風の旅人 西村一広 Sailing Diary

海とセーリングだけの人生で考えたこと、悩んだこと、感動したこと、学んだこと、あれやこれや。

Jan.30 2006 やっぽー!

2006年01月30日 23時58分49秒 | Weblog
1月30日 月曜日

お昼、渋谷のK体育館で、K井君と食事。
日本からアメリカズカップに再挑戦するには、まずどこから始めていけばいいのか、それを探っていくことを目的にした話を真剣にした。

スポンサーありき、のチャレンジではだめだ。強い精神力を持った骨太の組織を作ろう、そういった話をしていて、ふと気が付いて、時計を見たらもう、3時半近い。次の約束の時間が迫っている。
話に熱中して、時間の感覚がなくなってしまっていた。

次のミーティングまでの宿題をお互いに課して、慌てて、夕方からの打ち合わせの場所である神奈川県の某市に向う。

その打ち合わせが終わり、沖縄料理屋さんでオリオン・ビールと泡盛の古酒を交互に飲んでいるときに、その日の主賓から、突然、Team Nishimura Projectの葉山イベントに御協力をいただける旨のお話があった。

すごい。
なかなか運営資金の目処が立たず、ある程度は自費で踏ん張ったとしても、いきなり厳しい戦いを強いられそうだ、と覚悟を決めようとしていた矢先だけに、すごく嬉しい。
Team Nishimura、最初の理解者である。いくら感謝しても、感謝し足りない。
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Jan.29 2006 まぐろ土佐船その3

2006年01月29日 11時07分38秒 | Weblog
1月29日 日曜日

相模湾は朝から晴れ渡り、とてもいい天気。海は穏やかでたくさんの艇がセーリングしているのが見える。
練習日にしようかどうか、朝まで迷っていたが、1日中風が弱そうなのと、今週末に予定している海外出張のための資料作りが遅れているのとで、今日は海に出るのをサボり、デスクワークと、水泳に当てるすることにする。

金曜日の夜、プールでヨットの大先輩のHさんと一緒になった。Hさんは「幻の」と形容されるモスクワ・オリンピックの代表だったセーラーだ。

当時のソビエトがアフガニスタンに侵攻したのに抗議して、いくつかの国が1980年のモスクワ・オリンピックへの選手団派遣をボイコットした。
政治とスポーツは別、とするオリンピックの精神が問われる問題ではあったが、日本も、選手団派遣を取りやめた国のひとつだった。

すでに代表に選ばれていた多くのスポーツ選手が国や日本オリンピック委員会に嘆願したが、結局受け入れられることはなかった。
Hさんも、苦労して手に入れたオリンピックへの切符を理不尽に取り上げられてしまったスポーツ選手のひとりだ。

しかしその後も、Hさんは確固とした姿勢でセーリングを続け、ここ数年は、視覚障害者の人たちのセーリング活動を支援し続けている。いまや日本ブラインド・セーリングの世界では、なくてはならない人物の一人である。

Hさんは、そのブラインド・セーリングの支援活動を共に進めてきた奥様を、昨年11月に癌で失った。セーリング界では有名な、素晴らしく仲のいい御夫婦で、いつもほとんど一緒に居るような二人だった。
大変悲痛な思いで、この年末年始を過ごされていたことと思う。

プールでは、奥様のお通夜以来、初めて会った。
プールサイドで少し話をした。
これから再び立ち上がって、生きていく準備を始めた、とのことで、この1月からこのスポーツクラブに入会して、身体作りから始めていくことにしたのだそうだ。
Hさんなら、やれる。
Hさんには、まだまだ日本のセーリング界や日本の海文化発展のために頑張ってもらわなければいけないことがたくさんあるのだ。

寒いし、プールさぼっちゃおうかな、と思っていたけど、自分に鞭打って行ってよかった。Hさんに会うことができた。

さて、では今日は、昨日まで2回連載した、日本のマグロ漁文化の語り部、斉藤健治さんインタビューの最終回を掲載します。

―――――――――――――――――――

斉藤健次

ニッポンのマグロ漁文化の語部(かたりべ) (後篇)

文=西村一広  

海と陸を繋ぐライフワーク

斉藤健次は、丸6年間遠洋マグロ船に乗ったあと、陸に上がった。そして、マグロ船のコック長としてプロの漁師たちを満足させてきた料理を出す店を開いた。
苦労もしたが、遠洋マグロ船での経験に比べると大した苦労だとは思わなかった。

自分は海と遠洋マグロ漁船から人生を学んだ、と斉藤健次は考えている。
辛いことにも逃げずに耐えることを覚えた。人間は、自分が決めてしまう自分の限界を超えられることも知った。

絡みに絡んだ縄を、嵐で大揺れに揺れている甲板で解かなければならない。「こんな絡み、絶対に解ける訳がない」、と思う。でも諦めずに必死で続けていると、いつの間にか絡みが解けている。
疲労困憊した目を海に向けると、大時化だった海がいつの間にか凪ぎている。水平線から信じられないほど美しい朝日が上がってくる。そういったことを思い出すたび、自分は海で素晴らしい時間を経験せさせてもらった、と思う。

船を降りた後、無我夢中で頑張って新しい生活が軌道に乗ると、船に乗っていた頃のことを振り返る余裕も出てきた。
仕事の合間を縫って、遠洋マグロ漁船に乗って自分が海にいた日々のことを書きまとめ、手作りの本に仕上げた。小学館主催のノンフィクション大賞にその原稿を応募してみた。その原稿は240もの応募作の中を勝ち上がって大賞を受賞した。
それが『まぐろ土佐船』として出版された。

斉藤健次が『まぐろ土佐船』で伝えたかったことは、遠洋マグロ漁師たちの壮絶な海上生活だけではない。もうひとつ伝えたかったこと、それは、我が国のマグロ漁文化とマグロ資源の危機である。

消費者に上質のマグロを提供しようと努力してきた日本のマグロ船の船主たちの多くが、外国から大量に輸入される安いマグロに圧迫されて相次いで倒産している。
今や日本の遠洋マグロ船に乗っている船員のほとんどは、人件費が安い外国人だ。エサも、漁具も、燃料も、安い外国で仕入れた外国産だ。

マグロはデリケートな魚である。どんなに極上とされるマグロでも、獲れた直後に適切な処理をし、適切な温度で素早く冷凍しないと、刺身の味が悪くなる。マグロを刺身で食べるのは日本人固有の文化だ。
その食文化を持たない国の船員は、どうしても魚の扱いが雑になる。刺身の味の違いが分かる日本人船員でなければ、魚を丁寧に扱うことが出来ないのだ。

マグロの寿命は10数年で、7,8歳になってやっと卵を産むことができる。
黒潮に乗って日本近海にやってくるホンマグロの産卵場所は台湾の近くだが、まだ小さく、産卵したこともない幼魚を、台湾の2000トン級大型巻き網船団が獲り尽くす。
当然日本近海まで生き延びてやってくる大型のホンマグロは激減する。
自国近海に限らず、国際条約で定められた一国当たりの隻数をごまかすために船籍を第三国に移した台湾船(便宜置籍船)が、世界中の海でマグロを乱獲し続けている。

ミナミマグロの産卵場所はジャワ島沖の海域だ。そこで生まれた幼魚をオーストラリアの漁船が自国沿岸で待ち構え、巻き網で一網打尽にして日本に輸出する。
その一部をイワシのエサで不自然に太らせて畜養し、高級魚として築地市場に空輸する。

マグロを食べない国のマグロ業者たちにとって、マグロは食文化ではなく、ビジネスの対象に過ぎない。彼らにとって大切なことは、マグロの品質や将来のマグロ資源ではなく、今儲けることである。
だが、彼らばかりを責めることはできない。

どんな素性のマグロであっても買い取る日本の商社が存在するから、彼らはマグロを獲るのだ。
そして商社は、それを安いと言って喜ぶ日本の消費者がいるから、質を選ばずマグロを買いあさるのだ。
つまり、我々日本人こそが、自分たちの国の海洋文化、食文化、そしてマグロ資源そのものを、食い潰しつつあるのである。

このような現実を、斉藤健次はとても危惧している。
事の深刻さを理解している人間は非常に少ない。
現場に近い誰かが伝えていかなければならない。
もしかしたらそれが、自分の役割ではないか。
自分のライフワークとして、日本のマグロ漁師に取材し、彼らから話を聞き、それを陸の人間たちに伝えていく役割りを担うことはできないか、斉藤健次はそう考えている。

一般に漁師は寡黙で、自分の海での経験や漁労文化の現状を陸の人間に向かって自分自身の口で語ることがほとんどない。遊離している二者の間に立って、日本を取り巻く海や漁業の実態を正確に陸に伝えていく役割りを斉藤健次は果たそうとしている。

斉藤は、そういった活動を通して、自分自身に人生を教えてくれた海への感謝を込めて、マグロ漁文化に限らず、もっと海に目を向けて欲しいというメッセージを、日本の若者たちに届けたいと思ってもいる。
「今、日本の若者が働き口を探すとき、『陸』にしか目が行かないように思います。人生には、『海』という選択肢もあることを彼らに知って欲しいんです。そしてまた、日本の社会そのものが、働く場所として若い日本人が積極的に『海』に関わることができる社会に変わっていくことを、強く願っています」。
(文中敬称略)


斉藤健次氏経営の「まぐろ料理 炊屋(かしきや)」ホームページ
http://www2.ocn.ne.jp/~kasikiya/
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Jan.27 2006 まぐろ土佐船その2

2006年01月27日 13時25分36秒 | Weblog
1月27日 金曜日

昨夜は、U野さんのお宅で、大変美味しい食事と大変楽しい時間をご馳走になった。
U野さんは地元、葉山生まれの葉山育ち、生粋の葉山っ子。
小さな頃から海に親しみ、それが縁で三宅島にも拠点を持つようになり、故・ジャック・M先生と二人三脚で三宅島の海の自然を子供たちに触れさせる活動をしていたほか、日本全国を舞台に子供たちと海を繋ぐ活動をしている人。

