次郎丸かなみの有味湿潤な日常生活

医療系オタク大人女子の日常生活やエッセイ。創作垢「きつねの戯言」にて小説、楽描きイラストなども描いています。

例え話

2022-01-25 00:55:49 | 日記
例え話をしよう。

とある学級で、各自持参した雑巾を提出し、当日の日直が提出を済ませた生徒を名簿でチェックすることになった。

翌日学級委員のAさんは提出された雑巾の枚数と名簿上で提出済みとされた生徒の数が合わないことに気がついた。
調べてみると提出してないはずの生徒の名前にチェックがついていたことがわかった。

前日の日直はBさんとCさんの二人だった。
Cさんは真面目できちんとした生徒だが家庭の事情で欠席がちで、その日も欠席だった。

AさんはBさんに向かって
「名簿のチェックミスがあった。Dくんは雑巾を持ってくるのを忘れたはずなのにチェックがついている。チェックがついてるのはおかしい。一体誰がやったんだろう。」
と言った。

実は当日チェックをしていたのはCさんでBさんは名簿を見ていなかったのだが、Cさんの名前を出すと、その場にいない人のせいにするようで嫌だったから
「私は知らない。私がしたのではない。」
とだけ言ったが、Aさんは
「でも昨日の日直はBさんだったでしょ。おかしいねえ。じゃあ誰がやったんだろう。」
と頭からBさんを犯人と決めてかかったような言い方をした。

Bさんは直感的に
(仮にCさんがチェックしてくれてた、と真実を告げても、私がCさんに罪をなすりつけようとしてるとしか思わないだろう。)
と思ったので
「誰でしょうね。」
としか答えなかった。

それは前日Aさんが帰ってしまった後に起きたことだったので、実際に見たり聞いたりできた訳もなく、完全にAさんの勝手な思い込みだったが、今回に限らず元々Aさんは何かにつけてBさんを疑うような言動を繰り返していた。

後になって同級生はBさんに
「Aさんはああいう感じの人だから、気にしなくていいよ。」
と言ったし、担任の先生も
「悪気はないんだ。Aさんは真面目すぎるだけだから。」
と言ったが、Bさんの心は酷く傷ついた。

以前にも、別の人がやったことを頭からBさんの仕業と決めつけ、やった本人が名乗り出ても謝りもしなかったし、普段から何かにつけて上から目線でバカにするような言動をされているとBさんは感じていた。

何よりもいつも何かあるたびAさんに濡れ衣を着せられるのがBさんは悔しくてたまらなかった。

もしBさんが心を病んで体調を崩したり、思い詰めて自殺しようとしたりしたとしたら、
「悪気はなかった」
「真面目なあまりやりすぎた」
で済む話だろうか。

いじめとかパワハラっていうものは、した側や、周りで見てる側の論理で語ってはならない、と思う。
やった方は
「そんなつもりはなかった」
としても、受けた側にしたら知ったことではない。
傷つけられて悲しい、辛い、苦しいと感じたとしたら、悪意があろうとなかろうと同じことだ。

車で人をひいて
「わざとじゃない。悪意はなかった。」
と言えば許されるだろうか。
ナイフで人を刺して
「わざとじゃない。悪意はなかった。」
と言えば許されるのか。
体を傷つけたら目に見えるけど、心を傷つけても見えないからわからないだけで、どちらも罪に違いはないのに。

現実では結局Bさんみたいな人が怒ってカリカリしたりイライラしたり、落ち込んだり鬱々としたりするだけで、Aさんのような輩は自分がしたことに対する自覚は全くなく、あくまでも
「自分は正しい。自分は良いことをしている。」
と信じて疑わないから、反省することも改めることもないわけだ。
例え指摘したとしても、理解も同意もできないのだからどうしようもない。

関われば関わるほど被害にあうから、本当は『逃げるが勝ち』なのではあるが、そんなに簡単には行かないのが現実である。
ただ天罰が下れば良いのにと願っても、悲しいくらいにその願いはほぼ叶わない。
勧善懲悪なんて、今はもう遠い過去の産物になりつつある昭和の時代劇の中にしかないのかもしれない。
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お正月感ゼロ

