ある産婦人科医のひとりごと

産婦人科医療のあれこれ。日記など。

逮捕、裁判、産科崩壊。そして患者だけが取り残された―。(女性自身)

2008年06月11日 | 大野病院事件

コメント(私見):

『産科医療のこれから』の記事を読んで、今朝さっそく出勤の途中でコンビニに立ち寄って、生まれて初めて『女性自身』を買いました。女性週刊誌でも大野病院事件をちゃんとした形で取り上げているということは歓迎すべきことです。とても真面目な記事で、一般の方々に大野病院事件の本質について知ってもらういいチャンスですから、ぜひとも多くの人に買って読んで頂きたいと思います。

産科医療のこれから:“大野事件”この裁判に何の意味があるのか 女性自身

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福島県立大野病院の医師逮捕事件について
(自ブロク内リンク集)

****** 女性自身 2008./6/24、p76-82

シリーズ人間No.1903

逮捕、裁判、産科崩壊。
そして患者だけが取り残された―。

 2006年2月、福島県立大野病院の産婦人科医加藤克彦医師(40)が、帝王切開手術で患者女性が出血死した件で逮捕された。『医療ミス』が原因と疑われた事件だったが全国の医師は『医師側に落度はない』と、抗議の声明を次々に発表。また逮捕後、産婦人科を廃止する病院が急増した。この事件がもたらしたものとは何だったのか、検証する。

 「大野病院事件」は産婦人科だけの問題ではない。
 裁判の結果しだいでは、訴訟を恐れ、外科でも医師が難しい手術を拒否する可能性も当然出てくる。そうなれば、日本の医療崩壊は加速する。
 医師側、検察側それぞれに言い分があるのはわかる。だが、私たち、“患者側”には、何か残るのだろう。考えたい。誰のための裁判なのかを―。

 ありふれた、テレビニュースの一場面だったかもしれない。連行される男性の両手に手錠があるのも、いつもの見慣れた光景。続いてキャスターから、連行されたのが医師であることが告げられる。
 「また、医療ミスか……」
 おそらく多くの人が、カルテの改ざんや隠蔽、投薬ミスによる死亡事故などをすぐに連想したのではないだろうか。しかし、実際にはいつもの医療事件とは、その背景も社会に及ぼした影響も大きく異なっていた。
 2004年12月17日。
 福島県立大野病院・産婦人科の加藤克彦医師(40)は一人、出産時の癒着胎盤の手術で大量の出血と闘い、患者を救おうとしたが果たせず、母体死亡という結果を招いた。
 「一人」というのは当時、加藤医師が「一人医長」といって、産婦人科医不足のため一人でその病院と地域の産科医療に携わっていたからだ。
 衝撃が走ったのは1年以上が経った06年2月18日。
 加藤医師は業務上過失致死罪と、異状死を24時間内に所轄警察署へ届け出る義務を怠った医師法21条違反の疑いで逮捕される。
 医師が業務上過失致死で起訴されるなど異例ずくめの逮捕劇だったが、その極めつきがテレビ放映。おそらく警察から情報が流れたのだろう。手錠をかけられた加藤医師の姿が全国放映された。
 それは所轄の富岡警察署の功績となったようで、その後福島県警から表彰されているという。
 事件の初公判は、07年1月26日。
 「亡くなられた患者さんのご冥福を、心よりお祈りいたします」
 初公判終了後の記者会見。その最後に加藤医師は立ち上がり、神妙な面持ちでそう述べると深々と一礼した。
 しかし、自らの過失については否認を通した。そして、08年3月21日の13回目の公判で、検察側から禁固1年、罰金10万円の求刑を受けた。
 一方で、加藤医師の逮捕からほどなくして、全国の医師会は「逮捕は不当」との声明を発表。診療科を超えた医師たちによって『加藤先生を救う会』が次々と立ち上げられ、署名活動もスタートした。
 医療も裁判も専門家ではない記者にとって、この一連の動きは理解できなかった。
 人ひとりの命が失われていながら、過失を認めようとしない被告がいる。
 また、連行される姿がテレビ放映までされた事件だったことを考えると、量刑も軽いように感じる。
 加えて、医療界の歩を揃えたような「反対声明」もこれまでにはないものだった。
 何かが、置き去りにされている。なんのための逮捕だったのか。いったい誰のためのものなのか……。
 そんな疑問から取材ははじまった。まずは、4年前の事件当日を資料と証言をもとに再現してみたい。

