に従っている。キール材と、中心から2枚めまでの外板は削り出しの樫材で、それ以外には杉材が使われる

レストアされている艇の中で一番人気は、地元出身のコリン・アーチャーが設計したボートたちだ。
コリン・アーチャーは、クラシックボート好きの間では世界的に著名な舟艇設計家だが、彼が世界で初めて救命艇を設計した、ということをこの旅で初めて知って驚いた。

サンデ・フィヨルドの隣町で育ったコリン・アーチャーは漁船の遭難が多発するこの海域の漁民たちを救いたいと考え、荒れた海でも彼らを救助することが出来る耐航性に優れた性能のワークボート船型の研究にいそしみ、結果としてあの優美な、コリン・アーチャー型と呼ばれるラインを創出したのだという。

今から20年前、このヨットクラブのメンバーを中心とするセーラーたちが、あるプロジェクトに取り掛かった。今から1100年前に浮かんでいた全長約24メートルのバイキング船を精巧に復元し、大西洋を横断してビンランド(アメリカ東海岸)まで航海する、という壮大なプロジェクトである。
(続く)
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スカンジナビア漂流 ・北欧の海洋文化を辿る旅・ (6)

2009年09月01日 10時00分27秒 | Weblog
かつての捕鯨の街で


北欧海洋文化の背景を知りたいと思い、ドイツのキールからスウェーデンを経てノルウエーのオスロまで辿りついた。

この旅の半ばで見えてきたものは、現代の北欧の民たちが、海に出て行った祖先たちの知恵と勇気に深い敬意の念を抱いていることと、そんな伝統ある海洋民族の子孫であることに誇りを持ち、その先人達の技術にさらに一層の磨きをかけて後生に伝えようとしていること、だった。

フェーダー・レースでスカゲラク海峡へと船出していった1050隻のヨットたちの後を追うようにオスロを出発し、ノルウエーの海岸線に沿って旅を続けた。

海岸に沿って走る高速道路に乗ってオスロから南南西に200kmほど、その日の宿を探すために当てずっぽうにインターチェンジを降りると、そこがサンデ・フィヨルドという小さな港町だった。

こぢんまりとした漁港風の風景を期待して海辺まで車を走らせると、そこには大型の国際フェリーが発着する岸壁もある、小さな町のサイズにそぐわないような大きな港湾が広がっていた。

今は寂れているがこの町は、捕鯨が盛んだった時代、世界的規模の捕鯨基地として栄えた町で、ノルウエー国内の捕鯨会社だけではなく、日本をはじめ各国の水産会社が北海捕鯨の前線基地としてこの町に支店を構え、大変な賑わいを見せていたらしい。

この町で一番大きいホテルも、かつては捕鯨会社の社屋だったものを改築したものだという。
現在ではそのホテルを含めてこの町にホテルは3軒しかない。訪れる人も少ないのだろう。

その3軒のうちのひとつ、「キング・カール・ホテル」は今から320年近く前の1690年、日本でいえば江戸時代中期に当たる時代に建てられたというホテルで、捕鯨全盛時代は海から帰ってきた捕鯨セーラーたちで賑わう人気のホテルだったらしい。スカンジナビアで最も古いホテルのひとつとして知られる、由緒あるホテルだという。

料理も最高だと評判の、そのキング・カール・ホテルに、運良く居心地のいい部屋を見つけたぼくは、不思議な雰囲気のこの町にしばらく腰を落ち着けることにした。

町の歴史を伝える「サンデ・フィヨルド博物館」に入ると、そこはほとんどそのまま「捕鯨博物館」でもあった。捕鯨に関してここまで充実した内容を展示しているのはヨーロッパではここだけである、とパンフレットに謳っている。それはそうだろう、捕鯨にとって逆風が吹き荒れる今の時代に、捕鯨に関わるものを肯定的に展示しようと考える博物館経営者はあまりいないはずだ。

ホールでは捕鯨船での捕鯨漁師の生活の様子を伝えるビデオが放映されていて、獲った鯨を鉈やクレーンを使って解体する血だらけのシーンが延々と映し出される。
反捕鯨グループが観たら、逆に嬉々として反捕鯨キャンペーンに利用しそうなビデオを、忘れたくない自国の技術として堂々と公開している。捕鯨船での解体作業を説明するとてもリアルな模型もある。

この博物館と町が共同で所有する港の桟橋には、船齢60年の、しかしいつでも出動できる状態に常時整備されている蒸気エンジンの捕鯨用キャッチャーボートが係留されている。
このキャッチャーボート自体も、この博物館の展示物のひとつなのである。

この博物館の存在は、捕鯨という、自分達が誇るべき独自の海洋技術文化を、文化や価値観の異なる国々の連合から奪い取られようとしているノルウエーの、無言の抗議のように思えた。

かつてノルウエーと同じ技術文化を持っていた東洋のある国は、このように自国の先人たちの技術を誇り、自分たちの国独自の価値観を、堂々と世界に向かって主張する勇気を持っていただろうか?
(続く)
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