次郎丸かなみの有味湿潤な日常生活

医療系オタク大人女子の日常生活やエッセイ。創作垢「きつねの戯言」にて小説、楽描きイラストなども描いています。

食わず嫌いと分水嶺

2024-01-04 22:29:48 | 日記
今年は学びの年にという年頭の決意を実現する第一歩に、通信教育の資料請求をしてみた。資料請求をした時点でもうやることは80%くらい決めているのではあるが、ざっくりWEBサイトの説明を見ただけではなあ、と思う所が昭和の人間の悲しいところである。デジタル本が便利と思ってもやはり紙の本でないと心許ないとか、若者がダウンロードでゲームや音楽を楽しんでいるのを見て、円盤とかカセットのような形あるものでないと何か違和感を感じてしまったりする。

通信教育と言えば、昔ずっと長年気になって迷いに迷って始めたものの面倒になって初回特典プレゼントもらってすぐやめてしまったものや、途中で興味を失い、修了期限間近になって爆速で課題をこなして何も身につかなかったという黒歴史がある。
今回は転職のための資格取得を目指すので、以前のような趣味や教養レベルではないから気合を入れてやらねばとは思っているのだが。
資料請求には上限があるので、他にも気になっていたのがいくつかあるのだが、まずは本命から、ということで優先順位を絞った。

自分の性格は熟知しているのでわかるのだが、まず興味や関心を持ってもすぐには飛びつかない。何年も毎度毎度目や耳にする機会がある度に気になりながら、一歩を踏み出すことが出来ないヘタレである。
そして何年も迷いに迷ったあげく、何かのきっかけで、「えいやっ」と決心するのだが、そこで安心してしまったり、いざやってみると意外と難しいとか「思ってたんと違う」でやる気をなくすということになりがちである。
このパターンは大体自分から興味を持ったものである。
小学校高学年の時のペン習字も初回特典のペンをもらってすぐやめてしまったし、結婚後に始めた植物画も初回特典の画材をもらって何回かでやめた。
「妊娠したのでやめたい。」
と連絡したら、
「休学して再開もできますよ。」
と言われたが、やめてしまった。

昔、手話に興味を持ったことがあって、いつからだったか、何がきっかけだったかは定かではないが、長年気になっていて、いつか勉強してみようかなと漠然と思っていたら、元夫が手話をかつて元カノとの秘密の会話に使っていたと聞いて、「これはあかんな」と封印した。
元夫は中学時代サークル活動で他校の女生徒と一緒に手話を習い、同じ高校に進学してから交際が始まり、他の人にはほぼわからないからと、二人だけの暗号みたいに使っていたらしい。何かそういう話を聞いてしまうと、手話自体には何の罪もないのに、何か「やりたいと言ったら負け」みたいな嫌悪感というか。
しかし、結局、ずっと後になって、通信教育で手話を勉強した。本業に使えたこともあって、それなりに満足はしていたが、なんだかんだあって滞ってしまい、何とか修了はしたけど、ちょっとした挨拶やいくつかの単語以外は殆ど覚えていない。その後、DVD等の教材も全部まとめてリサイクルショップで売ってしまった。

同期や後輩で、複数の資格を取得している勉強家が居て、尊敬するし羨ましいし、私も何かやってみようかというような話をすると、先輩や友人が、
「◯◯をやったら良いんじゃない?」
とか
「◯◯はやらない方が良いらしいよ。」
とかいう情報をくれたりオススメのアドバイスをくれたりするのだが、
「確かにそれ良さそう。」
と思っても、何か気が乗らないのは、例えるなら「食わず嫌い」のようなもので、
「これ、とっても美味しいよ。食べたことないの?絶対食べた方が良いよ。きっとあなたは好きだと思う。」
という感じに聞こえるのだ。いろいろ詳しい話を説明してもらっても、
「う〜ん、でもなあ。」
みたいな感じである。生来頑固者なので、簡単には受け入れられない。勿論善意には感謝しているのだが、いろいろ考えてしまうのだ。
「それを学んだとして、資格が取れたとして、その後は?それを使って仕事するとしたら?」
といろんなことを考えてしまって、
「後で後悔しないか?無駄にならないか?」
などと、ダメな方向の想像しか出て来ない。やるかやらないかを分ける一線をなかなか超えられない。

これは何も資格や勉強の話だけではない。これからの人生を考える時に、「えいやっ」と決断して乗り越える一線はたくさんある。分岐点での選択によって決まる分水嶺と言っても良い。その先に待っているのがどんな未来(結果、人生)なのか、と考える時に、いろんな要素が気になって、ポジティブな要素よりはネガティブな要素が勝ってしまう。もしかしたら何もかもがすごくうまいこと行って幸せになれるかも知れない(可能性は0ではない)のだが、どうにもそういう発想には至らない。多分幼少期も機能不全家庭だったし、元夫との結婚生活も問題があったので、身近な人や家族でも、揉めたくない、怒らせるのが怖い、不機嫌になられたら不安、というのが身に染みついているからかもしれない。なので、断るのも難しい。そうなると、決断にはものすごいエネルギーを費やすので、よほど余力がないと、決断することすらままならないことが多い。だからこそ、毎回「えいやっ」と思わないといけないし、「えいやっ」と思えるタイミングがないといけない。それを逃したら今度いつ巡って来るかわからないからだ。

その時は熟考に熟考を重ねて決断したはずでも結果的に間違っていることもあるし、逆に勢いで決めて正解の場合もある。それならば悩むこともないのかもしれないが、要はタイミングなのかもしれない。体力なり、気力なり、運気なり、それらが充実した時こそ、「えいやっ」と一線を越えるタイミングなのだろう。
機が熟したと決断したら、全ての迷いを頭から追い出して、バンジージャンプみたいに飛び出さないと、また気が削がれてしまう。
やると決断した後は、「継続できるか」なのだが、ここがまた次の難関。勢いで決断してスタートしても、続かないと何もならない。同じ轍を踏まないように、今度こそは最後まで気合と緊張感を持続させなければ。
まだ何も始めてないうちから、四の五の言っても詮無い事なので、まずは始めてから考えよう。考え過ぎは良くないが、頭でっかちになるのもまた自分の悪癖だと自覚している。

ネットで見る占いもそこそこ良かったので、今年は良い年になりそうだと、すっかり良い気になっていたら、TV番組の今年の運勢ランキングがかなり下の方だった。
「当たるも八卦当たらぬも八卦。良いことだけ信じて悪いことは流して。」
とは言うものの、「見なきゃ良かった」と思ってしまうほどに、器の小さい人間だと改めて自覚する。
「良い年になるか」ではなくて、「良い年にするか」は自分次第。
厄年だけど、節目の年だから、頑張らないとな。
皆さん、応援よろしくお願いします。
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