元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「キャバレー」

2023-02-11 06:57:01 | 映画の感想(か行)
 (原題:Cabaret )71年作品。私は“午前十時の映画祭”にて今回初めてスクリーン上映に接することが出来た。元ネタのブロードウェイミュージカルは今でも世界中で上演されているほど有名だが、この映画版は当時としてはかなり野心的な体裁で、そのあたりが評価され米アカデミー監督賞などの各種アワードを獲得している。ただし、今観て面白いと言えるかどうかは、意見が分かれるところだろう。

 1931年のベルリン。アメリカから一旗揚げようとやってきた娘サリー・ボウルズは、彼の地の有名キャバレー“キットカットクラブ”の専属歌手として毎晩ステージに立っていた。ある日、イギリスから来た大学院生ブライアン・ロバーツがサリーの下宿に引っ越してくる。博士号を取得するまでの間、生活のためにドイツで英語を教えるのだという。



 ブライアンのことが気になったサリーは彼を誘惑しようとするが、彼は何やら“問題”を抱えているらしく、上手くいかない。一方、サリーの友人であるフリッツ・ヴェンデルは裕福なユダヤ人のナタリア・ランダウアーに恋するが、宗教的な事情により今ひとつ踏み込めないでいた。やがて時代はヴァイマル共和政からナチス専制に移行。ベルリンの街にも不穏な空気が漂い始める。

 通常、ミュージカル映画はストーリー展開の中で歌や踊りが挿入され、楽曲がドラマの一部として機能しているケースが大半だ。しかし本作はミュージカル場面は劇中での“キットカットクラブ”の舞台に限定されており、歌や踊りはそれ自体の役割しか付与されていない。いわば普通の歴史物の小道具として楽曲が存在しているに過ぎず、ストーリーを追うことが映画の主眼になっている。

 ならばその筋書きは面白いのかというと、残念ながら個人的にはそう思えない。各登場人物が持ち合わせている苦悩や生き辛さ、暗さを増す時代の移ろいは、確かにヘヴィで真正面から描く価値はある。しかし、現時点で見れば掘り下げは不十分だ。特にブライアンが感じているジェンダーのディレンマは、表面的にしか描かれない。製作時期を考えれば仕方がないのかもしれないが、映画がこのモチーフを中途半端なままで終わらせているのは不満だ。

 さらに“キットカットクラブ”の舞台のシーンにかなりの尺を当てなければならないため、ドラマが停滞する傾向がある。ボブ・フォッシーの演出は“当時としては斬新だったのだろう”というレベルで、あまり画面が弾まない。主演のライザ・ミネリはさすがの存在感だが、共感できるようなキャラクターではない。マイケル・ヨークにヘルムート・グリーム、ジョエル・グレイ、マリサ・ベレンソンなどのパフォーマンスも、やはり“当時としては熱演だったのだろう”という感想しか持てない。
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「警部」

2023-02-10 06:16:12 | 映画の感想(か行)
 (原題:Flic ou Voyou )78年作品で、日本公開は80年。本国で公開された際には、パリで一週間で24万人の観客を動員。ロードショー23週目にして100万人の動員を突破。当時としては目覚ましい記録を作り上げた。パリの興行成績としては、歴代の映画で18本目、フランス映画では7本目だったらしい。だからさぞ面白いシャシンだろうと期待して観たのだが、何とも荒っぽい作りで戸惑った。まあ、勢いだけはあるので、そのあたりがウケたのかもしれない。

 南フランスのとある町(マルセイユとモンテカルロの間)では、暗黒街を2人のボスが取り仕切り、カジノや麻薬、恐喝、売春などの縄張りを二分していた。しかも、警察官の中には暗黒街から当然のごとくワイロをもらい、目を瞑っている者が多数いた。抗争の中でついに一人の現職警部が殺人死体として発見される。対応に困った所轄の警察は、その土地にまったく縁が無いパリから一人の“警部”を呼び寄せた。それが名物刑事のスタン・ホロヴィッツで、持ち前の強引すぎる手法により事件の核心に迫っていく。ミシェル・グリリアによる警察小説の映画化だ。



