オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
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やったぜ大多喜

2013-07-15 01:24:42 | 日本史

 

三連休の初日を利用して、大多喜城に行ってきました。
5年ぐらい前から目標に掲げながらもいろいろと理由をつけて先延ばしにしていたものを、ようやくに思い切っての達成です。
もちろん自転車での旅ですから体力的な問題をクリアできるのが心配だったのですが、想像をしていたよりはアップダウンはきつくなく広島での福王寺に比べればママチャリと電動アシスト付きクロスバイクとの違いはあれ楽勝で、ふくらはぎや太ももが何度か痙攣をしかけましたが我慢をしているうちに慣れてくれました。
それよりもクロスバイクだけにやや前傾姿勢であったことで腕にかかる負担は相当なもので手首が痛くなりましたし、下り坂はちょっと油断をするとスピードが50キロ近くなってしまうことによるブレーキングでの握力低下が著しかったです。
また今回はジェルパッドなインナーのサイクルパンツをはいたのですが効果は長続きせず、帰り道では信号で止まる度に両足で立って尻を休ませるほどなヒリヒリぶりでした。
それでも全体的には順調な旅で、今日になって二の腕や膝の裏あたりの心地よい筋肉痛を楽しんでいます。

まずは旅程篇です。
東京湾沿いに東に進んで市原のあたりから房総半島の内陸部に進むといった行程で、もちろん頼りはカーナビです。
ただ基本的には一本道ですから迷うことなく、65キロちょっとを4時間弱ですから両手両足では足りないぐらいの信号停止や朝マックの時間を考えればいいペースではありました。
30キロぐらいのところから10キロ程度のダラダラとした上り坂があったのが気になった程度で、拍子抜けをするぐらいの大多喜城です。
ところが大多喜から久留里に向かう道がかなりの難関で、それなりの傾斜が3キロほど続いたりせっかく上ったのに一気に下るといったアップダウンが激しく、地元の方であればご存じかと思いますが25キロ弱ながらも疲労度からすればこちらの方が断然に上でした。
帰り道は農道のような細道を誘導するカーナビを無視してひたすら千葉を目指したのは、サスペンションの無い自転車ですので尻に優しい道を優先したかったのがその理由です。
そんなこんなで160キロ強の道のりで交通標識で拾っただけでも市原市、茂原市、長生郡長南町、夷隅郡大多喜町、君津市、木更津市、袖ヶ浦市、千葉市美浜区、千葉市花見川区、習志野市、船橋市を踏破したわけですから、改めて見てみればかなりの長旅を痛感しています。

そして走行距離は162.97キロで、自己最多記録を更新です。
電動アシスト付きながらもQVCマリンの往復の約22キロで青息吐息なバッテリーは大多喜から久留里に向かう途中で力尽きてしまい、その大半は独力での走行ですから自信に繋がりますし、これであれば江戸城はもちろんのこと関宿城や川越城を狙うのも無謀な挑戦ではないでしょう。
また走行時間が7時間55分で平均時速が約20.6キロですから、信号の多さを考えればいいところではないかと思います。

次は旅情篇です。
やはり気になったのは天気で、前日夜の予報は晴れ時々曇りの最高気温が34度でしたので曇り時々晴れの翌日に順延するかを迷ったのですが、結果的には決行が正解でした。
暑さを避けるために4時過ぎに家を出たのですが7時頃までは曇天で、大多喜に着く直前ぐらいから晴れ始めて久留里を出て暫くしてからまた曇るという移動時は曇り、史跡巡りでは晴れという天気予報とは裏腹な、文句のつけようのない展開が怖かったぐらいです。
家に着いてから程なくパラパラと雨が降り出しましたし、今日は一日中の曇天だったようで夕方には雨量は少なかったものの雷雨となりましたから、やはり思い立ったが吉日です。
驚いたのはその7時頃までは100メートル先も視界が危ういぐらいのもやが立ちこめていたことで、都会暮らしですとあまり見られる光景ではありません。

こちらは大多喜城のトカゲと、円覚寺のヘビです。
トカゲは何かの卵のようなものをくわえていたのですが、ビックリしたのか取りこぼしてしまいました。
暫くすると拾い直して岩陰に消えていきましたが、久しぶりにトカゲを見たような気がします。
ヘビは胴体の後ろの方が潰れているような感じで動きもありませんでしたので、もしかしたら死体だったのかもしれませんが未確認です。

