あられの日記

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15代将軍 徳川慶喜のお墓 谷中散歩その3

2017年11月03日 05時18分40秒 | 墓所巡り
谷中霊園に徳川慶喜のお墓があるのは以前から知っていたけれど、谷中霊園は6000基からのお墓があるのです。詳しい場所がわからないと、到底辿り着けません。そこで大きめの霊園にはお墓の番地が振り分けてありまして、墓参りはこれを頼りに探すのです。ところが、番地は整然と並んでるとはいかない。どうにか詳しい場所はわからないものか?と、WEBの海を泳いだ結果、谷中霊園の管理事務所スタートにすれば、慶喜のお墓までの道案内がある。という有力情報を見つけました。実際に管理事務所から谷中霊園に伸びる道を見ると、トップ画像の行き先案内矢印を見つけました。
助かる〜~っ!!

曲がり角には次の行き先表示矢印がある。

たどっていくとさらに道を左折しろと。で、突き当る。

霊園の中に唐突な壁。実は壁の向こうが目的地の慶喜のお墓です。
んで?このさきどうすればいいのか?
これを探してください。案内板をよく観察すると、ブルーの枠は矢印になってます。つまり、この立看板は赤丸が現在地で壁に沿って反対側に回れの道案内板だったのだ。赤い三角部分がゴールです。
指示通りに回ります。

到着。こっち側は壁でなく鉄柵なので、中に何があるか見やすいです。上の画像の左へ移動。

鉄格子に葵の御紋が!奥にあるのがお墓です。
せっかくなので鉄格子が画面に写らないように、鉄柵の間に携帯を通して撮影しました。特徴的なお墓です。向かって左が慶喜。右が奥さんの美賀子さん。以前にこのお墓の形は宮中の人のお墓の形だと見たことがあるような?
説明板発見:東京都指定史跡徳川慶喜墓
徳川慶喜(1837-1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第7子で、初めは一橋徳川家を継いで、後見職として徳川家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、第15代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇の謁見しています。明治35年(1902)には公爵を授爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。
お墓は、間口3、6メートル。奥行き4、9メートルの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1、7メートル、高さ0、72メートルの玉石畳の基壇を築き、その上には葺石円墳状を成しています。」東京都教育委員会
詳しい説明ありがとうございます。ちなみに77歳で没した慶喜は、徳川代々の将軍で一番長生きだったとか。
徳川将軍のお墓は初代家康は日光。2代秀忠は芝増上寺。3代家光は日光。以降は芝増上寺と上野寛永寺に順繰りにあります。芝増上寺の将軍家の墓所はたまに公開されてて訪問済みですが。
お江と秀忠のお墓(2012.3/1)の記事 こちらの記事に芝増上寺にある2代将軍の徳川秀忠と正室お江の方の画像があります。 第二次世界大戦で焼失した秀忠の墓所。焼失前の画像もあります。
徳川将軍家のお墓(2012.2.29)の記事 こちらの記事に、芝増上寺に眠る代々の将軍と奥さんのお墓の画像があります。オリジナルの豪華な墓廟はすべて戦災で焼失し、現在はかつて豪華な墓廟の中に納めされていた墓基のみになっています。
上野寛永寺の将軍家墓所は基本日公開。お祭りとかに関連して当選すれば見れるんだけれども、今年も落選しました。何度目だっけ?ぼちぼち四捨五入で10回になるか?数年前より寛永寺さんは5人以上のグループ申し込みでなら拝観OKとなりましたが、私5人も寛永寺の将軍家の墓所を見に付き合ってくれる友達いないんだよね〜。ぼっちな散歩がほとんどなのですよ。そのうち個人受付で拝観できないものか?と願ってます。叶うかどうかはわからないなあ〜。でも暴れん坊将軍の吉宗様のお墓を墓参りしたいんだ。
さてと?いい感じに1本の記事になりそうなので、明日は谷中墓地を歩いてて見つけた他の著名人のお墓を紹介します。
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