弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

手嶋龍一「外交敗戦」

2007-03-24 17:19:08 | 趣味・読書
手嶋龍一著「外交敗戦」(新潮文庫)
外交敗戦―130億ドルは砂に消えた (新潮文庫)
手嶋 龍一
新潮社

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先日ここで紹介した手嶋龍一佐藤優著「インテリジェンス 武器なき戦争」で手嶋龍一氏のことをはじめて知りました。
「外交敗戦」は、1990年から91年にかけての湾岸戦争において、日本という国が世界からどう評価(酷評)されたのか、その酷評の原因はなっだったのか、をたどったドキュメンタリーです。

私も当時、日本が膨大な資金的貢献をしたにもかかわらず、それが国際社会から正当に評価されていないらしい、というのは聞いていました。
戦後にクウェートが各国に対する感謝の新聞広告を出したときに、その中に日本が含まれていないという屈辱をも味わうことになります。
しかし、これほどまでに侮蔑されていたとは知りませんでした。
「日本は特別な批判を受けてしかるべきだ。そのもてる財力を思えば、不承不承、仕方なく財布を開いたと言えないか。だが問題なのは、日本が約束した金額そのものではない。日本に拠出を呑ませるためにわれわれはどれほど大変な思いをしたことか。ようやく金を出すことになったと思ったら、もったいぶってなかなか渡そうとしない。渡されてみると、当初約束したドルベースの金額よりも円建ての金は随分と少ないものだった。おまけに使い道を制限するヒモまでついている。」
米下院軍事委員長アスピンの議会での発言です。
日本は合計で130億ドル近くを拠出し、その財源として国民は増税まで受け入れました。それなのになぜ、このような蔑みを受けなければならなかったのでしょうか。

湾岸戦争当時、日本政府の体制は、
海部俊樹総理大臣、橋本龍太郎大蔵大臣、中山外務大臣、栗山尚一外務次官です。
米国はブッシュ(父)大統領、ベーカー国務長官、ブレイディ財務長官です。

湾岸戦争は、1990年8月2日にフセイン率いるイラクが突然クウェートに侵攻したことから始まります。米国を中心とする多国籍軍がサウジアラビアに集結し、1991年1月17日に空爆開始、2月25日に地上戦開始、2月27日にクウェート市を開放、3月3日には暫定停戦協定が結ばれ戦争が終結しました。

クウェートを占領したイラクは、南のサウジアラビアに侵攻する気配を見せます。この動きを阻止するため、サウジアラビアは自国へのキリスト教国軍隊の進駐を認め、米国は大輸送作戦を展開してサウジアラビアに軍隊を送ります。この時点でイラクがサウジアラビアに侵攻したら、米国も止めることはできなかったでしょう。

《海上輸送支援》
8月14日、ブッシュ大統領から海部総理に直接電話がかかってきます。日本に掃海艇や給油艦の派遣を求めます。海部総理が憲法や国会の困難を理由に抵抗すると、それなら後方支援を頼みたいとブッシュは強く求めました。
その後、海部から石原官房副長官へ、石原から運輸省林事務次官へと話がおりるにしたがって、自分にとって不都合な要素が抜き取られ、「とにかくペルシャ湾に日の丸を揚げた船が浮かんでいればいい」と矮小化されてしまいます。
ところが実は米国は、物資を満載したトラックなどを輸送できるロール・オン・ロール・オフ船の派遣を希望しており、このことは外務省にも伝わっていたのです。外務省は米国発のこの公電を、運輸省に隠していたのです。

外務省はどうしていたのでしょうか。危機勃発以来、外務省では幹部職員が集められて早朝から深夜まで続く会議が行われていました。外務省職員はこれを、栗山次官を頂く「御前会議」と称していました。とにかく皆を集めておかないと不安でならない。延々と続く会議で何も決まりません。
外務省は、危機に際して有効な施策を打ち出すことができず、このため「異質国家ニッポンは危機を前になにもしようとしない」という国際的非難を浴びることとなります。
在日米国大使館は、日本外務省を「オダワラ・カンフェレンス」小田原評定と呼びました。

《人的支援》
海部総理と栗山外務次官はともに、自衛隊が外に出て行くことを嫌い、自衛隊を必要悪と捉えているところがあります。このことが、日本の政策決定に影響を及ぼします。日本の人的支援について、海部総理はせいぜい「平和協力隊」程度のことを考え、法案作成が進みます。