U野さんと、シーカヤッカーのU田と、ぼくの共通の知り合いである沖縄慶良間諸島座間味島のO城さんが、東京出張に併せてU野さんのところに泊りに来る、というので、U野さんの主宰するNPO、Oファミリーのスタッフ一同やO城さんの関東の知り合いなどが、葉山公園近くのU野さん宅に集合した。ぼくは夜道を歩いてお宅に伺い、U田は町境の向こうの横須賀市側から自転車でやってきた。

U野さんの奥さんと、Oファミリーの女性スタッフがすばらしいご馳走を作ってくださり、泡盛と薩摩焼酎の瓶がテーブルの上を頻繁に行き来する、とても楽しい時間だった。
お互いが海に関わる今後の計画や夢を語り合い、途中の道筋は違っても、行き着きたいところは共通であることを再確認することができた、すばらしい時間だった。

ぼくとU田は、嬉しさのあまり、宴会お開きのサインのコーヒーが出てきたのも気が付かず、焼酎を飲み続けて迷惑をかけた。奥様、スタッフの皆様、ごめんなさい。
冷たい風が吹き荒れる暗い夜道を一人、ポカポカとした気持ちでニコニコ顔で歩いて帰った。
しかし、まあ、これで今週は、月、火、水、木と4日連続して夜半を過ぎての帰宅である。
これについても少しは反省しよう。ごめんなさい。

さて、昨日に引き続き、今日は、マグロ漁文化の語り部、斉藤健治さんインタビュー中篇を以下に掲載します。

―――――――――――――――――――

斉藤健次

ニッポンのマグロ漁文化の語部(かたりべ) (中篇)

文=西村一広  

極限の海で見つけた人生

斉藤健次は1947年、東京都渋谷区富ヶ谷で生まれた。
父親は外国航路の船のコックだった。その影響なのか、子供の頃から海や冒険にまつわる本を読んだり、江の島まで海を見に行ったりすることが好きだった。中学生、高校生になっても、貨物船を見ては外国に夢を馳せたりしていたが、仕事として海に出ることは考えてもみなかった。
「自分が船に乗れるわけがない」。なぜかそう信じ込んでいた。

漫画家になりたいと思っていたが、真剣にその道を目指すこともなく、広告代理店に就職した。その会社でデザインの仕事をしたいと思っていたが、営業に配属された。しかし真剣にデザイン部門への移動を目指すこともなく、転職して雑誌記事の企画や取材、企業PR誌編集などの仕事をするようになった。

転機は28歳のときに訪れた。
仕事が減り、収入が減った。編集やライターという仕事にも行詰まりを感じていた。将来に大きな不安を覚えるようになっていた。
転職を考えたとき、子供の頃から憧れていた海を思い出した。海の向こうに自分の未来もあるような気がした。その頃新聞で読んだ、高知の遠洋マグロ漁船についての記事が頭に残っていた。

船員教育を受けてない自分は貨物船には乗れないだろうが、マグロ漁船なら、身体ひとつで乗れるはずだ。マグロを追って世界の海を走り回る船乗りの生活を経験すれば、人生が見えてくるかも知れない。
マグロ船の労働がひどく苛酷だということもその記事で知っていたが、金を稼ぐために工事現場で働くくらいなら、いっそ海で、マグロ漁船で稼ごう。そう決心した。  

遠洋マグロ漁船の職を求めて四国に渡った経緯や、高知県内のスナックで住み込みのバーテンとして働きつつ、料理の勉強をしながら船に乗るチャンスを1年半も待った日々のことは『まぐろ土佐船』に詳しく書かれているので割愛するが、四国まで行ったあとに決心が揺らいでも東京に戻れないように、東京での拠点や所有物すべてを処分して、自分自身の逃げ道を塞いだ。

斉藤健次の初航海は1978年の3月。
遠洋マグロ漁船に乗ろうと決心して四国に来てからすでに1年半が経ち、斉藤は30歳になっていた。中学や海員学校を出てすぐに乗るのが一般的なマグロ船では、斉藤は例外的に歳を取った新米だった。しかも東京から流れてきた余所者である。狭い船内での22名の共同生活に溶け込んでいくには、相当の覚悟と努力が必要だった。

船のことはさっぱり分からなかった。手伝おうとしたことが逆に皆の仕事の邪魔をした。先輩たちのロープさばきが神がかり的に思えた。操業中、船が揺れると立っていることができず一人で甲板を転げまわった。それが他の皆を苛立たせた。
しかし、それで落ち込んだり自分一人の世界に逃避することはできない。他に行く場所のない洋上生活で、仲間から孤立してしまうことは絶対に避けなければいけなかった。

22人全員が完璧に仕事ができる人間であっても、決して船内社会がうまくいくわけではないことに斉藤は気付くようになった。一所懸命やっているのに少し間が抜けていたり、殺気立つ皆を苦笑させるような役回りを演じる人間がいることで、逆に船内の空気が和む。

斉藤は裏方に徹した。誰よりも早く起きて全員のコーヒーを作った。操業中、手を休める暇がない船員たちに火のついたタバコを配って回った。皆が休んでいる間に便所掃除をした。斉藤の「一所懸命」は同僚たちの心に伝わっていった。都会から来た年嵩の新人は、こうして仲間から認められていった。

その最初の航海で、コック長が体を壊して外地の寄港先で船を降り、斉藤はその代役に抜擢された。仲間たちが強く推薦してくれたのだ。
マグロ船に乗る日を待つ間、高知県内の定食屋で料理の勉強をしたことが役に立つことになった。その航海以降、斉藤は誠心誠意を込めた料理を仲間たちに出す努力によって、遠洋マグロ漁船のコック長という確固たる自分の居場所をつかみ取った。

遠洋マグロ漁船の生活で斉藤健次がまず驚いたことは、生活のリズムが陸の生活とまったく違うことだった。
操業中以外、漁場へ向かう航海中、船員たちは寝てばかりいる。しかし漁場に着いて操業開始のベルが鳴るや否や、彼らの生活は一変する。マグロが釣れ始めると、操業は1ヶ月、2ヶ月と休みなく続く。

延縄を揚げる作業は、長いときは20時間もかかる。縄を揚げた後は、釣れたマグロが暴れて絡んだ縄を解いたり、次の漁で使うエサを解凍したり、釣れた後に急速冷凍庫に入れておいたマグロを船倉に移したり、という作業が延々と続く。

その作業の間に船は投縄場所に走り、着いたらすぐに全長150キロに及ぶ延縄を海に流していく作業が始まる。漁がある限り、この労働が繰り返し果てしなく続くのだ。だから、漁が途切れて次の漁場を求めて船が移動を始めると、船員たちは各自のベッドにもぐり込み、カーテンを閉ざしてひたすら眠る。操業中と打って変わって船内は静寂に包まれる。

マグロが掛る限り、遠洋マグロ漁船はどんな嵐でも操業を続ける。
南半球の真冬、5月~7月がミナミマグロの盛漁期である。この時期に水温の低い南緯40度以南で獲れるミナミマグロは抜群の品質で、値も高い。

真冬の南緯40度線以南は低気圧の墓場であり、海はほとんどいつも荒れている。気温は摂氏零度以下になり、海水も凍るように冷たい。氷山が浮かぶ海での操業も珍しくなく、オーロラの下での操業もある。海がオキアミの群で真っ赤になっていることもある。

それらは素晴らしく神秘的な光景だが、それをのんびり見ている暇は、操業中のマグロ漁師たちにはない。
寒さでかじかみ、野球のグローブのように腫れた手を、ドラム缶に沸かした湯の中に突っ込んで感覚を取り戻しては漁を続ける。操業の合間を縫って交代で食堂に入って飯をかっ込むときにも、その手は箸をうまく持つことが出来ない。

海が荒れ過ぎて危険だと判断すると操業を一旦中止する。大波に向かって微速で前進し、船を「支える」。波を横から受けて転覆するのを防ぐのだ。どれくらいの嵐で操業を中止するのか。
斉藤の著書には「気圧が930㍊(=ヘクトパスカル)まで下がった」という記述がある。強い台風でも中心の気圧は960~970㍊程度である。930㍊と言えばとんでもない低気圧だ。

大抵の時化など平気な海鳥たちも、このクラスの嵐になると海面から巻き上げられる海水で息が出来ないのか、腹を上にして顔を上空に向けた「背面飛び」でその嵐を凌いでいるのだという。

こんな海まで来るのは日本船だけである。台湾船をはじめとする外国のマグロ船は決してこの海には来ない。「『日本人にうまいマグロを食べさせたい』という日本のマグロ漁師たちの心意気が、この海に向かわせるんでしょうね」と、斉藤は語る。
(後編に続く)
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Jan.26 2006 まぐろ土佐船

2006年01月26日 16時01分05秒 | Weblog
1月26日 木曜日

昨日は夕方から東京でTeam Nishimuraのミーティング。
2月の東京ボートショーでのパネル展示計画を前に、議論百出で、今回も熱いミーティングになった。
夜10時を回り、腹も減ってきたので、会議室を出て、居酒屋会議室に場所を移動する。

旧・防衛庁前にある、『全品300円』を謳う店。
スーツを着た若い人たちで混んでいる。
メニューを見ると、いろいろな肴が300円というリーズナブルな価格で並んでいるが、その中にさりげなく『インスタントラーメン「サッポロ一番」』というのがが混ざりこんでいる。ウーン、どうなんですかこれ? 
ぼくの出身は北九州で、今でも田舎に帰るとちゃんとした店で北九州豚骨ラーメンを300円台後半から400円台前半で楽しむことができる。 