大多喜駅のホームには、本多忠勝の人形がありました。
脇に控える忍者の意味が今ひとつ分からなかったのですが、やはり大多喜は本多忠勝なのでしょう。
徳川氏の関東入りの際に大多喜10万石を与えられた忠勝は関ヶ原の合戦の後に伊勢桑名に移封となったことで僅か10年余りの治世ではありましたが、徳川四天王という知名度からして地元からすれば讃えるべき英雄なのだと思います。

そんなこともあってか、昨年あたりから本多忠勝、忠朝の親子を主人公とした大河ドラマにするための運動が始まっているようです。
忠勝はともかくとしても次男の忠朝をセットにしての大河ドラマはさすがに地味すぎるような気がしますが、大河ドラマこそが究極の公共事業でしょうからその気持ちは分かります。
もし実現をしたとしても大多喜がその中心になることはないでしょうから微妙さは漂いますが、千葉県民とすれば応援をするにしくはありません。

そんな町おこしの一つなのでしょうが、ゆるキャラのおたっきーです。
大多喜なのでおたっきーは分かりやすいながらもちょっとあれなネーミングで、何とも言えない感じがあります。
大多喜城と本多忠勝、町の名産のたけのこなどをモチーフにしているらしく、やや詰め込みすぎという気がしないでもありません。
また橋の欄干に城と武将が描かれるなど大多喜町の目指すところが分かりやすい、そんな街並みとなっています。

大多喜駅から大多喜城に至る途中の、大多喜高校の前あたりの道がメキシコ通りと名付けられています。
1609年にフィリピンから本国に帰る途中のスペイン船が沖合で座礁をした際に、当時は既に外国人は処刑という掟であったところで本多忠朝が遭難者を手厚くもてなしたことからスペイン、メキシコとの友好関係が結ばれて、1978年にメキシコの大統領が来日をしたときに大多喜町を公式訪問をしたことを記念して命名がされました。
何があるわけでもありませんが、一国の大統領が訪れるとは凄いことだと思います。

そして史跡巡り篇です。
時間的にまだ開いていなかったので大多喜城は後回しにして、まずは本多氏の墓所のある良玄寺に足を運びました。
本多忠勝が開基で本多氏の菩提寺となっており、忠勝、忠朝の墓があります。
墓所の掃除をしていた住職さんらしき方といろいろとお話をさせていただき、その後にわざわざお寺のパンフレットを持ってきてくださったことに感謝感激です。

忠勝は言わずとしれた稀代の勇将で、「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と評されました。
参加をした57度の戦でかすり傷一つ負ったことがないとも言われており、伊勢桑名で没した際に忠朝が分骨をしてここ良玄寺に埋葬をしたとのことです。
その忠朝は忠勝の次男で、勇壮たること伊勢桑名を継いだ兄の忠政に勝ると家康に言わしめるほどの武将だったようです。
しかし残念なことに大坂の役の際の失態を取り戻すために無謀に近い戦いを挑んで討ち死にをしてしまい、嫡男が幼少だったために大多喜藩は甥の政朝が継ぎました。
写真は左が忠勝、右が忠朝です。

良玄寺にほど近い行徳橋の両側に、本多忠勝の像があります。
あまり大きいものではありませんが、シンボルでもある鹿角脇立兜が際立った素晴らしい出来だと思います。
年齢的にも大多喜を治めていた頃のものに近いでしょうし、遺されている肖像画に似ていないこともありません。

そして大多喜城です。
上総武田氏の真里谷信清が築いたのがその最初で、その後は里見氏の重臣である正木氏が入り、そして本多忠勝の手に渡りました。
天守閣の存在については江戸期に焼失、そもそも無かったと議論が分かれているようで、1975年に鉄筋コンクリートで再建をされた天守閣は当時の一般的なものを模倣しています。

大多喜高校の敷地内にある薬医門は、千葉県の有形文化財に指定をされています。
二の丸御殿の門で明治維新後に民間に払い下げられましたが、大正期にその曾孫により出身校である同校の校門として寄贈をされました。
その後に一旦は解体保存をされたものが、昭和に入ってから復元をされて今に至ります。

同じく敷地内には、大井戸があります。
忠勝が入城をした際に掘った井戸の一つで、周囲が約17メートルで深さも20メートルと日本一の大井戸です。
往時は16個の井戸車で汲み上げられており、「底知らずの井戸」と呼ばれていました。
まだ水が張っていて魚が泳いでいましたので、水源は生きているのかもしれません。