ところが9月29日、ニューヨークでの日米首脳会談で海部総理がブッシュ大統領から自衛隊による多国籍軍の輸送や後方支援などを要求されます。ブッシュは苛立ちを隠さず、日本側の同席者はその対応の冷ややかさにぞっとします。
すると会談の後、海部総理が豹変します。そして栗山次官の思惑を無視し、自衛隊員が自衛隊員の資格で参加する「国連平和協力法案」が作成されることになります。しかし外務省が作成した付け焼き刃の法案は国会審議に耐えられず、法案は廃案となり、日本からの人的支援は実現しませんでした。

《多国籍軍への日本からの戦費の拠出》
日本は、90年8月下旬に10億ドル、9月に30億ドル、91年3月に90億ドル、7月に5億ドルを拠出しています。ところがそのいずれの場面でも、日本側はもたつき、米国をいらだたせて世界から蔑まれる原因となりました。

8月29日、大蔵大臣が既に10億ドルを決断しているにもかかわらず、政府の第一次中東支援策が発表される時点で、大蔵省は拠出金額の公表を許しません。海部首相は金額の入っていない支援策を発表せざるを得ず、後から金額を公表することになりました。これで日本のイメージがどれだけ損なわれたことか。

9月7日、ブレイディ財務長官が日本を訪れ、追加の拠出30億ドルを要求しますが、橋本蔵相は即答でOKしません。日本政府からの正式回答が送られず、いらだった米国は30億ドルを突きつけたことをマスコミにリークします。9月14日にやっと30億ドルを決定しますが、日本が渋々応じたという印象は否めません。

1月20日、渡米した橋本蔵相がブレイディ財務長官と会談します。このとき90億ドルの拠出を求められた橋本蔵相は、何の躊躇もなくその金額を受け入れます。
ところがその後に迷走が待ち受けています。
橋本-ブレイディ会談に際し、日本大蔵省は在米日本大使の同席を許しませんでした。そして会談では、90億ドルがドル建てか円建てか、90億ドルを米国のみが受けるのかその他の国も受けるのか、話しあわれませんでした。そして会談終了後、3月の拠出前にドル高となるのです。
日本は会談時の為替レートで円建てでかつ米国以外にも配布されると解釈し、米国政府は90億ドルきっちりと米国に支払われると解釈し、それぞれ議会で明確にしてしまいます。このとき日本政府は一枚岩になれず、外務省と大蔵省がたがいにいがみあうばかりで、二元外交の弊害が一気に表面化します。

そして拠出金の使い途です。当初日本政府は、拠出金の使い途に制限を加えないつもりでした。ところが補正予算でキャスティングボートを握る公明党が、武器弾薬購入を除く分野に限定すべきと言いだし、政府もこの方向に傾斜します。そして米国政府に頼み込むのです。拠出した金員は全体でプールされるので、だれからの紙幣がどこに使われたか、などと考えることは土台無意味です。しかし米国はなんとかつじつま合わせのコメントをしてくれました。
そしてこのときに、前述の米下院軍事委員長アスピンの議会での発言があったのです。


日本政府が一丸となって荒波を乗りきるべきとき、外務省と大蔵省はそれぞれ情報を自分の中に抱え込み、主導権争いに暗闘し、政府の判断がすべて後手後手に回りました。不都合が生じると、いずれも相手の省が悪いと悪口の言い合いです。ときの海部総理はもともと竹下派の傀儡のような位置づけであり、リーダーシップがとれなかったことも災いしました。


湾岸戦争でのこの経験がトラウマとなったのか、イラク戦争で日本は米国の言いなりでした。本来であれば、湾岸戦争でこそ真っ先に日本は対イラクの運動に貢献すべきであり、イラク戦争では米国を押しとどめる役割を果たすべきでした。


著者の手嶋龍一氏は、こうして湾岸戦争時の真実を究明し、出版してくれました。
日本では、過去の事象を掘り起こして正確に記録しようとする意欲が希薄です。旧ソ連の情報公開と日本でもそれを述べました。また、東海村JCOでの臨界事故 を究明した七沢潔著「東海村臨界事故への道」にしても、私には待ち望まれたルポでしたが、出版は皆から歓迎されたわけではなかったようです。
記録を残さないで責任を曖昧にするというこの傾向は、なんとかして変えていかなければなりません。
コメント (1)
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