半分屋台のような六本木の店の、傾いたデコラ張りのテーブルで食べるインスタントラーメン、300円。
高いのか安いのか、笑いどころなのかどうか、ぼくの価値観では判断できないので、読み飛ばした。

この月曜日、青森県の大間で獲れた美味しくて貴重なホンマグロを食べながら、マグロ資源の今後について考えているうちに、以前雑誌のインタビュー記事に登場していただいた斉藤健次さんのことを思い出していた。

斉藤さんは、漫画家の『土佐の一本釣り』の故・青柳祐介氏も漫画化した『まぐろ土佐船』というノンフィクションを書いたことで有名な人だ。
現在は千葉県習志野市でまぐろ料理店を営んでいるが、ぼくがこの本に大感動したこともあって、ヨット雑誌にぼくが不定期連載している海の人間シリーズに登場してもらった。

斉藤さんは、日本人の食に対する考え方や今後のマグロ資源のことを真剣に考え、執筆や講演活動を通じて、その危機についてあらゆる機会を使って訴えている。
マグロのプロフェショナルでもあるので、斉藤さんの言うことには非常に説得力があった。

そのときのインタビュー原稿をここに転載することにしようと思う。
ちょっと長いので、3つに分けて、前編・中編・後編に分けて、今日はその前編を掲載することにします。

―――――――――
斉藤健次

ニッポンのマグロ漁文化の語部(かたりべ)

文=西村一広  


かつて、日本の遠洋マグロ漁船は、マグロを追って世界の荒海に出かけた。ひとたび出漁すれば1年、いや何年間も日本に帰ることができない。
日常茶飯事の荒天。昼を夜に継いで休みなく続く操業。狭い船内社会での濃密な人間関係。怪我。頻発する落水事故・・・。
遠洋マグロ漁船に乗る船員たちは、あらゆる船乗りの中で、おそらく最も過酷な海の生活を送っている男たちである。

そんな遠洋マグロ漁船の船員たちの生活を、それに乗る船員として臨場感あふれる文章に書き綴った男がいる。

斉藤健次、57歳。
彼が書いたその文章は小学館ノンフィクション大賞を受賞し、『まぐろ土佐船』というタイトルで出版されるや、上質の海洋文学に飢えた読者たちの間で絶賛を浴びた。

人類が最初に海に乗り出していった動機は漁労だったに違いない。それは日本においても同様だったことだろう。
6000年前の縄文時代の遺跡から、マグロの骨が大量に出土する。
約1300年前に編纂された『万葉集』に、マグロ漁の様子を詠んだ歌が登場する。
マグロ漁は、日本の漁労文化、ひいては日本の海洋文化の中で根幹に位置付けられるべきものだ。

斉藤健次は、その著書で、日本のマグロ漁師たちの躍動的な海上生活を圧倒的迫力の筆致で描き出しただけでなく、日本独自のマグロ漁文化が存続の危機にさらされている事実、そして地球上のマグロ資源そのものが直面している危機を訴えかけた。


日本が誇る海の職人、マグロ漁師

南半球の夏に開催されるシドニー~ホバート・レース。
この630マイルの外洋レースは、ほとんどいつも荒天に見舞われる。タスマン海、バス海峡、そしてその名もおぞましいストーム湾。このレース・コースを、寒冷前線を従えた低気圧が3日に一度のペースで通過する。艇は何度も横倒しになる。船首を乗り越えて打ち込んでくる海水でコクピットが水浸しになる。

バス海峡の強い潮流と強風が、不規則で危険な形の波を作り出す。
艇は突然立ち上がる波で跳ね上げられ、次の瞬間には深い谷底の海面に叩き付けられる。いつ艇が割れてもおかしくないと観念する。こんな海はもう絶対に嫌だと思う。二度と来ないぞ、と毎回思う。

ところが、そんな海に、当たり前の顔で操業している白い船腹のマグロ漁船がいるのだ。世界のマグロ漁船の総数からすると日本船は少数派に過ぎないはずなのに、そういう厳しい海にいるマグロ漁船のほとんどが日本船だった。

外洋ヨットは復元力が強く、船としてはかなり安全な部類に入る。ひとつくらい波をさばき損ねても、いきなり沈んでしまうことはない。
しかし、マグロを船倉に積み込んで不安定になっている漁船は、大波をひとつでも横から受けてしまうと相当な危険に瀕する。船乗りとしての操船技術やシーマンシップがかなりのレベルで高くなければ、簡単に転覆してしまうに違いない。
しかも、我々がヨットレースをしているのは比較的天候が穏やかな夏場だが、彼らは格段に海が厳しい冬季に、さらに南極に近い海まで行って操業しているというのである。

我々ヨットマンが、安全性の高い艇に乗り、しかもそれにしがみつくようにしておっかなびっくり走っているような荒海で、普通の顔をして操業している日本のマグロ漁船の船員たちを、同じ船乗りとして尊敬していた。日本人として誇らしく思ってもいた。

2002年から2003年にかけての半年間、アメリカズカップを観察するためにニュージーランドに居座ったとき、日本から何冊も本を持っていった。遠洋マグロ漁船の元コック長が書いたという『まぐろ土佐船』もその中にあった。

すでに評判の本だったから、じっくり時間をかけて読むのを楽しみにしていたのだが、読み始めると途中で止めることができず一気に一晩で読んでしまった。圧倒的に面白かった。そこには、日本独自の海洋文化としての遠洋マグロ漁と、本当の海のプロフェッショナルである日本のマグロ漁師たちの海での毎日が、迫力の文章で綴られていた。

ニュージーランドでアメリカズカップのレースを観続けながら、日本が将来アメリカズカップに再び挑戦するには、日本独自の、日本が世界に誇ることができる海洋文化がバックボーンとして貫かれていなければ意味がない、という思いを今更ながらに強くしていた。
だからなのだと思うのだが、日本に帰ったら、『まぐろ土佐船』を書いた斉藤健次という人物の口から直接、日本の海洋文化の柱とも言える遠洋マグロ漁や、日本の船乗りの原点とも言えそうなマグロ漁師たちの話を聞きたいと願った。

つてを頼って連絡先を探し出し、斉藤健次が千葉県船橋市で経営する飲食店「炊屋(かしきや)」に出掛けたのは2004年の秋だった。最初は店の客として訪問した。船を降りて20年近く経つとはいえ、遠洋マグロ漁船の元コック長である。いかつい顔の人物を想像して、入口の引き戸を開けるまでは少し怖気付いていた。
恐る恐る店に入ると、ニコニコと笑っている優しい顔がカウンターの中に見えた。

その日は斉藤が作るマグロの漁師料理で、高知・四万十川の水で仕込んだ地酒、『まぐろ土佐船』と『炊』を飲みながら、大荒れの南氷洋で元コック長が撮影した勇壮なマグロ漁のビデオを他の客と一緒に観ているうちに酔いつぶれ、後日、仕込み前の忙しい時間を割いてもらって、改めてじっくりと話を聞いた。

                                 (続く)
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Jan.25 2006 大間の鮪

2006年01月25日 13時50分45秒 | Weblog
1月25日 水曜日

写真は、一昨日の奥沢のTさんのところで出していただいた、一本釣りで獲れた青森県・大間のホンマグロ。しみじみと美味しかった。
そして、それを美味しくいただきながら、しみじみと考えた。

かつて日本沿岸にはマグロが豊富にいた。6000年前の縄文時代初期の遺跡である青森県・三内丸山遺跡からは、大型のマグロの骨が多数出土している。その時代から、日本人は海に出て勇壮なマグロ漁をしていた。

それ以来、日本の海洋文化の大切な一翼を担う文化として連綿と続いてきたマグロ漁が、いま、危機に瀕している。
マグロが激減しているのだ。

資源を守る努力が足りなかった結果、我々現代人は、自分たちの子孫の分までのマグロを食い尽くしてしまおうとしている。遅まきながら関係筋はマグロ資源保護の強化策を打ち出し、来年度からは各国に割り当てられているマグロ漁獲高が大幅に厳しく制限されることになるという。

こういう事態に陥ったのは、我々、現代を生きている世代の責任である。
地球にマグロを残し、子孫が美味しいマグロを食べられる環境を守るために、我慢しなければいけないことはこれからもいろいろと出てくることだろう。

さらに複雑なことを内包する問題として、数字の上で漁獲量を制限することだけではなく、地球の食物資源のことや環境問題などお構いなしに、「便宜置籍船」という、法の網をすり抜ける方法を使ってマグロを獲り尽くそうとする台湾の一部の業者や、その業者からマグロを仕入れる日本の商社の倫理観をどのような努力で変えていくか、という問題も残っている。
人間の倫理観というものは、法律では変えようがなく、その人本人の自覚や、小さなときからの教育にも関わることで、だからこそ、難しい問題だと思う。
専門外のことなので、勇み足の意見は控えなければいけないが、地球の環境、各国の食文化など、広い視野で考えていくべきことなのだろう。

さて昨日は、夕方5時過ぎに葉山小学校前で、シーカヤッカーのUと待ち合わせて、バスに乗って逗子駅に行き、そこからJRで恵比寿駅に向う。
恵比寿駅から歩いてすぐのところにある映画制作会社の会議室に着いたのは、午後7時少し前だった。

日本に古くから伝わってきた帆走漁船を蘇らせて、現代の日本の海で活動しているサーファー、シーカヤッカー、漁師、セーラーがそれに乗り組んで、長い航海をする。その様子を撮影して映画にする、という構想を、その会社のKプロデューサーとM監督に説明するためだ。

ミーティングは大成功だった、と思う。
この難しいテーマを映画にすることに、Kプロデューサー、M監督ともに前向きに検討を始め、お互いにアイディアを出し合った。おおよその撮影スケジュールを決めたところで、キリがなくなりそうだったので、一旦この日の会議に読点を打ったときには、もうほとんど日付が変わりそうな時間になっていた。5時間近くもぶっとおしで、コーヒーだけで話し続けた。