分娩手術で直面したのは1万件のうち
2、3件の症例という「癒着胎盤」

 '04年12月14日。手術3日前。加藤医師は妊娠36週のAさんに手術の説明をした。その際前置胎盤の出血等の危険性や帝王切開手術となることにもふれていた。
 Aさんは29歳の経産婦で、1人目を帝王切開で出産していた。
 前置胎盤とは、通常なら子宮上部に付着する胎盤が子宮の出口付近に付着した状態。とくにAさんの場合は、子宮口を胎盤にふさがれて赤ちゃんが出ることができないため帝王切開するしかなかった。
 12月17日13時30分。手術当日。
 Aさんが手術室に入る。開腹後、子宮に直接超音波を当てて子宮と胎盤の癒着をチェック。癒着が怖いのは、子宮から胎盤が剥がれなくなるからだ。過去の帝王切開痕を持つAさんは癒着の危険度が高かったが、この検査で癒着を示す所見はなかった。
 14時26分。手術開始。
 同36分、出産。3000グラムで、36週にしては大きめの赤ちゃんだった。出血もここまで羊水を含めて2000mlで、異常は認められなかった。分娩室のなかに一瞬安堵の空気が流れたことが想像できる。
 ところが、続いて胎盤剥離に移ったときだった。
 胎盤はスムーズに剥離できず、医師の指を手刀のように使っての用手剥離で3分の2ほど剥離した。そのとき初めて、手では剥がれにくい癒着が確認された。
 のちの裁判で、検察側は帝王切開の既往があるAさんの場合、癒着胎盤は当然予想すべきであったと主張した。
 しかし、現場の医師たちの意見は真っ向から対立する。
 「癒着胎盤は1万件に2、3件。医師によっては一生遭遇しないほどの稀な症例。癒着は超音波やMRIで診断しますが、正診率は低く、実際に開腹してみて胎盤を剥がしてみなければ発見は難しい」
 6000件の分娩のうち1000件の帝王切開を手がけた、東京都立府中病院産婦人科部長の桑江千鶴子先生(56)でさえ、癒着のある前置胎盤はいまだ経験していない、と語る。
 手術室に戻る。ここにきて、加藤医師はクーパーを使用する。先端がゆるく湾曲した手術用ハサミだ。
 10分後。加藤医師は、クーパーと用手とで胎盤剥離を終えた。しかし、出血は止まらない。
 「産科の出血は特別」
 そして、多くの医師は、揃ってこう言う。
 「蛇口から水がジャージャー流れ出るようで、一瞬で血の海になるほどだ」
 昭和大学医学部教授の岡井崇先生(60)は、医師になって7年ほどしたとき前置胎盤を手がけた経験がある。
 「あの出血を見ると足が震え、手も動かなくなりますよ。僕なんて、今でも怖いと思います。同じ産婦人科医と2人で手術しました。よく救うことができたと不思議に思うほどです」
 当然、一人医長の加藤医師の場合は、手術室で相談する産科医はほかにいなかった。医療ミスが起きたとされる当日の手術室の様子が明らかになるにつれ、加藤医師と事件に対して抱いていた記者の先入観は、揺らいでいった。
 15時35分。血圧が低下し、出血量が羊水込みで7000mlのところで、子宮摘出を決断。16時30分。追加の輸血が届く。子宮摘出手術を開始。
 1時間後。子宮摘出。その直後だった。安定しているかに見えたAさんに心室細動(心停止)が起きる。
 すぐに心臓マッサージを施すなどしたが1時間半後、力尽きる。
 19時1分。加藤医師はAさんの死亡宣告をする。死亡原因は、癒着胎盤による出血性ショックと考えられている。
 手術室の前でも、また別の緊迫した時間が流れていた。
 午後3時前。出産後まもかく出てくるはずの母親の姿が現れない。気をもむ家族たちは看護師に尋ねようとするが、せわしなく出入りするばかり。ナースステーションに聞きにいっても目をそらすように散っていったー。
 というのが、遺族が裁判で陳述した当日の様子だ。
 19時過ぎに死亡したことを聞かされたにもかかわらず、家族が遺体と対面したのは、夜になった22時過ぎだった。
 Aさんを手術室に見送ってから9時間近くが過ぎていた。

