ある産婦人科医のひとりごと

産婦人科医療のあれこれ。日記など。

回顧録

2021年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和63年12月某日、当時私は信大産婦人科の一医局員でしたが、突然、「教授室まで来るように」と(故)福田透教授から連絡があり、一体全体何の話なのかと思って教授室に行ってみると、「今度飯田市立病院に産婦人科が開設されるが、その初代部長として赴任することを命ずる」という一言でした。その直後に当時の飯田市立病院長の(故)宮川信先生に初めて電話をし、「今、教授から飯田市立病院に赴任するようにという話がありましたので、今後よろしくお願いします」と挨拶しました。その後、市立病院産婦人科開設の担当職員から連絡があり、「4月1日付けの開設なので年明け早々すぐに産婦人科外来の工事に取り掛かる必要があり、すぐにその図面を書く必要があり、まずは早急にその概略図を書いて提出して欲しい。開設時に必要な医療機器を購入する手続きに入るのでその機器購入リストをすぐに提出して欲しい。医療機器の予算としてはとりあえず1億円確保してある」などと矢継ぎ早に言われ、突然、産婦人科開設準備で大忙しの身となりました。
 
何とか無事に産婦人科を開設して軌道に乗せたと思っていたら、平成4年度に新病院が完成し引っ越すことが決まっていて、すでに新病院建設の工事も始まっていて、新病院の産婦人科外来と病棟の図面、医療機器の購入リスト作成作業に取りかかりました。新病院に移ってからも産婦人科の患者数は毎年増える一方だったので、数年ごとに外来を拡張したり、分娩室を増室したりといつも産婦人科は工事ばかりしてました。それでも施設が手狭となり、平成26年には県下最大規模の周産期センターが完成し引っ越しをしました。
スタート時は産婦人科医一人と助産師二人の計三人だけだった産婦人科スタッフも、年々大幅に増員され続けました。考えてみたら、在職中の三十年間はいつもいつも拡張工事ばかりやっていて、拡張につぐ拡張で産婦人科はかなり巨大な組織となってました。もしも個人で産婦人科医院を開業していたら、医院を新規開設するにも拡張工事をするにも、その度に個人で何億円も大借金を背負わねばならないし、雇ったスタッフ達には給料を支払わなければならないし、自分が歳を取って引退する時には後継者にちゃんと事業を引き継ぐ必要もあります。後継者が見つからなければ、適当な時期に事業を終了して医院を閉院し、スタッフを全員解雇する必要があります。そういう事を考えると、私の人生では仕事としてやりたいことは思う存分に全部やりきって、いつもとても楽しかったし、大勢のスタッフ達は今もちゃんと立派にやってくれていて、産婦人科の患者さんを市立病院に紹介するといつでも迅速かつ適正に対応してくれます。
 
私の時代はすでに終わってますが、元職場のスタッフの皆さんとの良好な関係があるので、今でも仕事がとてもしやすいです。もしも退職後に他の地域に移っていたら、どこであろうとこんなに働きやすい環境は絶対に得られなかっただろうと確信してます。今や私は市立病院の最大の利用者の一人となってます。市立病院のスタッフの皆さんには心から感謝してます。
 

人生の岐路

2021年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム

思えば人生には多くの岐路があり、多くの出会いがあり、多くの人々に導かれて、私はここまでやって来ました。

もう50年以上前のことになりますが、高校生の頃、私は数学と英語が好きで、大学受験の時は名大理学部と南山大外国語学部英米学科とを受験しました。当時はオープンキャンパスなんてものはなくて、田舎の高校生が大学キャンパスを見学する機会はほとんどなく、受験日当日に生まれて初めて大学のキャンパスを見ました。名大理学部の方の受験生はほとんど男性ばかりでしたが、南山大外国語学部の方の受験生は女性が多くキャンパスの雰囲気は非常に華やかでした。あの華やかな世界では生きていけないと直感し、地味な名大理学部の方に進みました。名大生時代は下宿にこもって趣味の数学と英語の勉強に没頭しました。そんな数学・英語漬けの日々の中で、立ち寄った本屋さんで(故)大塚敬節先生の漢方医学の入門書に出会いました。たまたまその本を立ち読みしたのが医学の世界との接点で、突然湧き上がった漢方医になりたいという気持ちをおさえきれず、医学部受験を決意して信大に願書を提出しました。