藤沢に住むKプロデューサーの車で送ってもらい、途中、駒沢公園通りの『かっぱ』に寄って、3人で大盛ゴハンのモツ定食を食べ、葉山に戻ると午前2時近かった。
Kさんは翌日は朝一番の飛行機で沖縄にロケだと言っていた。ほとんど眠る時間がなかっただろうな。ありがとうございました。

今日は午後4時過ぎから、東京・六本木でTeam Nishimura Projectのミーティングだ。
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Jan.24-2 2006 藤娘

2006年01月24日 15時38分17秒 | Weblog
1月24日 火曜日

昨日23日の夕方、ボートショー展示用の文章がまとまらないまま午後5時近くなり、慌ててバスに乗って逗子駅に行き、東京世田谷の奥沢に向う。
咋日は6時半から、今年1年のセーリング計画を練りながらの楽しい食事会。
場所は、油壺のセーリングの大先輩Tさんが奥沢で経営している、秘密の隠れ家風小料理屋さん。職業料理人であるから当たり前のことなのだが、Tさんの料理は最高である。

揃ったのは、いつものT取締役、I部長。セーリングの仕事で1月はじめからフィリピンに行っていたO嬢は、知り合いのプライベートジェットに乗せてもらって成田に6時過ぎに着陸して、そのまま奥沢に直行してきた。

今夜の主役は、藤娘。
四国・高知の四万十市(旧・中村市)の、江戸時代から続く由緒ある酒蔵から出てきた、純情可憐な日本酒である。
清流・四万十川の伏流水を使って仕込んだこの日本酒は、さらりとした旨口だ。

旨口。うまくち。故・開高健氏のファンならご存知だと思うが、開高氏は、旨口の日本酒を求めつつ、現代日本の日本酒の味の荒れ具合を嘆いておられた。生前、開高氏がこの日本酒に出会っていたら、この酒についてどんな感想を述べられたことだろうか。

藤娘は、きちんとした主張ある味を持っていながら、喉を通り過ぎた後に、口の中にどんな濁りも残さない。もちろん、ベタツキなどとは無縁の世界だ。
いい日本酒はいいもんだ。日本人に生まれてよかった。本当の日本酒は、日本が世界に誇れる文化の一つである。この伝統を我々は、日本の伝統を否定してきた一つ上の世代の人たちの失敗を補う世代として、次の世代に残していかなければならない。

日本の海洋文化もそうなのである。
かつて日本には世界に誇るべき海洋文化があった。
1万2000年前の世界最古の造船用の石器は日本から出土している。
6000年から4000年前、縄文人はセーリングで八丈島や小笠原まで行っていた。
縄文土器は、南太平洋のバヌアツや、アメリカ大陸のエクアドルでも見つかっている。
そして江戸幕府が、自身の鎖国政策遂行の目的で、その記憶をほとんどの日本人から奪い取った。

日本人は、血統的に海洋民族なのだ。ただし、300年近く日本を支配した為政者によって、海洋民族だった記憶を意図的に削除されてしまった民族なのだ。
我々の祖先は、優秀な海洋民族だったのだ。

そのことに気付いた者の一人として、自分は自分のセーリング活動を通じて、日本の伝統航海術、海洋文化を再び日本の人たちに思い出してもらう活動を進めていかなければいけない、と強く感じている。
そしてそれは、アメリカズカップの本質を踏まえた、日本からのアメリカズカップ挑戦に、間違いなく繋がるものなのである。
そのように、ぼくは完璧に確信しているのである。

今日は、7時から東京・恵比寿の映画制作会社に行き、打ち合わせがある。これも、その、自分の信念に基づいた活動の一環なのだ。
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Jan.24 2006 本質

2006年01月24日 11時42分45秒 | Weblog
1月24日 火曜日 

写真は昨日に引き続いて、相模湾沿岸の小部屋から見る今日の富士山です。

2月9日から12日まで幕張で開催される東京国際ボートショーで『Team Nishimura Project』 の紹介パネルを展示する機会をもらうことができた。ここのところずっと、そのパネルで表現する「Team Nishimura Project」とは何か? 「Team Nishimura」とはどんな集団なのか?といった文章の案を考えている。

2月の始めに行かなければいけない海外出張の段取りとか、4月に始める仕事の準備とかが重なり、一つのことについて集中して考える時間が細切れになり、ボートショーで展示するパネルの内容がなかなかまとまらなくて困っている。

短く、端的に言ってしまえば、Team Nishimura Projectの最終ゴールは、
『日本の海洋文化を背負ったアメリカズカップ挑戦を実現する』だ。
であるのだが、しかし、過去の日本のアメリカズカップ挑戦とは一線を画した挑戦であることを知ってもらわなければならない。

過去の日本のアメリカズカップ挑戦と、それについての華やかな報道は、確かにそれなりに意義のあることだったと思う。ぼくがチームに入れてもらえた2000年の大会でも、その挑戦のおかげで我々日本人セーラーはセーラーとしていっそう進化することができた。

しかし同時に、日本の過去の挑戦は、日本の中に負の遺産も残してしまっていると、自分自身の反省も含めて言わなければならない。

過去の日本のアメリカズカップ挑戦と、それについての報道から、日本にはアメリカズカップについての間違った観念が蔓延してしまっているとぼくは感じている。「アメリカズカップ」という言葉を出してしまうと、一瞬にして「ああ、あのアメリカズカップね」と、その間違った観念でくくられてしまうのだ。

日本の報道が強調してきた「お金がかかるヨットレース」、「乗っているのは、相撲取りのような力持ちで大男ばかり」というアメリカズカップ観は、アメリカズカップの本質から程遠いものだ。
この観念に捉われてしまうと、アメリカズカップの本質を知ろうという気さえ起こらなくなる。「どうぞ、ご勝手に」となってしまうのだ。

2000年の日本からの挑戦を、そのセーリング・チームの一員として日記風のノンフィクションにして出版した。それらの文章を本にする前に、雑誌に連載記事として書き続けた。
そして、実際の海の上での挑戦と、そのことを書き綴るという作業を通じて、自分には、この、アメリカズカップという、すべてのスポーツの中で歴史上最古のトロフィーを競うスポーツの本質が、見えてきたように思うのだ。
その本質を知った上でこのトロフィーに挑戦しなければ、到底勝つことはできないだろうし、また、参加する意味さえない、と確信するようになったのだ。
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Jan.23 2006 万寿

2006年01月23日 13時35分24秒 | Weblog
1月23日 月曜日

今日の写真は、葉山の丘の上にある事務所から見える本日の富士山。

朝早くは、それなりに風が強かったけど、今はその風も収まり、相模湾北側エリアの海面は、穏やかな表情を見せている。
気圧配置は強い冬型で、天気図を見ると、関東地方には南北方向に走る等圧線がびっしりと描かれているのに、今日の相模湾の風はそれほど強くない。

まったく同じ気圧配置でも、北西風がきつく吹き荒れるときと、今日のように穏やかな北東風が支配するときがある。高層天気図を同時に見なければ、その違いの理由が見えてこない。また、相模湾が穏やかな日でも、隣の駿河湾にはめちゃくちゃ強烈な西風が吹き荒れていることがあれば、その逆もある。

日本近海の、特に冬季の風の予想は難しく、だから海に出る人たちは風の変化に細心の注意を払っていなければいけない。
『灘』という言葉は『荒れる海』を指す言葉だそうだが、相模灘、駿河灘、遠州灘、熊野灘・・・・・。日本近海は荒れる海ばかりだ。

昨日、22日の日曜日は、その前日に関東地方に大雪を降らせた低気圧が太平洋に抜け、またその低気圧が発達する前だったので、相模湾は晴れて穏やかな天気になった。

そんな天気に恵まれたHマリーナヨットクラブのクラブレース。
この日は、2006年シリーズ第2レースである烏帽子(えぼし)岩回航レースだ。
今回も前回に引き続き、ヨットクラブが所有する6隻のヤマハ30Sのうちの1隻をチャーターして参加することにした。

この日のメンバーは、
BのスキッパーであるM氏と友人のK氏、そしてT社原子力部門部長のIバウマン。この3人はぼくと同級生だ。それと、久々のレース復帰のM、元・青山学院アメフト部主将でIT企業営業のN,関東学院ヨット部OBのK,日大ヨット部のS。22歳から51歳まで、幅広い年齢層のチームになった。

富士山の右側に、雪を被った丹沢山系が迫っている。先週見たばかりのヨーロッパアルプスを思い出すほどの険しい山襞だ。
その景色を前方に見ながら海に出て、葉山方向を振り返ると、なんとこちらもすごく美しい雪景色。自分の住む町の雪景色を海から眺めるのも、ちょっと乙なものである。

さて、レースだ。
昨年ヨットを始めたばかりのNを除いて、ディンギー、クルーザーのベテランばかりのチームなので、楽しいレースができたし、ここのところの進境著しく、風が読めるようになってきたNも、風の変化に合わせて、アメフトで鍛えた95キロの身体を細かく移動させ、艇を最良のトリムバランスに保つことに貢献していた。あるスポーツでトップクラスまで行った人間は、他のスポーツでも秀でることができるのだ。

この日、このチャーター艇のメイントリムについて、通常は一般的ではない、ある方法を発見したような気がする。
チャーター艇のセールは古いダクロンで、すっかり伸びてしまっていて、ジブのシェイプなどは、レース前に見てしまうと気が萎えてしまうほどだ。
メインセールも同様なのだが、昨日はちょっと思いついて、違う方法でのトリムを試したら、伸びてしまったメインセールのシェイプを少し補うことができた。次の機会に、もう少しいろいろ試してみようと思う。
どんなセーリングでも、セーリングに出ると、必ず何か得るものがある。楽しいなあ。