 主人公はポパイ刑事とハリー・キャラハン刑事を合わせたような暴れん坊で(笑)、特に前半での派手な立ち回りはハリウッド製のポリス・アクションを思わせる。しかし、後半になると元悪徳刑事がさんざん利用した挙げ句に最後に始末されたり、事件の証人の家を勝手に燃やしてしまったりといった、やり過ぎ捜査と見られる場面が多くなり応援する気が失せる。しかもジョルジュ・ロートネルの演出が丁寧とは言い難く、何やら短期間で撮り上げて編集も精査しないまま公開してしまったような案配だ。

 とはいえ主演のジャン・ポール・ベルモンドの存在感は大したもので、出てくるだけで画面が華やいでくる。共演は何とあの「太陽がいっぱい」(1960年)のマリー・ラフォレで、封切当時は15年ぶりの出演作の日本公開だったらしい。相変わらずの美人で見とれてしまうが、彼女もベルモンドも今は鬼籍に入ってしまい、寂しい限りだ。撮影はアンリ・ドカエで音楽はフィリップ・サルドという手練れが担当しており、堅実な仕事ぶり。なお、本作は「警視コマンドー」の邦題で80年代にVHSが発売されたことがあったとか。何とも安易なタイトルで笑ってしまう。
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「パーフェクト・ドライバー 成功確率100%の女」

2023-02-06 06:18:50 | 映画の感想(は行)
 (英題:SPECIAL DELIVERY)ジョン・カサヴェテス監督の「グロリア」(80年)に、あまりにも似ていることに驚いた。ならば“単なるモノマネ”なのかというと、それは違う。基本設定と展開こそ共通しているが、現時点で韓国映画においてこのネタを扱うだけの御膳立ては整えられている。作劇のテンポは良好で、各キャラクターも“立って”いる。楽しめる活劇編だ。

 釜山にある“ワケあり物件専門の配送会社”で働く凄腕ドライバーのチャン・ウナは、海外逃亡を図る野球賭博のブローカーとその幼い息子を、ソウルから釜山港まで送り届けるという仕事を引き受ける。ところが、掛け金の横取りを狙う悪徳警官によって依頼人は始末され、ウナは貸金庫の鍵を握りしめた残された息子だけを車に乗せる。悪徳警官側は猛追を開始するが、同時にウナの経歴に興味を持つ国家情報院も介入する。



 裏稼業に携わるヒロインが子供を押しつけられ、決死の脱出劇を繰り広げるという筋書きは「グロリア」と同じだ。ついでに言うと、一人暮らしで猫を飼っているという設定も一緒である。だが、「グロリア」の主人公が酸いも甘いも噛み分けた年増女であったのに対し、本作のヒロインは若い。その代わり、北朝鮮から亡命し、その際に家族をすべて失っているという設定を用意した。つまり、背負っているものは「グロリア」と同じぐらい重いのだ。そんな不遇な過去を持つウナが、柄にも無く子供と心を通わせていくプロセスは説得力がある。

 脚本も担当したパク・デミンの演出は闊達で、ドラマが滞ることはない。売り物のカーチェイス場面は密度が高く、入り組んだ釜山の裏通りを疾走するシークエンスはスピード感や段取りが練り上げられている。だが、残念ながらカーアクションは後半には出てこない。できれば終盤でもう一回派手なカークラッシュ場面を見せて欲しかった。

 主演のパク・ソダムは「パラサイト 半地下の家族」(2019年)での好演が記憶に新しいところだが、本作では見事な“小股の切れ上がったイイ女っぷり”を披露していて、思わず惹き付けられてしまう。聞けば健康面で不安を抱えた時期があったらしいが、今後も活躍して欲しい。ソン・セビョクにキム・ウィソン、ヨン・ウジン、ヨム・ヘラン、そして子役のチョン・ヒョンジュンなど、その他のキャストも好調だ。ホン・ジェシクによる撮影、ファン・サンジュンの音楽も申し分ない。
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「子供たちの王様」