2022-01-03 12:48:01 | 日記

 
 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 「年々お正月らしさを感じられなくなって来たな」と、少し年上の上司と二人で勤務した2021年の仕事納めの日の昼食休憩時の雑談で話していた。
旧家出身の私は、昭和の時代、子供の頃にはお雑煮やおせち料理やお正月の準備から元日の作法までいろいろな思い出があるが、今はそれをそのまま実現出来るような住宅状況でもないし、年末の仕事を終えてからの時間的な余裕もない。子供たちに伝えたいと思っても、木の餅箱もないし、家中のあちこちで神様にお供えする小さな鏡餅も置けないし、拝むべき掛け軸もないし、お正月に限らず、私の脳内にある古き良き(昨今の若者だとエモいというのかもしれないが)昭和レトロの思い出を再現する術もないので、私が死んだらもう子孫に伝えられることはないのだろうと思うと、ちょっと切なくはあるが、これも時代の流れなのだから致し方ない。私が老化しているからなのか、そういう巡り合わせなのか、時代の移り変わりや時の流れは急激に加速しているように思えてならない。

 例によって前書きが長くなり、なおかつ、いつになく堅苦しい物言いになってしまったが、本当にお正月という実感は年々薄れていく。
1/2恒例の休日診療の仕事に赴いても、今年初めて会うのにもかかわらず、ついうっかり「おはようございます。」と普通に挨拶してしまったくらいに。

 昨年末は珍しく元気があったので、例年より少しだけ掃除も頑張ったし、おせち料理もいつもよりは少しだけ手をかけたものになった。シフトと年末の通院の関係で、半日ほど時間的余裕が生まれたこともあったが、とにかく、早く準備が終わり、TV特番がつまらないので、長女に誘われて、年をまたいで二日間に分け、アニメBD鑑賞会までできたくらいだ。アニメが背中を押してくれたおかげで自作小説執筆中の迷いが解消したのはありがたかった。

 クリスマスには、前回ブログに書いた通り、映画鑑賞の余韻で久々にイラストを描いてみたが、元日の夜には長女の推しを描いてほしいと言うリクエストで冒頭の画像を描き、現物はプレゼントした。
イラストを描く前に一応小説の方は書き上がっていたのだが、時間をおいてもう一度読み返すつもりで一旦終了していた。
うまく行けばこの後に完成して今日中に創作垢の方で投稿できるかもしれない。というか明日は仕事始めなのでできたら今日中に完成したいところだ。
 リアル友人たちはよく私の作風はエログロであるというし、それは私も認めているが、今回のように殆どエログロなしの物語だって書くことはある。ネタバレにならないよう詳しいことは言えないので、裏話はまた完成後のあとがき解説でということになるが、そういう物語を書く時一番悩むのは、人間臭さとか煩悩とかである。
 初期の作品は、純愛だった。その後、リアリティの追求という点でどうだろうということで、エログロが入るようになったのではあるが、今回はある意味原点回帰を意識しているので、エログロを期待されたら少し当てが外れるかもしれないが、全く違うベクトルの間を揺れ動くのもまた人間ではないかと私は考えるのである。

 実を言うと、昨晩このブログを書こうと思い立ち、スマホアプリの方で開こうとしたら、開いた途端に勝手に終了するという状況を何度も繰り返し、どうにも開けなかったので諦めたのだが、画像を記録媒体に保存するためにPCに転送した後誤ってスマホのファイルから消去してしまっていたため、PCで画像をアップデートする方が簡単だったから、結果的にはそれで良かった。
 もう一つ良かったことは、昨晩の段階で考えていたブログの内容をほぼ忘れてしまったこと。多分そのままの勢いで書いていたら、もっと正月らしからぬ内容になっていたかもしれない。一晩おいたことで毒気もアク(悪とも取れる)も抜けたのでちょうど良かった。怪我の功名というのとはちょっと違うが、要は結果オーライということなのだろう。

 なかなか時間と体調の兼ね合いで思うように筆が進まないことも大いにあるけれども、焦らず自分なりにある程度納得のいく作品が書けるよう、今年も精進して行きますので、2022年も長~くて生温かい目で見守って頂きますよう、よろしくお願いします。
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