レース後に、マリーナの近くのK食堂でチーム全員で食事をしていたら、その食堂に『久保田の万寿』というメニューがあるのをM氏が発見したあたりから、昼食は宴会モードに突入、店にあった日本酒をすべて飲み尽くし、そのあと真露のボトルがやってきて、Hマリーナヨットクラブでは大切な行事であるクラブレース後の表彰式を欠席してしまった。レース委員長のM越さん、ごめんなさい。
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Jan.21 2006 線路

2006年01月21日 11時17分31秒 | Weblog
1月21日 土曜日

朝起きて、カーテンを開けたら、真っ白な雪の世界だ。
まずい、今日の午後は葉山港の知り合いのヨットに行く用事がある。
我が家は小高い丘の上にあり、このままでは車で下界に降りられそうもない。タイヤチェーンも持ってないし、積雪の道路を運転する技術もない。

うーん、困った。雪だるまでも作りながら、午後には事態が好転するのを待つことにしよう。

昨日、世界一周ボルボ・オーシャンレースについての打ち合わせのため、東京に行くのに乗り合わせていた横須賀線の電車が、戸塚駅の手前で人を轢いた。

ぼくは一番前の車両の、かなり前側に座って本を読んでいたのだが、けたたましい警笛と同時に急ブレーキがかかり、しばらくして何かが電車にぶつかる嫌な音を聞いたような気がした。

電車はそのまま止まり、まず最初に戸塚駅から駅員が走ってきて、それから警察が来て、消防隊がやってきた。
それらの人たちが、4両目の下にあったらしい被害者の身体を引き出し、そして約1時間後に電車は動き出した。

品川駅に着いてぼくはそこで降りたのだが、ぼくが降りるのと入れ替わりにドカドカと乗ってきた人たちにとって、つい一時間前に一人の人間の身体をミンチのようにすり潰したその電車は、いつも通りの、どおってことのない、横須賀線の電車の一つに過ぎなかったことだろう。
ぼくは打ち合わせの時間に大幅に遅れ、打ち合わせ関係の人たちには大いに迷惑をかけたが、事情が事情なので許していただいた。

その事故は、昨日の地方紙の夕刊に、「人身事故で横須賀線と東海道線に遅れが出て、利用客に影響が出た」と小さく報じられていた。
それで終わりだった。その事故は「JR利用客が困らされた迷惑な事故」であり、「折角この世に生まれてきたのに、何かの事情で死ななければいけなくなった人の事故」ではないようだった。

あの人はなぜ、真昼の線路の上で死ななければならなかったのだろうか。
日本人は、昔から、自分以外の人の人生や生き死にに、ドライで無頓着な国民だったろうか。
そんなことが、昨日からずっと、頭に引っかかっている。

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Jan.19 2006 海の話は品川で

2006年01月20日 06時44分28秒 | Weblog
1月19日 木曜日

夕方。
東京海洋大学の品川キャンパスにて、関係者の方々に集まっていただき、Team Nishimutaの理念を説明した上で、今年から葉山を中心に行う活動への御協力をお願いする。

東京海洋大学は、国立東京水産大学と、ぼくが卒業した国立東京商船大学が合併してできた国立大学で、海洋・船舶の分野では、日本の最高学府だ。
その大学と、将来共同でいろいろな事業を展開していくことができれば、こんなに素晴らしく、そして楽しいことはないだろうと思う。

今回は、まずその第1歩として、この大学のヨット部とヨット部OB会の協力をいただいて事業を進めて行きたい、という趣旨の説明をさせていただいた。

ヨット部監督のI教授、OB会代表のM氏、ヨット部主将のI君、ヨット部女子部員のIさん、オブザーバーとして参加下さった藤沢在住のI教授、そしてTeam NishimutaのメンバーでもあるT助教授と、2時間近くも話をすることができた。

次の、より具体的な打ち合わせの日取りを決めた後、品川駅近くの、海洋大学のOBが営んでいる素晴らしくいい雰囲気の居酒屋に流れ、うまい薩摩産の芋焼酎タイムに突入した。
主将のI君と、セーリングの奥深い魅力について語り合う。久々にフレッシュな世代と海とヨットの話で盛り上がり、とても良い気分のまま横須賀線の下り電車に乗り込んだ。

さて、話は飛んで、ニュージーランドに長期滞在することを計画したり、ちょっと長めの自由なニュージーランド旅行をしてみたいと考えている人に朗報です。
自由国民社から、ニュージーランドで生活するためのあらゆる情報を満載したガイドブックが発売されました。
『ニュージーランド・ライフ・ガイド』(写真)という本がそれで、定価1300円(税別)です。この本があれば、ニュージーランドという国に住んだり旅をして回ったりするのに必要な情報が、完璧に手に入ります。
興味のある人は、㈱自由国民社 http://www.jiyu.co.jp までどうぞ。

この本には、ワタクシ西村一広のインタビュー記事も掲載されています。ここで、記事を書いていただいた吉田千春さんと編集部の了解を戴いて、その文章を紹介させていただこうと思います。

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風を読み、波を超え、大海原へ
日本をベースにニュージーランドに通う
あるセーラーの人生


『彼らを海に向かわせるのは、航海民族の誇り』

 「いいセーラーの条件ですか?まず、風が見えることかな。風が見えなければ、セーリングの技術は活かせませんから」。
その言葉に驚いていると、「風を見る」とは波や雲の動きを見て、どこにどんな風が吹いているか判断することで、だから、いいセーラーは目が良いことが条件で、どんな雲の下にどんな風が吹いていたか、過去の経験を覚えておく記憶力も必要です、と彼は言った。
 
言葉の主はプロ・セーラーの西村一広さん。九州の漁師町に生まれ、子供の頃に船乗りになろうと決めた彼は、海とヨットと共に人生を歩み続けてきた。東京商船大学(現東京海洋大学)ではヨット部に入り、卒業後はプロ・セーラーを目指す足がかりとして、ヨット雑誌の編集者に。会社を辞め、修行のためにニュージーランドに渡ったのは26歳の時のことだ。

当時からニュージーランドはセーリングの強豪国として有名で、様々なレースでトップクラスの成績を修めていたという。またこの国の人々に、有色人種に対する差別意識が無いことも渡航の決め手だった。
「欧米ではセーリングは上流階級のスポーツですから、欧米の選手は有色人種を差別しないよう気遣うあまり、僕らに慇懃無礼な態度を取ることもある。でもニュージーランドの選手は本当に自然に接してくれる。それはマオリと白人が対等で、お互い尊敬しながら暮らすよう教育を受けているからなんです。修行するならこの国しかないと思いました」。

『オークランダーを海に向かわせるのは、先祖から受け継ぐ「航海の記憶」 』

以来25年間、西村さんは各国のレースを転戦しながら、ニュージーランドと日本を行き来してきた。セール・デザイナー、ヨット建造コンサルタント、セーリング・スクール講師など、滞在するたび仕事は違ったが、常にセーリングにまつわる職に就いてきた。なにしろオークランドは「シティ・オブ・セールズ」と呼ばれ、人口に対してボートやヨットの所有者数が世界一を誇る街。ヨットに関する仕事は山のようにあるわけだ。

「この国では上流階級だけでなく、普通の人もセーリングを楽しみます。だって片田舎の農家にヨットがあるなんて、アメリカではありえない。人口が少なくてもセーリング人口の裾野が広いから、優秀なセーラーが育つのだと気づきました」と西村さん。だが、ヨットの維持費が特別安いわけでもなく、平均年収を考えれば、やはりヨットはお金のかかるものだという。しかもオークランド近海は風が強く、初心者には少々難しい場所だそうだ。それでも彼らがヨットを買うのはなぜだろう。

「ニュージーランド人の祖先はみんな、船でこの国に渡って来ていますよね。マオリは1000年前だけど、白人の場合はわずか200年前ですから、海を航海する記憶がどこかにあるのかもしれない。彼らには航海民族としての誇りがあるんです」。
その誇りこそが彼らを海に向かわせる、というのが西村さんの持論だ。

「日本で外車を買うお金があれば、十分ヨットは買えます。でも日本でヨットは普及しない。そこには500万円を何に使えばカッコいいか、もったいなくないか、という価値観の違いがあると思います。つまり、彼らニュージーランド人にとって、ヨットに乗って海に出ることは(外車に乗るよりも)カッコいいことなんですよ」。

『尊敬するのと真似するのとは違う。28年目に気づいた結論』

西村さんは2000年、マッチレースの最高峰「アメリカズ・カップ」に、日本代表チーム「ニッポン・チャレンジ」のメンバーとして参戦、準決勝進出の快挙を果たす。
 だが、この大会で初防衛に成功した「チーム・ニュージーランド」の強さの源が、航海民族としての誇りにあることも実感させられた。
その精神的支柱がなければ「アメリカズ・カップに」に勝つことは難しいと考えた彼は、帰国後、日本の海洋史を調べ始める。すると1万2000年前の、丸木舟を作るための石斧が鹿児島で発見された例や、南米エクアドルや南太平洋のバヌアツで、熊本の縄文時代の土器が掘り出された例などが見つかり、日本人が世界最古の航海民族だった可能性があることを知った。

 一時期はニュージーランドに自宅を購入することを検討し、ニュージーランド人になりたいとさえ考えていた西村さんだが、現在は拠点を日本に置き、「日本の航海文化をバックボーンにして、西洋の海洋文化の象徴、アメリカズ・カップに挑戦すること」を目標に据えている。今、彼が歴史を伝えることも含め、子供たちの育成に力をいれているのは、そんな理由からだ。