「加藤医師に落度はない……」
だが、尊い命が犠牲になっている

 「彼に落度があったとは思えません。メスを握る医師にしてみれば、これは誰にでも起こりうるケース。懸命に治療に当たった医師が刑事罰を受けるようなことがあれば、すでに進んでいた産科の、いや日本の医療崩壊をなんとか食い止めようとしていた医師たちの心を折るようなものです」
 桑江先生は言った。それでなくても、もともと病気ではないといわれるお産を扱う産科の訴訟率は、内科や外科に比べて群を抜いて高い。患者にすれば、期待と結果の落差が大きいからだ。若い医師たちが産科勤務を敬遠するゆえんでもある。
 いわゆる大野病院ショックがこの産科離れを、医療崩壊を加速させた事実は誰より現場の医師たちが痛感している。岡井先生もその一人だ。
 「奈良のたらい回し事件もそうですし、リスクがあれば救急病院ですら見たがらない。個人の診療所でできる処置もこっち(大学病院)に回ってくる。医師はみんな、『大きい病院じゃないと不安だ』と言って、次々に分娩が休止されています」
 実際、今年1月以降全国で77病院が分娩休止、制限を予定している。すでに地方では難しい患者の受入れ拒否が相次ぎ、「病院ではなく、救急車の中で患者が亡くなっている」という複数の医師の証言もあった。
 桑江先生は、
 「もし、加藤先生が有罪に問われるようなことがあれば、私の病院の部下に同じようなリスクを背負わせるわけにはいきませんから、分娩を取りやめるか、安全が確保される患者数に制限することを考えています」
 たしかに、医療崩壊を早急に食い止めなければいけない状況は理解できる。だが、患者側とすれば、医療側の制度や法律の前にもっと大切なものがある。それは、患者と医師の信頼関係だ。
 東京大学医科学研究所の上昌広先生(39)は、Aさんの手術の間、家族らが何の説明もされず待たされていた事実に注目する。
 「病院側のクライシスマネジメント(危機管理)。これは一緒に学んでいくべき課題。加藤先生は手が離せなかったとはいえ、院長なり責任ある人が逐一状況の説明をすべきでした。迅速に情報を開示していれば、ご遺族の理解を得られたかもしれません」
 インフォームド・コンセント(説明と同意)という言葉が日本でも使われるようになって久しいが、昨今、頻発する医療訴訟も、これがないがしろにされているところに端を発しているように思われてならない。
 命を医師に預ける患者側にすれば、死亡者が出た手術の過程で、やっぱり医師からの説明がなかったという事実は、どれだけ加藤医師弁護の言葉を力説されたとしても、どうしても受け入れられない。
 そう思ってしまうのは記者だけだろうか。取材前に感じた疑問が、また脳裏に浮かぶ。
 いったい何のための、誰のための――。