久留里では久留里城です。
やはり上総武田氏が築いたもので、その後は里見氏の本拠となりました。
天守閣は1979年に再建をされたものですが、遺された資料とはまた違った形になっています。
大多喜城とは違って内部に展示物などは無く、ただの展望台です。

天守閣の隣にあるのが天守台跡で、黒田直純が築いた天守閣はこの場所にあったとされています。
規模としては復興天守と同じぐらいでさほど大きなものではなく、黒田氏が城主のときには3万石ですから相応と言えば相応です。
さすがに史跡保護の観点からも、この跡地に展望台を築くことははばかられたのでしょう。

その他にはいくつかの曲輪がありましたが、説明板などもなく今ひとつパッとしません。
曲輪とは兵が詰めたりする場所で必ずしも建物を必要としませんが、せめて何か説明が欲しかったです。
その曲輪の大きなものが本丸、二の丸、三の丸だったりもしますので、意味のあるものであることは間違いありません。
写真は左から波多野曲輪、天神曲輪、久留里曲輪です。

こちらは波多野曲輪から見た城下で、左が三の丸御殿跡ですが今はすっかりと田んぼになっています。
右は里見氏と北条氏が数十日間の戦いを繰り広げた古戦場跡で、里見義堯、義弘の親子が北条綱成の軍を打ち破りました。
さすがに説明にある数万の軍がぶつかるには狭すぎる場所ですが、それなりに激しい戦いが繰り広げられたのでしょう。

本丸跡から少し下がったところの二の丸跡には、久留里城址史料館があります。
さほど多くの展示がされているわけではありませんが、自分にとって大きな収穫があったのはまた後の話です。
また長屋塀跡もありましたがどこが跡なのかが分からず、あるいは再建をされたものの下に眠っているのかもしれません。

史料館の裏手には、新井白石の像があります。
正徳の治で名高い白石はしかし甲府藩の徳川綱豊、後の徳川家宣に仕える以前は父の代から久留里藩の土屋氏の家臣であり、その縁によるものなのでしょう。
徳川吉宗が将軍職に就いてからは不遇な晩年を過ごした白石でしたが、諸大名の系譜を整理するなどその名は今もメジャーに残っています。

史料館の収穫のその一が円覚寺で、土屋氏の墓所があります。
展示物にその写真があったことで存在を知り、史料館の方に住所を教えていただいて訪れました。
あまり知られた大名ではありませんが初代の忠直は武田勝頼の忠臣で、「片手千人斬り」で有名な土屋昌恒の子ですから逃す手はありません。

忠直は武田氏の遺臣を積極的に受け入れた家康により召し出されて、徳川秀忠の小姓として仕えたことから偏諱を受けて忠直と名乗ります。
父と同じく惣蔵を名乗った忠直の人となりは多くは伝えられていませんが、大名に取り立てられたのですから有能だったのでしょう。
跡を継いだのは嫡男の利直で、白石が仕えたのはこの利直です。
また次男の数直は後に幕府の若年寄、老中となっており、異例な出世を遂げた一族とも言えます。
かなり大きな五輪塔で、説明板によれば県内では最大級のものとのことでした。
写真は左が忠直、右が利直です。

同じく展示物で知ったのが瑞龍院で、里見義弘の墓があります。
瑞龍院の成り立ちはよく分かりませんが、義弘の戒名である瑞龍院殿在天高存居士が寺名となっていますので菩提寺と考えるべきなのでしょう。
その墓所はやや小高いところにあり、足場はありながらも踏み込むにはそれなりの気合いが必要な荒れ具合ではありました。

義弘は父の義堯とともに上総、安房で里見氏の全盛を築いた武将で、北条氏との激戦が知られています。
文武に優れた武将として信長の野望などでも高い数値が与えられていますが、一方で弟とも庶長子とも言われる義頼との仲が悪かったことで久留里城にて中風で急死をした後の里見氏の内訌の原因を作るなどした負の側面も伝えられています。
義弘の墓所は父とともに南房総市の延命寺にもあり、安房里見氏初代の義実、2代の成義、3代の義通、4代の義豊の墓所も同じく南房総市にありますから不思議ではなく、延命寺は義弘の祖父である実堯の戒名の延命寺殿一翁正源居士からきていますからそちらの方が本筋かもしれません。
ちなみに何の関係もないのかもしれませんが、瑞龍院のすぐ近くに延命寺というお寺がありました。