受験のために初めて訪れた松本の雰囲気に魅了され、ここに移り住みたいと強く思いました。運よく入学が許可され、松本での生活が始まりました。医学部6年の時に、医学生が市民に医学の世界を解説する医学展という行事が開催され、私も医学生として参加し、趣味の東洋医学についての展示発表をしました。その時、当時産婦人科講師の(故)飯沼博朗先生が顧問になって医学生の面倒を見てくださいました。飯沼先生が「産婦人科では漢方や鍼灸を実践できるよ」と産婦人科入局を熱心に誘ってくださいました。偉い尊敬する先生から直接誘っていただいて感激し、その場で産婦人科入局の決意表明をしました。大学院生の私を婦人科腫瘍学の世界に誘って研究を指導してくださったのは、当時産婦人科講師のNH先生でした。大学院では子宮体癌の臨床病理学的研究に従事しました。大学院修了後は、当時産婦人科助教授のTY先生の御指導で婦人科細胞診の勉強を始め、しばらくは明けても暮れても細胞診修行に没頭しました。

信大産婦人科に入局して7年経過し、これからどこでどうやって生きていくべきかと思い悩んでいた矢先に、飯田市立病院に新規開設される産婦人科の初代部長に、(故)福田透教授が私を指名してくださり、平成元年4月に松本市から飯田市に家族を引き連れて引っ越して来ました。飯田市立病院産婦人科が開設された当初の2年間は、一人医長で頑張りました。その後、日本医大講師(医局長)だったHH先生が就任してくれました。HH先生とは全く面識がなかったんですが、たまたま初対面の日に異所性妊娠の緊急手術を手伝ってもらって意気投合し、そのまま縁あって14年間よき相棒として一心同体となって一緒に働きました。HH先生は長年にわたり苦楽を共にしてくださって、いくら感謝しても感謝しきれません。福田先生の後を継いで信大教授となられたFS先生は、しばしば飯田まで手術指導に来てくださって、非常に多くのことを学ばさせていただきました。FS先生の後を継いで信大教授となられたKI先生もしばしば手術指導に来てくださって、多くのことを学ばさせていただきました。日本医大教授だったKH先生は、10年以上にわたり腹腔鏡手術の指導に毎週来ていただき大変お世話になりました。また、信大産婦人科教室の先輩や後輩の多くの先生方が常勤や非常勤で入れ替わり応援に来てくれました。KI先生の後を継いだ信大教授のST先生からも非常に多くのことを学ばさせていただきました。

飯田市立病院産婦人科は、開設以来いつつぶれてもおかしくない危機的状況が長く続き、常に自転車操業を続けてましたが、この地で偶然出会った多くの人々に助けられ支えられて、何とかこの世の中にかろうじて生き残り、その後奇跡的に大発展を遂げました。

飯田下伊那地域における産科医療提供体制の変遷(平成の30年間を振り返って)

いつのまにか30年の月日が流れ、私の飯田市立病院での任期も平成31年3月で無事に終了しました。現在、飯田市立病院では優秀な医局の後輩医師達が地域の産婦人科医療の中核を担ってくれているので安心してます。私は定年退職後、縁あって西澤産婦人科クリニックに就職し、藤田医科大出身の先生方と主に不妊症診療に従事してます。また毎日多くの産婦人科の患者さんを飯田市立病院に紹介し、市立病院の先生方には日々大変大変お世話になってます。

できればなるべく長く健康状態を維持し、微力ながら地域医療に貢献していきたいと考えてます。初心に立ち返って漢方医学の勉強も再開したいです。また、「ライフスパン、老いなき世界」デビッド・A. シンクレア(著)、「開かれたパンドラの箱、老化・寿命研究の最前線」今井眞一郎(著)などを読んで、アンチエイジング医学の世界に興味を持ち、自分の体で実践し始めました。現在は、間欠的断食、有酸素運動、筋トレ、週末登山、水中運動、ヨガ、サウナ・冷水浴の励行のほか、NMN、メトホルミン、レスベラトロール、ザルティア、八味地黄丸などを毎日内服してます。信大産婦人科医局の大先輩であるTK先生は私より少し前からアンチエイジング医学の実践を始めていて、この分野でも有益な助言をよくいただいてます。ともに百歳まで元気で現役続行することを目指してます。