「許されるなら、再び医師として
働きたい。地域医療を担いたい」

 5月16日、福島地方裁判所大野病院事件の最終弁論が行われるこの日、法廷開始の30分ほど前に、加藤医師が弁護士と2人、タクシーに乗って裁判所前に現れた。待ち構えていた報道陣が、いっせいにカメラを向ける。
 グレーに薄いストライプの入った地味なスーツ。白のワイシャツと濃い臙脂色のネクタイ。この日のためだろう、頭をきれいに刈り込んでいる。分厚い大きな鞄を待って、弁護士と一緒に裁判所に入っていった。廷内には、記者が座った傍聴席の前にAさんの遺族らの姿もあった。
 午前10時、開廷。
 最後に、加藤医師本人の意見陳述が行われた。
 用意したペーパーを手に、一礼して証言台へ。言葉を発する前、大きく深呼吸をし、一度両肩を上げ下げしてから語り始めた。
 「Aさんに対し、信頼して受診していただいたのに、お亡くなりになるという最悪の結果になって、本当に申し訳なく思います。初めて受診に来たときから、お見送りさせていただいたときまでのいろんな場面が今も頭に浮かび、離れません」
 静かに語る後ろ姿から、その生真面目さがうかがえる。主任弁護人の平岩敬一氏を通じて、本人から話を聞きたいと何度か依頼したが、
 「彼自身、人並み以上に口が重く、それに遺族のこともあるので、取材にはいっさい応じていません」
 加藤医師は96年に医師免許を取得後、公立岩瀬病院などを経て大野病院へ。この間、約1千200件の分娩を扱い、うち200件が帝王切開。
 '04年には前置胎盤の手術も無事に終えている。一貫してお産と地域医療にこだわったのは、父も産婦人科医だったことと無縁ではないだろう。
 医師としての技量については、報道資料などを読んだほかの医師から「出血量や処置の仕方を見ても、腕のいい産科医だと思います」との評価もあった。だからこその一人医長でもあったはずだ。40歳という年齢を考えても、寡黙にしてプロとして脂の乗ってきた中堅医師の素顔が浮かぶ。
 「年1回の学会くらいは出てもいいんじゃないかと言っているんですが、それも自粛しています。起訴されるまではAさんの月命日には必ずお墓参りもしていました」(平岩氏)
 逮捕後、加藤医師の身分は「休職中」である。事件の舞台となった大野病院では産科もまた休診状態となり、入院・通院含めて30人ほどの患者らは転院を余儀なくされた。
 記者は裁判の数日前、大野病院を訪ねていた。のどかな田舎町にある病床数150の中規模病院。ここで加藤医師は、平日は9時から2時までの外来を担当し、その後は手術や検査に加えて子宮筋腫など婦人科領域と、さらに婦人科がん患者の終末医療にも尽力していた。患者らへの取材でも、「早く加藤先生に戻ってきてほしい」という声を聞いていた。
 法廷では、加藤医師の意見陳述が続いていた。
 「あの状況で、もっとよい方法はなかったのかと考えますが、どうしても思い浮かばずにいます。ご家族にわかってもらいたいが、受け入れられないと思います」
 ずっとこの裁判の傍聴を続けてきた医療雑誌『ロハス・メディカル』発行人の川口恭氏(38)によれば、今回の逮捕劇の一つの原因には遺族をどうやって救済するか、の問題があるという。
 入手した県立大野病院医療事故調査委員会の報告書には、『用手的に剥離困難の時点で癒着胎盤と考えなければならない。クーパーを使用する前に剥離を止め子宮摘出に直ちに進むべきであったと考える』
 と、また一方で、『県と病院側はミスを認めて遺族に謝罪』との新聞報道もあった。当時、警察を逮捕に踏み切らせたのが、この報告書だったとされる。
 しかし、その報告書を鵜呑みにできないと川口氏は見ている。医賠責という保険に医者は入っているが、これは医療側に過失がないと支払われないシステムだ。
 「つまり、ミスを報告しないと保険からはお金が出ない。大野病院は県立病院なので、たとえ税金を使って補償するにしても正当な理由が必要。遺族にお金を支払うには、過失がないと困るのです」
 だからこそ、裁判では一転して被告側はミスを否定、検察側もこの報告書を証拠請求していない。
 「今後はミスがなくても補償される『無過失補償制度』の拡充が急がれます」
 加藤医師の意見陳述は、まもなく終わろうとしていた。
 「真摯な気持ちと態度で医療、産婦人科医療の現場におりました。再び医師として働かせていただけるのなら、また地域医療の一端を担いたいです」
 再び、赤ちゃんを取り上げる産婦人科に、それも以前同様、地域医療の現場に戻りたい、と陳述は締めくくられた。
 実は、平岩弁護士からこんな話を聞いていた。「彼は逮捕から1週間後に子供が生まれました。それは検察も知っていたでしょう。 本当なら自分で取り上げる予定でしたが、それもかないませんでした」
 接見の場で我が子誕生の報を受けたとき、加藤医師は何を思ったのだろうか。おそらく寡黙な彼の目から語られることはないだろう。だが、陳述の最後で述べられた医療現場復帰への意思表示は、彼の医師としての心が折れてはいないことの証しと信じたい。