グルメ篇は残念ながらお休みです。
そもそも食事ができるところがほとんど見当たらず、大多喜城の売店で本多忠勝にちなんだのであろう鹿南蛮そばなるメニューに勇んだものの店が開いておらず、また久留里城でも別称である雨城からきた雨城そばに気を取られつつも苦手なとろろに山菜という組み合わせでパスとなりました。
スイーツ篇も実のところは期待薄だったのですが、たまたま通った道すがらにあった店で最中十万石をゲットです。
本多忠勝のときの10万石から命名をしたのでしょうが本多氏の家紋の入った外皮は申し訳程度で、凄まじいばかりのあんこに狂喜乱舞です。
サッパリとした甘さが舌で踊り、このボリュームで130円ですのでかなりのサービス価格でしょう。

最後はおみやげ篇です。
残念なことに大多喜城ではどこでも買えるような一般的なものや、あるいは今っぽい画風で描かれた絵はがきのようなものしかありませんでした。
そのため手を出したのは久留里での黒文字楊枝と、お約束の小冊子です。
黒文字楊枝は久留里の伝統工芸とのことで、黒文字というクスノキ科の木の枝が材料となっています。
また小冊子と呼ぶには圧倒的な255ページもの久留里城誌には上総武田氏、里見氏の戦国期から江戸期の大須賀氏、土屋氏、酒井氏、黒田氏までの領主の系譜、略歴が載っており、白黒で写真も少ない構成にはなっていますがなかなかの読み応えがありました。

記念スタンプは大多喜城、久留里城とも用意がされており、いい感じで押すことができました。
こうなるとこの色紙は千葉県に限定をすればよかったとは後の祭りで、また佐倉城にはスタンプが無かったのでこだわっても仕方がありません。
何にせよこういった観光客向けのサービスは全国の自治体には充実をしてもらいたく、さしてコストのかかる話でもありませんので是非ともお願いをします。

 

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11 コメント

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おめでとうございます ()
2013-07-15 02:18:58
ついにやりましたね。
この酷暑の中、決行する気合がすばらしいです。
なんとなく楽勝だった雰囲気が漂っているんですけど(恐れ入りました)
次の狙いは川越城でしょうか。
火曜日に歴女氏がどのような反応を示すのか楽しみです(ニヤリ)

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Unknown (カモメ野郎)
2013-07-15 06:48:52
いやぁ、暑い中お疲れ様でした(^_^;)
今回は大多喜ですか!
実は私も隣に住んでるので、近くの大多喜・長南あたりの字をみると、勝手ながら妙に親近感がわきます(笑)

あと、十万石最中!
私も子供の頃からの好物です。あの最中と言いながら、あんこをそのまま食べてるようなボリュームがたまりませんよね(笑)

次回の旅レポも楽しみにしてます。
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Unknown (ネモファン)
2013-07-15 09:35:41
村長さんご苦労さんでした。
僕の実家は近くにあり、村長さんに解説してもらうと
改めて灯台もと暗しの地元の歴史がよくわかりました。
大多喜城の近くには球場があって、
春秋の高校野球の県予選をやるんですよ。
ここからは鴨川は近く、実家に寄ってから
マリーンズの秋季キャンプを見に行きます。
食べるところはなくて苦労されたと思いますが、
自転車での長旅ご苦労さんでした。
久留里の近くの町といえば木更津ですが、
拓大紅陵高校があり、立川、佐藤、現広報の手嶋が出た強豪校です。
特に立川は夏の甲子園で全国準優勝したときには
活躍しました。懐かしいですね。
巨人の小笠原は花見川区の出身ですが、
高校は木更津の暁星国際高校なんですよ。
彼も高校時代2塁を守って県大会準優勝までいきました。ローカルな話題で申し訳ありません。
村長さん本当にお疲れさんでした。
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じぇ!じぇ! (けんぴん)
2013-07-15 10:10:00
拙にとっては想像もつかない距離もさることながら、この酷暑の中を自転車でチャレンジなさるとは!