「ニュージーランドは今でも好きです。でも尊敬するのと真似をするのとは違う。ニュージーランド人になろうとするのは、馬鹿げた事だと気がつきました」。
西村さんは子供たちに「セーリングは風の力だけで地球を一周できるスポーツ」と説明するそうだ。そんなシンプルな競技だからこそ、学ぶことも多いのだろう。
彼がセーリングを始めて28年後に日本の海洋史に気づき、航海民族の末裔として自らを見つめ直したことも、その奥深さを物語っている。風を探し、大海原の果てをめざすセーラーたちは、経験を積むほど『形はないけれど大切なもの』が見える目を持つようになるのかもしれない。

また、51歳の西村さんが今も現役であることからも分かるように、セーリングは選手寿命の長いスポーツでもある。それは瞬発力や筋力が必要なポジションもあれば、経験が求められるポジションもあるからで、アメリカズ・カップの出場チームには、18歳から65歳の選手が所属するチームもあったそうだ。年齢とともに役割が替わり、それが調和してこそ船が進む。そう考えるとセーリングというスポーツは、まるでひとつの社会のようでもある。

【西村一広(にしむらかずひろ)さんのプロフィール】
1954年福岡県生まれ。プロ・セーラーとして活躍するかたわら、セーリング教室の講師や編集者としてセーリングの普及に携わる。著書に「歴史に挑む、風の旅人たち」(舵社)、堀江謙一氏との共著「ひとりぼっちの世界一周航海記」(理論社)など。現在コンパスコース社代表取締役。

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Jan.17 2006 プロバンス鉄道

2006年01月17日 23時18分41秒 | Weblog
1月17日 火曜日

午前中、夕方のTeam Nishimura Project定例ミーティングのための資料作りをしていたら、宅急便で『VOLVO OCEAN RACE 2005-2006 カタログ』の見本が届いた。

昨年11月にスペインで取材して、ページ構成や原稿執筆、写真選びなどで年末まで忙殺された仕事だ。大変だったけど、手にしてページをめくっていくと、充実感があふれてくる。努力したことが形になって出来てくることは、本当にうれしいなあ。

このカタログは、ボルボ・カーズ・ジャパン社が制作したもので、全国のボルボ販売店のショールームに置かれることになっている。
ヨットやヨットレースのことを知らない人を対象に、このレースのこと、このレースに使われている最新のヨットのことなどを、分かりやすく、しかも専門的にディープに説明している。巻末には、このレースを記念して販売されているVOLVO OCEAN RACE 2005-2006特別限定車の仕様詳細も掲載されています。興味のある人は、
ボルボ・カーズ・ジャパン 0120-55-8500 www.volvocars.co.jp
へ、お問い合わせください。

午後、東京へ。出版社1軒に顔を出した後、六本木のTeam Nishimura Projectミーティング開催場所へ。いつもの面々が顔をそろえる。みんな忙しいのに、本当にありがたい。大阪からTさんや、群馬からT助教授も来てくれている。

今日のミーティングから新メンバーのYさんが参加。
YさんはフリーのTVディレクター。将来、Team Nishimura Projectを映像で紹介するときが来たときには、中心的存在になるはず。
本日は、西村の先週のヨーロッパ出張の報告、4月から始まるイベントの運営資金の具体的調達の策、Team Nishimura Projectのロゴ案の検討などが議題だった。

その後、新メンバーYさんの歓迎会を兼ねて、全員で新年会。
Team Nishimuraの宴会部長、G社のS氏の活躍で、昨年の忘年会同様大いに盛り上がった新年会になった。
次のミーティングは来週25日。4月から始まる具体的活動を前に、慌ただしくなってきた。

さて、『ヨーロッパと日本の海洋文化、マリンレジャー文化の違いについて考えてみる』第2弾、今日は昨日に引き続き、「コートダジュール、その光と陰」の後編です。


《コートダジュール、その光と陰》
            (昨日の前編に続く、後編)

西村一広

【ステイタス・シンボル】
コートダジュールの各町に点在するそんなマリーナや一般の港を歩いてみると、100フィートから200フィートのセーリングヨットやモーターヨットが、見渡す限りずらりと並んでいる。

それらのほとんどは、船尾を岸壁に向けた艫付けで舫われている。
トランサムからメインキャビンの入り口にかけてのデザインは各艇様々に趣向が凝らされていて、ステップや手摺り、ドアノブに至るまでピッカピカに磨き上げられている。
船上パーティーに招待するゲストたちを迎え入れるためのエントランスの演出に、それぞれの艇のオーナーが見栄を張り合っているようにも見える。
それは、彼らが成功し、その証として豪華ヨットを持つことがステイタスとして社会に認知されているからでもある。

艇を美しく保ち、ゲストを乗せて優雅にクルージングするために、それぞれの艇が数人のプロセーラーを雇い入れている。つまり一つの港ごとに何百人ものプロセーラーやその見習が、その能力を生かす仕事の場を得ている。

しかし、これらのマリーナに広がる光景は、日本の未来のマリーナ像なのだろうか?
ここに居並んでいるような艇が日本に一隻でもあると、そのオーナーは日本では「一体どんな悪いことをして稼いだ金で造ったんだ」という目で見られるはずだ。そして、悪意の目を持ったマスコミの格好の餌食にされることだろう。

しかし、ここ、ヨーロッパではそのようなことは起きない。
仕事に成功してヨットを持つことが、堂々としたステイタスとして認知されるからだ。
何人かの日本人もこのあたりにモーターヨットを持っていて、そのうちの一人は10億円もするヨットを所有しているそうだ。その人の名前も著名な会社名も教えてもらったがここで出すのは控えようと思う。そんなことをすれば、その人の名前が日本では悪意を持って受け取られるに違いないからだ。

日本の、ある大企業の、セーリングが大好きだと言うCEOとお話をさせていただいたときのこと。
「何億円もするプライベートジェット機を日本で持つことはお咎めなしなのに、ヨットとなると会社名義で買い入れざるを得ない。社長であっても会長であっても、会社のヨット部員として社員に混じって密かにセーリングを楽しむことしかできない」、と苦笑交じりに聞かされた。
そうなのだ。それが日本の海洋レジャー文化の、現在のところの姿なのだ。
仕事に一生懸命努力して、苦労して自分で稼いだ金であっても、海の遊びには堂々と使いづらい、というのが日本という国の、お国柄なのである。

恐らく、階級社会が歴史のほとんど発端から長く続いているヨーロッパと、第2次大戦後、階級社会を一旦捨てて、国民みんなが中流層になろうとしている日本との間には、豪華ヨットを持つことや海洋レジャー文化の捉え方に、何か根本的な違いが存在するのだろう。

【遠い国から日本を思う】
フランス国営鉄道のニース駅から、地中海を背にして北の方向に15分ほど歩くと、コートダジュール地方であるニースとプロヴァンス地方とを結ぶ、「プロヴァンス鉄道」という名の単線の始発駅がある。

カンヌ、アンティーブ、カップダイル、モンテカルロと、名うての港町を歩いてこの地方に集まる大型プレジャー・ボートの群れに圧倒されて、胸焼けしたような気持ちになり、ある1日、そのプロヴァンス鉄道に乗って、同じコートダジュールでも、プロヴァンス地方との境に近い山間の農村を訪れることにした。

古いディーゼル機関車が引っ張る2両編成の車内には、ニース市内へ仕事に通う地元の人たちと、ドイツからの若い世代の旅行者が多く乗り合わせている。
年代物のディーゼル機関車が吐き出す排気が車内に入り込む。その臭いに悩まされながら1時間あまり、とある駅で、当てもなく降りてみる。

駅と川を挟んだ急な山の斜面に、高い城壁に守られた村があった。
強い風が吹いているのに、深い谷には重たい空気がよどんでいるように感じられる。荷車を引くロバの目に悲しさが宿っている。
ほの暗い谷間の、それ自身が光を放っているかのような金色の紅葉にも、胸を締め付けられるような寂しさを思い起こさせる色がある。

この村は、川と険しい山と高い城壁に守られた要塞のようになっていて、村の入り口に架かっている跳ね橋を上げると、外敵に攻め入られる心配がなくなる。コートダジュールの海岸線にも点在する典型的な「鷲の巣村」のひとつだ。
この時代になっても何者かに攻められる可能性を恐れてでもいるかのように、その橋は今でもすぐ上げられるようになっていた。

サッカーという競技は、ヨーロッパで、戦争で勝ったほうの兵士が負かした側の兵士の頭を落とし、それを蹴り合って遊んだのがルーツなのだそうだが、その頃のラテンの人たちの戦いはかなり血なまぐさかったのだろうと察せられる。

そんな時代を偲ばせる村の中を歩いていると、その時代時代の為政者、権力者たちの侵略ゲームの犠牲になって死んでいった人々の亡霊が、まだ彷徨っているようにも感じてしまう。
この村の人々は息を潜めて生活しているように思えた。侵略者におびえ、自分たちの収穫を搾取する貴族におびえた日々の記憶にまだ執拗に取り憑かれていて、今でも日々を秘かに慎ましやかに生きているように見えた。

こんな農村の閉塞感を嫌って、フランスの若者たちは冒険に乗り出すのだろうか。初期のパリ~ダカール・ラリーを企てたフランス人、ミニトランザットや世界一周シングルハンドレースに夢中になるフランス人たちはこの息苦しさから逃れようとして、冒険に情熱を注ぐのだろうか。

何億円もするヨットを個人で所有する層と、山間の村で長いあいだ貴族階級から搾取されながらつつましく生きてきた層。その2つの層を表裏一体で見ることができる国と地方…。
わすか数日間ほどコートダジュールを歩いただけで何かを導き出そうとするのは大変危険だと承知している。
だから性急に結論を出そうとすることは控えなければならない。しかし、日本の海洋レジャー文化は、欧米のそれを模倣しようとしたところからすでに無理が発生しているのではないか、と強く感じた。