この裁判に何の意味があるのか。
“患者”に何か残ったのか――。

 「この裁判に、いったい何の意味があるのか。加藤先生を罰することで、何か得られるのでしょうか」
 大野病院事件をきっかけに内科医でありながら『周産期医療の崩壊をくい止める会』を発足させた上先生のこの思いは、関係者だけでなく、記者をはじめ事件を知った人に共通の憤りである。
 「加藤先生を罰して遺族の気持ちが晴れるのでしょうか。残念ながら、お母さんを亡くすというつらい結果でしたが父親とお子さんには今後の人生と養育や補償の問題もあります。裁判が最高裁まで持ち込まれる可能性を考えると、遺族の方もなかなか前に進めないのではないでしょうか」
 現在、裁判中のため遺族への医賠責による補償はストップしたままである。つまり、最高裁まで長引けば数年間は、何の補償も始まらないことになる。かけがえのない家族の命を失ったうえに背負わされた苦悩の果てはいまだ見えない。さらに、加藤医師が有罪になった場合、今まで語られたとおり、治療が難しいと思われる患者の診療拒否や、たらい回しといったケースが増えるのは避けられないだろう。
 そして、天職を奪われた医師本人の職場復帰はいつ決着がつくのか。そう考えると、いったいこの裁判で何か解決するのだろうかという無力感に襲われ、そもそもこの逮捕劇とは何だったのだろうかという思いにまた立ち戻ってしまう。そんなとき思い出すのが、岡井先生のこの言葉だ。
 「これがきっかけになって産科の医療現場の実情が知られたり、議論が活発になるのは唯一の救いかもしれません」
 怒気を含んだ言葉には、いささかの皮肉も込められていたかもしれない。たしかに、表彰されたのが加藤医師を逮捕した警察だけというのも、なんともやりきれない。
 しかし、残された者たちはまた前に進んでいかなければならない。こんな事件が二度と起きないために。
 これは、事件当事者だけの話ではない。いつでも患者になりうる私たち一人ひとりの問題でもあるのだ。
 急ぐべきは、たとえば先の無過失補償制度の拡充、そして、患者側と病院側の信頼関係づくり。
 5月16日の最終弁論の後、その患者側であり、遺族であるAさんのご主人に話を聞こうとした――。
 「すみません。何も答えたくないです」
 なぜ妻が、我が幼な子の母親が死ななければならなかったのか、その意味をはかりきれずに苦しむ姿があった。この遺族の苦しみはあとどれだけ続くのか。
 8月20日、日本の医療の行く末を占う判決が出る。

文/堀ノ内雅一
取材/小野建史
撮影/高野 博
写真提供/共同通信
 

(女性自身 2008./6/24、p76-82)