『人生に定年はない』というタイトルからどんなことを言わんとしているか想像できるだろうか。
生涯現役で仕事に趣味に社会貢献に学びにと元気でバリバリ頑張るというような話だとポジティブに受け取られたかも知れないが、誤解を恐れずに言えば、それとは真逆の超ネガティブな話なのだ。
最近ネットで知ったとある映画だったり、過去にも似たような創作もあったような、所謂『現代の姥捨て山』的な発想で、超高齢化社会が破綻寸前となり、老老介護を始めとする諸問題が取り沙汰される世の中である。
医療業界の端くれに居るもので、高齢でも頭脳明晰で姿勢も良く、朗々と声の張りもあって言葉も明瞭という人もそこそこお目にかかるが、介護を必要とする車椅子や寝たきり、または認知症、及びそれらの予備軍のような人が多い。
実母もまたそんな要介護者であり、老人介護施設で暮らしている。
以前のブログでも書いていたことだが、60歳過ぎでつれあいを亡くした母は重度の浮き世離れなのにも関わらず、自由気ままな独り暮らしを満喫する一方で、子供とは疎遠だった。
特に二人姉妹の長女である私とは不仲で、普段は疎遠なのに何かという時は「大学出なんだから」という短絡思考で丸投げしてきたりした。
放置していた私も悪かったのだが、まだ若かった私はそこまで気が回らなくて、父の遺族年金をもらっていた母が母自身の年金の手続きをしないまま約20年間年金をもらい損ねていたのが発覚し、手続きを経て、今後の分に加えて過去5年分だけは支払いを受けられたという話は以前にも書いた通り。
介護保険の負担金軽減措置のある限度額認定という制度を最初にお世話になったケアマネに教えてもらい、手続きして適用してもらえたら、遺族年金ととんとんの負担金で施設に入所できる計算だったし、それは計算通りに実現した。
その認定期間終了に伴う手続きの案内が来たので申請したのだが、帰って来た通知は『非認定』だった。
通知書によると、年金額と貯金通帳の残高が基準を越えているため、改定により8月から食費日額が約2倍になる旨の説明があり、早急に施設に連絡するようにと記されていた。
施設のケアマネに伝えると、「今までは軽減措置の適用があったが、食費だけでなく居室使用料(部屋代)も適用されなくなるので、1ヶ月あたり50000円ほど請求額が上がることになる」と説明された。
致し方ないと言えばそれまでだが、年金額にしろ、貯金額にしろ、基準を大きく越えたわけではなく、ほんのちょっと越えただけ、誤差の範囲と言いたいくらいの差額なので、悔しすぎるレベルで残念だ。
ただ、問題は今まで年金と請求額はほぼとんとんだったが、年金はそれほど増えたわけではないのに請求額は一気に増えて赤字になり、過去5年間の年金一括払いでできた貯金を取り崩して行くしかなくなったのである。
ざっくりと計算してみたら、月5万なら年60万。今の貯金では10年も持たない。
80代半ばの母の寿命が後何年残っているかはわからないが、長生きするほど貯金は目減りする。
勿論貯金だけならそのうち減ってまた基準を満たすようになるかもしれないが、年金額も減って基準以下にならないと再認定は難しかろう。
恥ずかしながら私も既にアラ還に片足突っ込んでいるので、後ろ倒ししなければ母の貯金が尽きる前に年金受給開始になるだろう。
これも何度も書いて来たことではあるが、私は離婚調停で年金分割は認めさせたが、財産分与も慰謝料もなく、ただ自腹で調停費用を払っただけなので、殆ど貯金は持っていない。
離婚後フルタイムで働くようになって間もなく母の面倒を見るためにパートに戻らざるを得なくなり、職場の立地などを優先したので、社会保険や厚生年金は諦めざるを得なかった。
そのため、私自身の年金予想額は母とは雲泥の差なのだが、母が長寿で90代、もしかしたら100歳越えともなれば、私の年金から母の介護費を払うというような笑えない事態も絶対に起こり得ないとは言えないのである。
単純に親の長寿を喜べない可能性もないわけではないというのは、何も私だけではないと思う。
そこで冒頭のタイトルの意味に戻る。
仕事は定年になれば(一応は)終わりであるが、人生は寿命を全うするまで終わりではない。
心身健康で長寿なら言うことはないが、思うように体が動かせないとか、子供の顔もわからないとか、人間離れした言動で無自覚に周囲の迷惑になるとか、本人はわからなくても家族や周囲は大変だったり、「そもそも本人の人間としての尊厳とは」等と考え始めてしまうと、長生きするのも良し悪しで、実際そのために悲劇的な事件が起こったりもしていると聞く。
昔は「人間50年」であったものが、今はその倍の「人生100年時代」。
医療その他の進歩で人間は長生きし過ぎるようになってしまったのかもしれない。
健康寿命については、軽々に語れる話題ではないけれど、人類は今まで経験したことのないステージへと進もうとしているのかもしれない。
「世界中でも例を見ない超高齢化社会をどうするのか、その答えを早急に模索しないといけない」と言うけれど、今まさに高齢者の介護をしている家族には正味社会なんてどうでも良くて、目の前の問題を、降りかかる火の粉を、どうやってしのいで行けば良いのかと悩みながら、更に、もうそんなに遠くもない将来の自身の身の振り方に対する不安に戦々恐々としながら、それでも日々暮らして行かなければならないのである。