「ヨーロッパではこうだ、アメリカではこうだ」と、先輩日本人たちからずっとそう言われ続け、我々はそのような欧米の海洋レジャーのあり方が唯一無二だと思い込んでその真似をしようとしてきた。

しかし、ヨーロッパにはヨーロッパの歴史や文化があり、それらと共に彼らの海洋レジャー文化も育まれてきた。
そして日本という国にも、独自の誇るべき長い歴史がある。その歴史の流れの中で誕生する日本独自の海洋レジャー文化があることのほうが自然なのではないか。それを積極的に探っていくことが日本に本当の海洋レジャー文化が根付いていくことにつながるのではないか。
日本独自の、日本の海洋レジャー文化のありかたを模索していくことは、回り道のように思えて、実は地に足をつけた日本の海洋レジャーが浸透していくための近道なのではないか。

日本とあまりにかけ離れた歴史と文化を背景に持つ国にいることをヒシヒシと感じながら、そう思えて仕方がなかった。
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Jan.16 2006 ドテラ着て卵酒飲み飲みヨーロッパを考える

2006年01月16日 22時40分48秒 | Weblog
1月16日 月曜日 

風邪ひいた。
先週金曜日、ヨーロッパから帰る飛行機の機内がえらく寒く、毛布を2枚借りて、一所懸命包まって寝たのだが、ダメだったみたい。

先週末、どしゃ降りの雨だった土曜日と寒風が吹きすさんだ日曜日の両日とも海には出ず、家にこもった。『晴耕雨読』ではなく、『晴海雨読』が、自分にとって望ましい生活スタイルだ。

先週1週間の間に溜まっていた事務仕事と、外国とのメールのやりとり、そして新しくリニューアルする我がコンパスコース社のホームページの準備に費やした。

このホームページは、我がコンパスコース社徳島支社の支社長のMが、デザイン、制作、メンテナンスを担当している。ぼくは内容を勝手に指示したり、せいぜい原稿を書くくらいだ。Mにおんぶにだっこなのだ。

我が有限会社コンパスコース徳島支社は、一般企業をクライアントとするホームページの制作も業務としている。
なので、試公開用の現在の『とりあえず版』から、本格的なリニューアル版に変更するに当たって、Mはかなり力を入れて頑張っている。

さて、先週のヨーロッパ出張の余韻も残る今日は、少し、ヨーロッパと日本の海洋文化、マリンレジャー文化の違いについて考えてみようかと思います。

過去に雑誌に書いたエッセイに、ヨーロッパについて書いたものがいくつかあります。
その中から今日は、フランスのコートダジュール周辺を歩きながらぼんやり考えたことを書いた一文を、読んでいただこう、と思います。
少し長いので、今日は前編で、明日の日記に後半部を掲載することにします。

――――――――――――――

コートダジュール、その光と陰(前編)

西村一広

仕事で南フランスに行った。書くのも少しこそばゆいが、コートダジュールである。紺碧海岸である。
以前サルディニアカップのロングレースで、2日目の夜明けにマルセイユ沖に打ってあるブイを回って再びサルディニア島に戻るというレースがあったが、そのときにチラリと南フランスの地中海岸を見た。
それ以来である。

仕事が終わったあと、何日間か長居をして、この地方の海とその背後にある山間部を少し歩いてみた。

【メルシー!】

正直に言うと、これは偏見でも何もないのでフランスびいきの人は怒らないで欲しいのだが、ぼくはフランスという国を苦手としている。なぜだか分からない。

自転車ではなく、セーリングでフランスを回るツールドフランスという自転車レースと同名のヨットレースで、フランスの大西洋岸を何日もかけてセーリングしたとき。
世界一周無寄港世界記録を目論んだ艇のクルーとしての契約の打ち合わせで何度かパリに滞在したとき。
これといって特にいやな目にあったわけでもないのに、なんだかこの国になじめない自分に気が付いた。

もしかしたら、たまたま知っている何人かのフランス人が、揃いも揃って非常に激昂しやすい人たちである、というのも原因になっているかもしれない。怒りやすいことでは人に負けてない(らしい)ぼくから見ても、こめかみをピクピクと引きつらせて彼らが突然怒り出すさまは、予測しづらいこともあって、とても恐ろしい。

以前、アドミラルズ・カップで、マークの内側にオーバーラップしたベルナルド・パセ(フランス人マッチレーサー)が、向かい潮が非常に強かったこともあって中々ジャイブしてくれなかったとき、我々のタクティシャンだったジョン・コーリアス(テキサス生まれのアメリカ人)が業を煮やして「早くジャイブしやがれ、このカエル食い野郎(フロッグ・イーター)!」と声をかけた。
それを聞いたティラーを持つパセの顔が、見る見る紅潮して、一瞬のうちにシュウシュウと沸騰するヤカンのような表情になった。

パセはフランス語で何か叫び、後続艇にどんどん抜かれるのも構わず、マークのずーっと向こうまで我々の艇を連れて行き、ぼくは心底困った。
あのとき、パセの頭頂部から噴き上がる、「ドッカーン」という怒りの爆発音が聞こえたような気がしたほどだ。それ以来パセは禿げてしまった。

まあ、これは、フランス料理のカエルの美味しさを知らないコーリアスがパセを怒らせすぎたせいで、悪いのはこちらだが、パリのレストランでも、ちょっとウエイターの対応が遅いとバーン!と両手でテーブルを叩き、「メルシー!」と捨て台詞を残して立ち去るお客を何人も見た。
そんなこんなでぼくはフランスの人と国が恐いのである。

しかしいつまでも恐がっているのも大人げないし、きれいな女性も多いと認めてないわけでもないので、今回は意を決して、数日をかけてコートダジュールとやらを歩いてみることにした。
海岸に沿って走るフランス国鉄の各駅停車に乗って、気に入った駅で降りては、街と海岸線を見て歩いた。

【ピカソに敗北】

ニースを中心にした南フランスの海岸線一帯、すなわちコートダジュール地方は、19世紀くらいから貴族やお金持たちがヴァカンスを過ごすリゾート地として人気になった。
フランス国土の海岸線にいきなりのように存在する小国、モナコ公国もこの地域にある。

華やかなヨーロッパ社交界を間近に見て、泊まるホテルによっては自分たちもその一部になったような錯覚を味わうことも出来るとあって、遠くトウキョウからもツアー客が数多く訪れるらしい。
ニースを真ん中にして、西の方向にはアンティーブ、カンヌ、東の方向にはヴィレフランシェ、カップダイル、そしてモナコと、良質のハーバーが各駅停車の電車の時間にして、それぞれ10分から15分の距離に点在している。

それらの港の近くには、『鷲の巣村』と呼ばれる、急峻な岩の崖の上に城壁で守られた村々があって、独特の風景が展開する。
この、要塞のような村々を見ていると、この時代になんでそんなに守りを固めて生きているのだろう、と思う。

この地方や隣のプロヴァンスはギリシャ時代の古くから侵略が繰り返されてきた。プロヴァンスという地方名は『植民都市』という意味の古語に由来しているらしい。
他民族からの侵略に対抗する手段として、否応なく要塞のような村の構造ができていったのだろうか。

ニースに代表されるような都市には、驚異的な辛抱強さで石を並べていったに違いない石畳の道路と、何世紀経っても朽ち果てることのない堅牢で重厚な建築物が目立つ。
それらを見て、ヨーロッパ文化に敬意を感じながらも日本を懐かしむか、日本とは異なる趣のヨーロッパ文化に憧れを抱いて日本の紙と木の家を恥じるか、「都会は石の墓場だ。人の住む所ではない」というロダンの言葉を思い浮かべるか。その人の感受性次第だろう。

コートダジュールにはまた、ピカソ、マティス、コクトーらのアトリエが今も残されていて、アンティーブの町には12世紀に建てられた城を改造したピカソ博物館もある。
ちょっと芸術的な気分に浸ってみようと思い立ち、中をのぞいてみたが、なんということだ、すべての作品の説明がフランス語だ。
ピカソについての基礎知識もないから、サッパリ分からない。ピカソを知りたいのなら、まずはフランス語を勉強してから来なさい、ということなのだろうか。

展示品の中に大胆なデザインのネクタイがあって、「ピカソはネクタイもデザインしたのか!」、と感心して、訳知り顔でじっくりと鑑賞していたら、それは来場記念の安物の土産物だった。

この地方は、地中海の中でも多くのマリーナが集まっていることでも特徴がある地域だ。もともとの天然の良港をヨットハーバーとして使っているところもあるが、ここにヴァカンスに来るお金持ち層の大型艇をターゲットに開発されたマリーナも多い。

カンヌやアンティーブなどにある古くからの港の多くは、漁船や小型のヨット用に使われているが、比較的新しく作られたハーバーには、日本ではほとんどお目にかからない大型艇が居並ぶプライベートやパブリックのマリーナがある。
天才指揮者と言われた故カラヤンが、<ヘリサラ>という美しいレーシング・マキシを置いてレース活動の拠点にしていたのもこの近くのマリーナである。

(以下、後半は明日の日記で)
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Jan.12-13 2006 ワインの国から熱燗の国へ

2006年01月14日 10時47分19秒 | Weblog
1月12-13日 木曜日-金曜日

今朝寝たのが朝3時半だったせいで、朝7時のモーニングコールにやっとのことで起こされて、シャワーで目を覚まし、荷造りもそこそこに、ホテルのレストランに向う。

出発前の1時間、朝食を食べながらのミーティング。
スロベニア滞在最終日なのに、今朝はスロベニアの美味しいハムを味わう余裕がなかったのが残念だったけど、とても有意義な1時間のミーティングになった。

ここに来たときと同じく、ミハ君が約束どおり9時15分にホテルまで迎えに来てくれ、チェックアウトを済ませて、イタリアのトリエステ空港までの約1時間のドライブに出発。

道中、トリエステと、そこから100キロのベネチアにまつわる歴史のレクチャーをミハ君からしてもらう。今日もいい天気で、イタリアサイドから見るアルプスが一望だ。

スロベニアは、1991年に旧ハンガリーから独立を果たした国で、わずか10日間だが、独立戦争も経験している、のだそうだ。

地中海に浮かぶサルディニア島とほぼ同じ面積だが、スロベニアの海岸線は、わずか47キロしかない。つまり47キロだけ海に接していて、あとはすべて山の中なのだ。
なのに、セーリングはすごく盛んだ。貴重な海だからこそ、それを大切に楽しもうとするのだろうか?
その論理からすれば、日本人は逆に海に恵まれすぎているから、海の素晴らしさに気が付かないでいるのだろうか?