久しぶりの投稿です

2020年06月14日 | 日記・エッセイ・コラム

ご無沙汰してます。このblogは約6年間ずっと放置状態で、存在すら忘れてました。

昨年3月に30年間勤務した地方公立病院を定年退職しました。在職中は、最後の最後まで当直もやって毎日多くの手術や分娩に関わってました。

定年退職後はおかげさまで当直もなくなって、早寝早起きの健康的な生活を送ってます。今の私の新しい職場は大勢の不妊症の患者さんがいらっしゃる環境です。これまでは婦人科腫瘍や周産期医療が一応の専門領域で、生殖医療は全くの門外漢で自分には一生涯関係がない遠い世界と思ってきましたが、ここに来て、生殖医療漬けみたいな生活になりました。新しい職場の生殖医療専門の先生方や胚培養士、不妊カウンセラーなどの諸先輩方に一から基本を教えていただく毎日です。私も67歳になってしまったので、今、めでたく妊娠した患者さん方の赤ちゃんが成人した頃に自分が生きているかどうかもわかりません。でも、その子達が日本の未来を支えていくことは間違いないので頑張りがいがあります。

先週、ワードプレスを使用して新しいblogを立ち上げました。主に生殖医療の超基本的な知識について1日1投稿を目指します。まだ始めたばかりなので記事は少ないですが、だんだん内容を充実させていきたいです。今後よろしくお願いします。

ある産婦人科医のひとりごと

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人生は自分の好きなことを探す旅

2013年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム

四十数年前の大学受験生だった頃、教科としては数学と英語が好きでした。将来どちらの分野を専門にするのか出願時にはまだ決めかねて、理学部と外国語学部の両方を受験しましたが、結局はどちらもやりたいと思って理学部の方に進み、数学と英語漬けの楽しい数年間を過ごしました。

数学修業の志半ばで漢方医学の勉強をしたくなったのをきっかけに医学部を再受験し、医師となってからの最初の数年間は大学院に在籍して婦人科腫瘍学や婦人科細胞診の勉強に明け暮れました。今の病院に就職してからは、明けても暮れても悪性腫瘍手術や腹腔鏡下手術に邁進した日々もありました。

数年前より在職中の病院の分娩件数が急増して、以前と比べて自分の中で周産期医学の勉強の占める割合が大きくなり、最近になってALSOの勉強も始めて、今後はALSOインストラクターとして活動してみたいという夢を持つようにもなりました。

そうこうしているうちに、あと十日あまりで還暦を迎える歳となってしまいました。人生は自分の好きなことを探す旅だと思って、いろいろと探し回っていて、未だ何も極めてないうちに、人生の残り時間がだんだん少なくなってきつつあります。


好きなことだけに打ち込む人生

2013年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム

若い頃からのライフスタイルとして、自分の好きなことだけに打ち込んで、不得手なことは周囲の方々に全面的にお任せして生きてきました。私の場合、幸運にもサポートしてくださる素晴らしい周囲の方々にいつも恵まれてきました。

自分の好きなことであれば、いくら忙しくても、全くつらくも何ともありませんし、どれだけでも頑張れます。その好きなことが自分の仕事に直結していれば、日々の仕事で忙殺されていても、いつも楽しくて、あまり疲れないし、それほど大きなストレスにもなりません。忙しければ忙しいほど充実感や達成感で満たされて、やる気もみなぎってきます。

多くの人がチームとして働く医療現場においても、チームを構成する各人が、それほど疲れを感じないで、楽しくどんどん働き続けられるような職場の雰囲気であることが大切と考えています。


大雪

2013年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム

ALSO(Advanced Life Support in Obstetrics)は、OP(後方後頭位)、骨盤位、臍帯脱出、吸引分娩、肩甲難産、分娩後大出血などの重要な産科救急疾患に対して、チームで適切に対応するための教育コースです。これらの産科救急疾患は、どの妊婦さんにいつ発症するのか予測は困難です。産科救急疾患は一定頻度で必ず発症しますから、いざ発症した時には、いつでもその時点での勤務者達の即製チームで適切に初期対応ができるように、常日頃からトレーニングを繰り返しておく必要があります。