村長さんの備考欄に「超絶的体力の持ち主」と付け加えておきます。

自転車ブームなど無い、はるか昔に、マウンテンバイクのようなものにまたがり、真夏の最中に稲毛海岸まで激走していた所、ガソリンスタンドのバイトのネェちゃんに「ガンバレ~!」と声をかけられ、萎えた記憶がよみがえりました。
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お疲れ様でした。 (恵比寿マリン)
2013-07-15 11:12:34
これ一日で走破したのですか?
この酷暑の中 お疲れ様でした。 
 もっと涼しい時期に結構すれば良いのに(笑)

次のレポートもまた楽しみにしております。!
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Unknown (JF)
2013-07-15 12:31:43
この時期に160km超を走破するのは凄いの一言ですね。
私も5~6年前はやっていましたが、今はそんな気力もありません。
十分注意しておられるとは思いますが、日射病にはくれぐれもお気を付けて。
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お返事 (オリオン)
2013-07-16 01:42:41
>雅さん
歴女様の鼻を明かすことだけを念じてペダルを踏みました(嘘)
いや、予報からしてかなり迷いましたので、結果オーライでした。
もし予報どおりでしたら熱中症で倒れたかも。
何せ12時間以上も屋外にいましたので・・・こんがりきつね色です。
次は近場で一息かなと、再来週あたりに江戸城を狙います。

>カモメ野郎さん
大多喜町の近くにお住まいですか。
自分からすれば近いところに城があるなんて羨ましいです(笑)
最中十万石は仰せのように、まさにあんこをそのまま食べているようなボリューム感です。
これは多くの方に召し上がっていただきたい、それだけの逸品だと思います。

>ネモファンさん
近くに球場があったのですね、気がつきませんでした。
大多喜高校の敷地内に薬医門と大井戸があったので入っていいかを迷ったのですが、通りかかった教諭らしき人に聞いたら「どうぞ見学なさってください」と言っていただきました。
父兄と思しきかたも体育館のようなところに集まっていましたので、何かスポーツの大会のようなものがあったのかもしれません。
それにしても挙げていただくと千葉県は高校野球の強豪県ですね。
地元出身の選手が少ないのが寂しく、同じぐらいの力量であれば千葉球児を優先して獲ってもらいたいです。

>けんぴんさん
いやいや、決断をするのに数年を要しました(笑)
もう勢いですね、冬場の風邪対策で日焼けをしようかなとの思いもありましたし。
どうやら迷信らしく、むしろ日焼けは免疫低下で風邪をひきやすくなるなんて話もあるようですが・・・
お姉様に頑張れ~は嬉しいかも、大多喜から久留里に向かう途中の上り坂をえっちらおっちら上っている途中で軽トラに乗ったお爺さん、お婆さんが手を振ってくれたのが今回の収穫かしら。

>恵比寿マリンさん
ですよね、普通はそう思うでしょう(笑)
日が長いアドバンテージを考えての夏なのかなと、↑のとおり日焼けも一つの目的だったりもしましたので。
またもう一チャレンジ、計画を始めます。
決行まで数年がかかるかもしれませんが・・・

>JFさん
行き帰りが曇天で助かりました、そうでなければ熱中症になったかもしれません。
今日はだいぶん治まりましたが、昨日の夜は顔が火照ったままでしたし。
化粧水を持って出たのもよかったかなと、アベンヌウォーターってやつです。
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鼻、あいちゃいました (歴女)
2013-07-16 20:20:56
お疲れ様でした。

船橋から大多喜まで自転車で日帰りとは、とにかくビックリしました。
いすみ鉄道以前の木原線に乗って大多喜城に行きましたが、
やはり、食べるところがあまりなかったような…。
忠勝人気もこれほどでは…という記憶です。
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お返事 (オリオン)
2013-07-17 01:42:07
わーい(笑)
木原線とは聞いたことがない路線ですが、大多喜から久留里に向かう途中で小湊鉄道なるものにぶち当たりました。
自転車でなければきっとお世話になったのだと思います。
鹿南蛮そば、調べてみればその名のとおりに鹿肉を使っているようでしたので、食べてみたかったです・・・
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十万石最中 (エリック)
2013-07-21 10:04:12
オリオンさんの写真見て無性に食べたくなって昨日買いに出かけました。
茂原を過ぎたあたりの道の駅に寄ったところ置いてなくて、女店員に聞いたところ、販売店が極めて限定されていて近くのスーパーにはあるが、移動時間が同じ位だからお店に行ったほうが確実、とのことだったので更に5分程行き、結局大多喜駅前の観光案内所で6個入りをゲットしました。
餡子がいっぱいで、上の皮と下の皮がくっついていなくて、甘さ控えめで、辛党の小生でもおいしくいただけました。
スイーツ系にはあまり興味はないのですが、上総一ノ宮のいちご大福とともにこれは逸品と思った次第。
またの房総での収穫を楽しみにしております。
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