2023-02-05 06:53:52 | 映画の感想(か行)
 (原題:孩子王)87年作品。中国の代表的監督である陳凱歌(チェン・カイコー)が才気煥発だった頃の映画で、かなりの高クォリティを実現している。彼はこの6年後に代表作「さらば、わが愛/覇王別姫」を撮るのだが、見ようによっては(派手さは無いが)本作の方が存在感が大きい。アジア映画好きならばチェックする価値はある。

 1960年代後半、中国では文化大革命の一環として国民を徴用して農業に従事させる、いわゆる“下放”が断行されていた。主人公の若者は山間部の貧しい農村の分校に教師として派遣されるが、そこには教師用の指導要領書も無く、ただ共産党の教義を一方的に生徒たちに伝えることだけが求められていた。この状況に納得いかない彼は、自分なりの教育方針を打ち出して生徒たちに学ぶ楽しさを知ってもらおうとする。その試みは軌道に乗るのだが、やがて彼の所業を党の上層部が聞きつける。四川省出身の作家で現アメリカ在住の阿城(アー・チョン)による短編小説の映画化だ。



 冒頭、舞台になる村を囲む山々から太陽が昇り、夕方になって日が沈むまでをコマ送りのワン・カットでとらえた荘厳なシーンが映し出された時点で、一気に観る者を映画に引き込んでしまう。斯様に、本作は文革の過ちを声高に糾弾する類のシャシンではなく、抑制されたタッチと象徴的な映像により主題を浮き彫りにしようとする。

 主人公の奮闘には決してカメラは肉薄せず、一歩も二歩も引いた地点から現象面だけをピックアップするのだが、それが却って問題の重大さと主人公の志の高さを強調する。特に、主人公と勉強熱心な生徒男子がある“賭け”をするシークエンスは印象的。撮り様によってはかなり盛り上がるエピソードなのだが、映画は淡々と経緯を追うだけで、重要なのはこの一件で生徒が得た“教養”なのだということを明示する。

 静かな作劇ではあるが陳凱歌の演出は一点の緩みも見せず、圧倒的な映像美も相まって、鑑賞後の満足度は高い。余韻たっぷりの幕切れも実に印象的だ。主演のシエ・ユアンは好演。生徒たちも良い面構えをしている。なお、本作は88年の第41回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品されたが、当部門で上映された初の中国映画になった。
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「エンドロールのつづき」

2023-02-04 06:52:27 | 映画の感想(あ行)
 (原題:LAST FILM SHOW)一部には“インド版「ニュー・シネマ・パラダイス」”という評があるらしいが、明らかに違う。断っておくが、私は「ニュー・シネマ・パラダイス」は嫌いである。ならばそれとはアプローチが異なる本作は評価出来るのかというと、そうでもない。映画にとって一番重要なファクターは脚本であり、本作のように筋書きが要領を得ないシャシンを持ち上げるわけにはいかないのだ。

 インドの田舎町で暮らす9歳の少年サマイの家庭は、チャイ店を営む父親と幼い妹、そして専業主婦の母親の4人家族。堅物な父は映画をはじめとする歌舞音曲の類いをまったく受け付けないが、信仰するカーリー女神の映画だけは別らしく、封切られた際には一家で観に行くことになる。初めて大スクリーンを前にしたサマイは、瞬く間に映画に魅せられてしまう。



 それから後もサマイは親に黙って映画館に忍び込むが、スタッフに見つかって叩き出される。偶然マサイと知り合った映写技師のファザルは、料理上手なサマイの母が作る弁当を提供することを条件に、映写室から画面を覗き見ることを許可する。さまざまな作品に接するうちに映画への興味が増すばかりのサマイは、やがて自分も映画の仕事に関わりたいと思うようになる。脚本も担当した監督のパン・ナリン自身の体験を元にしているらしい。

 本作の脚本の不備を挙げると、ひとつは主人公がどうして映画にのめり込むようになったのか不明確であることだ。普通、年若い者が映画にハマる切っ掛けというのは大抵“映画の内容に魅せられたから”というものではないだろうか。ところがサマイにはそれが感じられない。彼が興味を持ったのは、どうやら映画の上映技術の方らしい。だからこそ、彼は自前の“映写装置”を作って勝手に“上映会”みたいなことを始めたのだろう。しかし、それに至る主人公の内面が描けていない。