今回、和倉温泉(石川県)で開催されたALSOインストラクターコースに参加しました。北海道から九州まで全国各地から集まった大勢の熱心な参加者達(産婦人科医、助産師、家庭医、麻酔科医など)とともに、非常に有意義な時を過ごすことができました。

飯田市の自宅から和倉温泉までは、車で片道7~8時間かかりました。帰途は全国的に大雪となり、中央道も長野県内は全線通行止めでした。夜になって恵那山トンネルがやっと通行可となり、何とか自宅までたどり着くことができました。

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かまくら(於:ひるがの高原サービスエリア)


?2012年の仕事納めの日にふと思ったこと

2012年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

私は現在59歳でもうすぐ還暦を迎えます。私は高校卒業後、最初は科学者にあこがれて名大理学部に進みましたが、22歳の時に人生行路を大きく変更して信大医学部に再入学したので、医師としての活動のスタートは28歳と大きく出遅れました。

高校や名大理学部の時の同級生の多くは60歳定年を迎えるので、皆そろそろ現役引退の準備をしている頃だと思います。

幸か不幸か、今の私の職場の医師の定年は65歳なので、現役引退までにあと6年間は残ってます。その6年の間に、新しい周産期センターを立ち上げて、それを軌道に乗せるという大事業を達成する必要があります。今の調子で患者さんが来てくださると仮定すれば、残された6年間で、おそらく分娩7000~8000件、婦人科手術も1000件程度は取り扱うことになると思います。

職場の多くの仲間たちと共に常に最新の医学を学び、チームでよく話し合い、我々に課せられた日々の任務を淡々と遂行していきたいと思います。また、定年退職を前にして途中で倒れたりすると周囲に大きな迷惑をかけて大変なことになるので、日々の体調管理には細心の注意を払っていきたいと考えています。


院内のICLSコースに参加しました

2012年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、職場で開催された日本救急医学会認定のICLSコースを受講しました。

ICLSコースは、突然の心停止に対する適切なチーム蘇生を習得するためのシミュレーション・トレーニングを中心とした講習会です。たまたま心停止の現場に居合わせた医師、歯科医師、研修医、看護師、救命救急士などのいろいろな職種の医療関係者が、即製の蘇生チームを結成して、心停止が発生してから最初の10分間にチームで何を実行すればよいのか?を学びます。昨日は8:30から17:30まで非常にタイトなスケジュールで、身近でリアルなシナリオ・シミュレーションで学び、講習会の最後には試験も行われました。非常に疲れましたが楽しい充実した1日でした。

院内で心停止が発生した場合、緊急コールが発動され、集まった職員で即製の蘇生チームを結成し、最初の蘇生を行います。緊急事態発生時に誰が現場にいあわせるのか全くわかりませんから、多くの職員がコースに参加して蘇生の基本を学んでおく必要があります。また、せっかく勉強していろいろ覚えて蘇生の基本を習得したとしても、普段の仕事で蘇生を経験してない場合、講習会後しばらく経過すると学んだことをすぐに忘れてしまいますし、コース内容も数年ごとに改訂されますから、シミュレーション・トレーニングをたゆまず繰り返しておく必要があります。次は来年2月にACLSコース(2日間コース)を受講する予定です。

参考:妊婦の心停止

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犬島を散策

2012年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

先日、岡山市東部・宝伝の沖約3kmの犬島を訪れました。その日の犬島は素晴らしい晴天で、島内をゆっくり散策しました。

犬島は古くから石の採掘で知られていた岡山市唯一の有人島で、良質の花崗岩は「犬島みかげ」と言われ、岡山城、大阪城などの石垣にも使われています。 明治40年代には採石の他に銅の精錬業も盛んになり、この小さな島に5,000人~6,000人が生活していたそうです。その後、時代の変化とともに製錬工場も閉鎖になり、人口減少、高齢化が進み、今では精錬所跡などが廃墟として当時の面影を残す島となりました。