海について言えば、日本人ほど不思議な人たちはいないと思う。政治家も、国民も、まったく海に重きを置かない。とーても不思議だ。

11時30分トリエステ発の便で、ミラノに向う。旧式のプロペラ機は、ベニス上空まで海岸線を飛び、それからアルプスの裾野に沿ってミラノに向う。
視界はものすごく良く、1時間半のフライトも窓の外の光景を見ているだけでまったく退屈しない。
雪を薄く被った険しい山肌のアルプスは、35ノット以上の風が吹く海を追い風で走っているときの、波の背中側から見る波頭を思い出させる。

ミラノ空港で、イタリア産のスパークリングワインとシャドネーを買い込み、成田行きの便に乗り込む。
食事が終わるや否や、すぐに意識を失うように寝てしまう。昨日ほとんど寝てないからな。

次に起きたら、飛行機はもう日本海を渡り終えるところで、あっという間に1月13日金曜日午前中の日本が目の前だ。
お昼前に成田に着いて、渋滞のない東関道、首都高、横浜横須賀道路をスイスイ走って葉山に戻り、今回のヨーロッパでのセーリングの資料と写真をプリントアウトして、夕方それを持って都内某所へミーティングに出かける。

ミーティングの後に流れた居酒屋で飲んだ熱燗が五臓六腑にしみわたり、自分の顔がまっかっかになっていくのが、鏡を見なくてもよく分かる。

かくて、今週月曜日に始まったヨーロッパ・セーリング出張は、本日金曜日、日本で無事完結した。
いやさか。

では、おやすみなさい。

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Jan.11 2006 スロベニアってばスバラシイ

2006年01月11日 01時27分19秒 | Weblog
1月11日 水曜日

朝、6時起きで、7時から、ラッセル・クーツと2人で、仕事の打ち合わせをしながら朝食。

7時45分。ラッセルの自分のBMWとは別の、ラッセルがアウディーから支給されているクアトロに乗ってマリーナへ向かう。濃いチャコールグレーの車体に、大きく 『Russell Coutts Audi』 と書かれたシルバーの文字が目立つ。

車の中で、昨今セーリング界で囁かれている、『次々回のアメリカズカップでラッセル・クーツはマレーシアからのチャレンジに参加する』という噂の真相を聞いてみる。

「そう、それ、俺も新聞で初めて知った。噂の出元のおおよその見当は付いているけど、有り得ないよ」
とのことでした。

8時出艇。
試乗のお客さんが来る前に2時間ほど、昨日以上に激しく艇をプッシュする。
「じゃあそろそろ次は、レーシング・タックだ」
「じゃあ、ジェネカー、アップしよう。レーシング・ホイストだ」
「レーシング・ジャイブ!」
「なぜ今のはうまくいかなかったんだ?もう一度トライだ」
「あのブイを下マークにして、ラウンディング練習しよう! レディー!」

以前、瀬戸内海を一緒にクルージングして回ったときにも感じたことだけど、ラッセルは、クルージングであろうが、自分が開発した艇の試乗会のためのテストであろうが、どんなセーリングであっても、自分の練習の時間にしてしまおうとする魂胆がある。
でもね、分るなあ、その気持ち。真面目なセーリングを追いかけることは、本当に楽しいもんね。

初めての艇でのメイントリムは、ラッセルに煽られて、燃えました。
ラッセル・クーツ44は、メインセールトリマーがトリムタブもコントロールするので、トラベラーを上げる、シートを緩める、ロールタックに参加する、新しい側のトラベラーを上げる、シートをトリムしてゆくという、一連のメインセールトリマーのタッキング中の仕事が、ひとつ増える。
でも、段々とスムーズにできるようになったぞ、楽しいなあ。

ラッセルと、ヘルムとメインを交代しながら、外気温5度の中、大汗をかいてセーリング。
本当に楽しいなあ。
今回はもちろん仕事で来ているのだけど、だからこんなに遠くの、今まで知らなかった国まで来ているのだけれど、セーリングしている瞬間は、仕事のことはすっかり忘れて、アドリア海でのスポーツ・セーリングを、めっちゃめちゃ楽しんでいる。

一緒に乗っているのは、世界のセーリング界のトップに君臨するラッセル・クーツだ。生きている伝説だ。彼が連れてきているクルーたちも一流だ。楽しくない訳がないのだ。
今回もまた、メイントリムとステアリングのヒントを、ラッセルから一つずつ教わった。

セーリングに関することなら何でも、ラッセルは常に最新の技術、理論を勉強をしていて、慢心するということがない。自分よりも歳下だけど、彼に学ぶことは、もちろんセーリングでも、セーリング意外でも、非常に多い。

ラッセルと、メインとヘルムを交互に交代しながらラッセル・クーツ44のセーリングを続ける。
RC44は、非常にセンシティブな艇で、しかも運転しやすく、セーリングが楽しい。その上、凄く速い。既存の44フィート艇の常識を遥かに超えたスピード性能に酔いしれる。

この日の夕飯は、地元スロベニアの元オリンピックセーラー(当時はユーゴスラビア代表)であるドゥーシェにスタッフ全員が招待されて、農家の納屋をそのまま使ったような不思議なレストラン。

前菜のトマトソースで味付けされたパスタも、メインディッシュの蛸とじゃがいもの地元料理も、スロベニア産のオークの香りの強い赤ワインも、すべて完璧だった。

そのレストランを出る頃には、際限なしに後から後から出てくるワインで全員激しく酔っ払い、ホテルに帰る途中でなだれ込んだ、怪しいロシア娘たちがたむろする酒場を後にするときに時計を見たら、午前3時だった。

明日朝、というか、もう今日だが、日本に帰る。
部屋中に脱ぎ散らかしているセーリングウエアをバッグに放り込んで、荷造りをしなければいけない。
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Jan.10 2006 ペペロンチーノ

2006年01月10日 00時43分16秒 | Weblog
1月10日 火曜日

軽い時差ぼけ気味の朝。
カーテンを開けると、空は真っ青に晴れ渡っている。

熱いシャワーを、身体から湯気が出てくるくらい時間をかけて浴びて、眠気を飛ばす。
ベランダに出て、関東地方の朝の空気を一段階冷たくしたような、キリリと引き締まっている空気を思いっきり吸い込む。

ここは、スロベニア。スロベニアで迎える生まれて初めての朝だ。この歳になってもまだ、『生まれて初めて』という経験ができるのが嬉しい。

ホテルのレストランで、ゆっくりたっぷりの朝食。
ヨーロッパの多くの国は、様々な種類のハムが美味しく、朝飯はそれが楽しみだ。
スロベニアのハムも美味しいぞ。
でも、もしメニューに、御飯、味噌汁、アジの干物、納豆、海苔のセットがあれば、間違いなくそちらを選ぶ。正しいニッポンの朝御飯は、世界最高的にウマイ。一日を闘う力もモリモリと湧いてくる。

朝食後、ロビーでラッセル・クーツと今回のセーリング・スケジュールを打ち合せる。
ラッセルとは、9月のサンフランシスコでのビッグボートシリーズのときに、セントフランシスヨットクラブで会って以来だ。
新しく買ったBMWで今朝早く着いたばかりだそうで、その車の性能が凄いらしく、ここに来るまでの3時間弱の爆走ドライブがどんなに楽しくてスリリングだったかを、打ち合わせそっちのけで延々と説明を受ける。

午前9時、ホテルの目の前のマリーナからアドリア海に出て、Russell Coutts 44クラスの4号艇のテスト・セーリング開始。

4号艇は、これまでに造った3隻のプロトタイプに比べると、構造を軽く、強く改良したため、まずは慎重に、徐々に負荷を掛けていきながらテストを繰り返す。
海面には12-15ノットの北東風が吹いている。

海は素晴らしく美しい。
西北西の方向の遠くに、雪を被ったイタリアの急峻な山々が見える。その手前の海岸線にベニスがあるはずだが、遠すぎて見えない。

午後は、マストチューニング。RC44のマストを作ったのは、F1のフェラーリにも参画しているカーボンコンポジット企業、Riba。素晴らしいマストだ。
ラッセルが、油圧コントロールのフォアステイのロードを慎重に試しながら、チューニングを進めていく。

チューニングが一応完成したのが、午後4時過ぎ。ヨットクラブに戻り、遅い昼飯のサンドイッチとコーヒーを摂りながら明日のスケジュールの打ち合わせ。それから艇の片付け。

一旦部屋に戻ってシャワーを浴び、午後8時にラッセル他のスタッフとロビーで待ち合わせて、夕食のレストランに向う。みんなついさっき昼ご飯を食べたばかりなので、お互いの近況報告などしつつ、ワインを飲みながらの軽い食事。
前菜のペペロンチーノだけを取ってメインディッシュにするが、これがとても美味しい。さすがイタリアの隣国、パスタの実力は脱帽モノ。

すみません、眠いので今日はここまでで、お仕舞いです。
おやすみなさい。
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