 次に、時代設定が不自然である。終盤近くに映画館の映写方法がフィルムからプロジェクター類に移行する様子が示されるが、だとすればこのドラマの背景は2010年ぐらいだ。ところがサマイの住む町ではスマートフォンどころか従来型携帯電話もパソコンも普及していない。いくらインドは地域格差が激しいといっても、話が極端に過ぎる。

 そして最大の難点は、主人公の犯罪行為を何も咎めていないこと。サマイは自前の“上映会”のためにフィルムを何巻も盗み出す。明らかな泥棒であり、ヘタすれば鑑別所行きは免れないが、なぜか重い懲罰は課せられない。こんな調子で主人公の映画愛に感心しろと言われても、それは無理な注文だ。結局、印象的だったのは母親の作る美味しそうな料理だけという、沈んだ気分でエンディングを迎えてしまった。
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理不尽な校則が現存していることに驚いた。

2023-02-03 06:23:15 | 時事ネタ
 去る1月29日の毎日新聞に、鹿児島市の公立高校では男子生徒の防寒着に制限を設けていることが、同新聞の情報公開請求で判明したという記事が掲載された。何でも“オーバー・ジャンバーコート等の着用は認めない。ただし、生徒指導部の異装許可がある場合はこの限りではない”という内容らしく、要するに学校当局の許可がなければ、どんなに寒くてもコート類は着用禁止ということだ。

 この記事を読んで私は驚いた。前にも一度書いたことがあったが、私は福岡県出身で今でも福岡県に住んでいるが、親が転勤族だったので幼少時から各地を転々としていた。高校時代はちょうど鹿児島県に在住で、そのまま同県内の高校を卒業している。断っておくが、通っていたのはラ・サールみたいな超進学校でも鹿児島実業みたいなガテン系(?)でもなく、この記事で取り上げられているような公立の普通校だ(笑)。

 私が在籍していたその高校は、とにかく校則が多かった。そして例によって、不合理な“ブラック校則”のオンパレードだ。もちろん、男子は真冬でもコート類の着用は禁止。それどころかワイシャツと上着の間にカーディガンやセーター類を着込むことも禁じられていた。なお、拙ブログの読者諸氏諸嬢の中には“鹿児島って本土の最南端だから冬でもそんなに寒くならないのでは”と思う向きもあるかもしれないが、いくら“南国”でも冬場はかなり冷えるし、年に1,2回はしっかり雪も積もる。

 今はオッサンである私が高校に通っていた時期というのは、当然“かなり昔”である。あれから長い時間が経過しているので、さすがにヤバい校則は淘汰されていると思っていたのだが、今回の報道に接して事態はほとんど変わっていないことを知り、愕然とした次第だ。

 くだんの記事によれば、新聞社が校則で男子生徒のコートなどの着用を制限する理由を学校側に問いただすと、何と教頭は“昔からある校則なので、目的は分からない”と答えたという。確たる理由もなく“昔からそうだから”という既成事実によりアホな校則が漫然と長期間存続しているとは、改めて学校現場の閉鎖性・硬直性を思い知らされる。

 たぶん斯様な状況は鹿児島県に限らず、全国規模で散見されるのだろう。ダイバーシティ教育の必要性が叫ばれる昨今、当の学校では前時代的な慣習が罷り通っている。これでは国力が低下する一方だ。また、理不尽な校則を“社会に出てからの苦労に備えるための予行演習”といった謎な理由で肯定する保護者もいるらしい。その予行演習とやらのために、生徒の人権や健康が損なわれても構わないという考え方は、倒錯的と言わざるを得ない。

 余談だが、私が昔通っていた高校では女子だけ学校指定のコートを着ることが認められていた。今回の記事によると、そういう仕切りは現在でも続いているという。その件についても学校側は“昔からそうなので仕方がない”と答えるのだと思うが、さらに問い詰めれば“鹿児島のオナゴは学校を卒業するとすぐに結婚して子供をたくさん産まなければならないから、身体を冷やさないための措置だ”というトンデモな“本音”が返ってくるかもしれない。実際、私の出身校の生活指導担当教師は真面目な顔でそう言っていた。
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