なにもクリスマスの夜だからって、
みんなで寄ってたかって宅配ピザを注文するこたぁないのに。
なんで、こうもわかりやすい世の中なのかねぇ。
「山之口貘は人間に絶望し、
その絶望を自分のみっともない体の一部のように
たずさえて生きていた詩人である…。
パパの微笑の温かさも優しさも私には
全てそこから出ているような気がして仕方がないのです」
(「お墓の中の私のパパ」山之口泉著より)
時節の流れに身を任せて、夢もうつつも垂れ流すのではなく、
現実をしかと受け止め、「絶望」することも、時には必要だ。
「絶望」の数だけ、人間は強くなれる。
ことしこそはと
ぼくのみる夢
柿板葺の家を建てる夢
ひとまをこどもと女房の部屋に
ひとまはぼくの仕事部屋
ふたまもあれば沢山の
ぼくの家を建てる夢
生きたり死んだりをそこで
繰り返そうと
七坪ほどの
家を建てる夢
ことしこそはと
みるのだが
坪一万にみたところで
七万はかかる夢。
(「初夢」第四詩集“鮪に鱈”より)
昭和三十八年(1963)
三月、胃に変調を覚え病院に行き、胃潰瘍と診断されるが、
入院費用も手術代もなく朝日新聞調査部の土橋治重に相談。
土橋治重が奉賀帳をもって、佐藤春夫をはじめ、金子光晴、
草野心平、緒方昇、三越左千夫、有馬佑人など、文壇・
ジャーナリズムを回ってカンパを集めてくれ、三月十四日
東京新宿区戸塚の大同病院に入院する。病名は胃癌で四ヶ
月にわたる闘病生活、七月十六日比嘉勇博士の執刀で五時
間の大手術を受けたが、七月十九日、同病院にて永眠。
享年五十九歳。
小津安二郎は同じく1963年の12月12日、奇しくも自分の誕生日に永眠。享年六十歳。
そう考えると、小津と山之口貘は同い年であったのだ。
共に明治三十六年生まれ。
この世代までが、どうにかニッポンの良心を背負って生きてきた人たちなのだろう。
1964年の東京オリンピック開催以降は、転がり落ちるように経済立国にひた走る。
1970年の三島由紀夫の切腹で、良心の灯火はぷすんと消えた。