平成20年4月27日に、財団法人直島福武美術館財団による犬島アートプロジェクト「精錬所」が開館しました。犬島の歴史的背景を舞台に展開された「精錬所」に対し、犬島「家プロジェクト」では犬島の集落の中に展開するプロジェクトで、日常の中にアート空間が優しく滑り込み、集落が新たな風景へと生まれ変わっています。 また、平成22年7月19日~10月31日の間、瀬戸内国際芸術祭2010が開かれた際には、犬島も会場の一つとして多くのアート作品が展示され、来島者数は延べ84,000人と大いに賑わい、閉会後も作品の一部が公開されています。

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犬島ガイドマップ

****** 定期船(宝伝⇔犬島)

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宝伝

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犬島港

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定期船より

****** 犬島海水浴場

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****** 犬島「家プロジェクト」 

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******  犬島アートプロジェクト「精錬所」

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第53回日本婦人科腫瘍学会・学術講演会(於:岡山市)

2012年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

この週末は第53回日本婦人科腫瘍学会学術講演会(於:岡山市)に参加しました。

婦人科腫瘍専門医試験の受験資格取得や資格更新のために出席が義務付けられている早朝からの教育セミナーは、初日も二日目も大会場がほぼ満席になってました。私自身、最近は周産期医学関連の学会や講習会へ参加することが多くなって、腫瘍関連の学会はだんだん縁遠くなりつつあり、今回の日本婦人科腫瘍学会に参加するかどうかも学会開催日の直前まで決めかねてましたが、結局参加することにしたのは、専門医資格更新のためのポイント稼ぎが主な目的でした。しかし、義務感のみで出席した二日目の教育セミナーの緩和医療に関する講演(岡山大学・緩和医療学講座・松岡順治教授)にいたく感銘し、今回の学会に参加して本当によかったと思いました。緩和医療の具体的な処方や技術の解説ではなく、主に緩和医療に関わる医師としての根本的な心構えについての講演で、道元禅師(曹洞宗の開祖)やスティーブ・ジョブズ(アップル社の共同設立者の一人)が残した言葉なども言及されました。また、講演の最後の方は、ケルティック・ウーマンのユー・レイズ・ミー・アップがバックグラウンドミュージックとして流れてました。後で繰り返し何度も拝聴することができるように、講演をビデオに撮っておけばよかったと思いました。

岡山市まで来たのは今回が生まれて初めてで、学会参加の合間に会場周辺の名所を散策しました。

****** 道元禅師と弟子との問答

弟子 「人間はなぜ成功する人としない人がいるのですか?」
道元 「成功する人は努力するからだ。」
弟子 「努力する人としない人がいるのはなぜですか?」
道元 「努力する人は志があるからだ。」
弟子 「なぜ志がある人とない人が生じるのですか?」
道元 「志のある人は、人間は必ず死ぬということを知っているからだ。志のない人は人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない。その差だ。」

****** スティーブ・ジョブズの残した言葉

毎日、今日が人生最後の日かもしれない、と考えるとすれば、いつか、必ずその考えが正しい日が来る。

(スタンフォード大卒業式でのスピーチ、2005年10月29日)

****** 

You Raise Me Up
(Song: Celtic Woman)

When I am down and, oh my soul, so weary
When troubles come and my heart burdened be
Then, I am still and wait here in the silence
Until you come and sit a while with me

You raise me up, so I can stand on mountains
You raise me up, to walk on stormy seas
I am strong, when I am on your shoulders
You raise me up...to more than I can be

ユー・レイズ・ミー・アップ
(歌:ケルティック・ウーマン)

落ち込んで、心が疲れている時
困難が訪れて、気持ちに余裕が無い時
私は静かにここで待つわ
あなたがやってきて、私のそばに座ってくれるのを

あなたが支えてくれるから、私は山の頂に立てる
あなたが支えてくれるから、私は嵐の海も歩いていける
私は強くなれる、あなたが支えてくれるから
あなたが支えてくれるから、私はいつも以上に頑張れるの

****** 岡山コンベンションセンター 

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****** 桃太郎像(岡山駅東口駅前広場)

Momotaro

****** 岡山後楽園

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****** 岡山城

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****** 倉敷美観地区

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