ホクレア夜話/第三夜~縄文人

2006年09月22日 | 風の旅人日乗
9月22日。
早めの昼食に成田空港第1ターミナルの蕎麦屋S坊でざるをたぐり、アムステルダム行きのKLM機に乗り込む。


昨夜あまり寝てないので飛行機の中でゆっくり眠ろうと思っていたら、映画が面白
い。最近映画館に行ってゆっくり映画を観る時間がなく、観たかったのに観損ねた映画が溜まっていて、ついつい飛行機の中で映画のはしごをしてしまう。
以前は作り手の独りよがりが鼻につくことが多かった日本映画だけど、最近は結構面白いな。


約12時間でアムステルダム到着、眠い。
アムステルダム空港はとても清潔で大きな空港で、ショップもバーもおしゃれだが、眠くて、乗り継ぎ便までの時間をあまり行動する気にならず、待合スペースのおしゃれなデザインのテーブルと椅子を見つけてこれを書いている。


ここアムステルダムから、次はイタリアのミラノに行き、そこからイタリア国内線に乗り換えてトリエステという港町に行く。でもそこが最終目的地ではなく、今度は車に乗り、国境を越えてスロベニアのポルトロッシュまで走る。ここが本日の最終目的地だ。
まだまだ先は長い。


西村一広

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Westさんのブログを見たら、ナイノア、昨日、無事に福岡に到着したようです。
明日の講演では、『地球交響曲(ガイアシンフォニー)第三番』のダイジェスト版も上映されるようで、何とも素晴らしい演出。
その後、一旦ハワイに戻り、26日に再び来日、27日には東京で記者会見があって、28日夕方まで滞在の予定とのこと。
福岡の講演会には行くことが出来ませんでしたが、東京方面で、急遽、公開イベントが組まれないかものかと、内心期待を膨らましている方も多いのでは?

さて、『ホクレア夜話』の第三夜目は、2001年の舵誌に掲載された『太平洋のセーリング・ルナッサンス』の中盤の続きから。
(text by Compass3号)

『太平洋のセーリング・ルネッサンス』<<舵2001年掲載>>

蘇る太平洋古代外洋カヌー

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

(第二夜から)

第二部

縄文人

日本人はかなり古い時代から外洋航海をしていた、という学説を唱えている学者がいる。
以下がその根拠だ。
今から22700年ほど前の旧石器時代後期。神奈川県相模原市の遺跡から見つかるものの中に、黒曜石がある。黒曜石は矢尻などに使われた重要な石だ。そこで見つかる黒曜石の一部は、伊豆諸島の神津島産のものと分析されている。
その時代、海水面は現在よりも80メートルから140メートルも低く、日本の西側の一部は大陸と繋がっていた。神津島は当時今の新島などと繋がった大きな島だったが、それでも、少なくとも20海里(38キロ)は本州側と海で隔てられていたと考えられている。
今年5月、八丈島からセーリングで帰る途中に気を付けてよく見てきたが、神津島の東側から南東側にかけての崖に、黒曜石の黒々とした幅広い地層がくっきりと見える。
もう少し新しい時代の鹿児島の遺跡からは特殊な石斧が見つかっている。これは舟を刳り貫くために使われたとされている道具で、その当時から本格的な舟造りが行われていたと推測されている。ただし、舟そのものが見つからないのでこの学説は仮説止まりだ。考古学は証拠があって初めて成り立つ学問で、だから功を焦る人が捏造を思いついたりする。
しかし、もし舟ではないとするなら、神津島の黒曜石は一体どんな方法で島から運び出されたというのか?
次は、6000年から4000年前の縄文時代前~中期の話。
ぼくが小学校や中学で教わった縄文人像は、槍を持って獣を追いかけたり、木の実を拾ったりしながら一ヶ所に定住しない狩猟採集生活者だった。
しかし、縄文時代前~中期の代表的な遺跡である青森の三内丸山遺跡で見つかっている物は、大型のマグロの骨、そして地上10メートル以上に達すると推測される木造建築物の土台、穀物を貯蔵していたと思われる高床式の建物跡。
三内丸山遺跡は交易港で、縄文人は優れた商文化を持っていたという説が有力になりつつある。直径90センチもの栗の丸太6本で組上げられた木造構造物は、海を見張ったり海からの目印に使われた構造物ではないのか?これだけの規模の木造構造物を作る能力があれば、その能力は大型の船を造ることにも使うことができたのではないか? しかし、ここでも船そのものが見つからないので、考古学ではこの仮説は仮説のままだ。大型の船ではないとすれば、遺跡から骨として発見される大型マグロは、一体どんな方法で獲ったというのか? 
稲作は弥生時代になって伝わったとぼくの時代の中学生は学校で教わったが、最近になって縄文後期の米の化石が発見された。ここでも昔常識として教わったことが常識ではなくなり始めている。
縄文前~中期になると旧石器時代に比べて海水面は随分と高くなり、神津島は本州沿岸から遠く離れていったが、それにもかかわらず神津島産の黒曜石は更に人気を博したようで、北は東北地方や能登半島、西は渥美半島、南は八丈島まで、広い範囲の多くの遺跡で神津島産の黒曜石が見つかるようになる。
八丈島には、5000年前の縄文時代の遺跡、倉輪遺跡がある。この遺跡からは黒曜石製の石器や動物の骨を加工した釣針の他に、関西地方から東北地方に至る、ほとんど太平洋岸全域から持ち込まれた縄文土器が見つかっている。この遺跡に住んでいた人たちはこれらの地方と積極的に交易をしていたと考えざるを得ない。
遺跡で発見されたものの中には、イノシシ、犬の骨に混じって、大型マグロ、鮫、果てはシャチの骨までもがある。イノシシや犬は本州から連れてきたと考えられている。大きくなる前の子供のイノシシを舟に乗せてきたとしても、シャチを捕るなんて、小さな舟や並みの航海術でできることじゃないのではないか?
2ヶ月ほど前にセーリングで八丈島に行き、その倉輪遺跡を訪ねてきたが、そこは南の海が見渡せる小高い丘にあり、八丈島名物の強い西風がうまく遮られる場所にあった。海を見張りシャチやイルカがやってくるのをチェックするには最適な場所だった。陸での生活を中心に考える人たちが住むのに適してるとは思えない、海の方向を向いて生きていた人たちが住む場所であった。
この遺跡に住んでいた人たちは定期的に内地との間を行き来していたと考えられている。八丈島近海は今と同じく当時も黒潮の通り道。黒潮は2ノットから5ノットものスピードで流れている。
台湾から鹿児島、石垣島から東京までをシーカヤックで漕ぎきった内田正洋という男がいる。彼によれば、最も高速、最も対航性に優れた現代のシーカヤックをもってしてもこの黒潮を手漕ぎで乗り切るにはとても不可能だという。もし当時の縄文人がこの海を自由に行き来していたのであれば、セーリングの技術を持っていなければならなかったはずだと彼は考えている。
しかも、この緯度は風向が一定している貿易風帯ではない。風はほとんどあらゆる方向から吹いてくる。本州と八丈島を行き来するには風上へも切りあがっていく帆走性能を持つ船が必要だったはずだ。
今から5000年前、縄文人はセーリングで自在に海を走り回っていた。しかし謎めいたことに、八丈島の縄文人は約400年間この倉輪遺跡に住んだ後、突如として姿を消す。それはこの地方の気候が寒くなりはじめた時代、三内丸山の集落が急速に衰退したのと時を同じくする。

(第四夜へ続く)