たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

父が亡くなった翌年・東日本大震災のあった年‐2011年12月

2024年02月22日 16時30分50秒 | 祈り

「2011年12月3日(土)雨

 これ以上やっていても病気になっちゃうようなあと思いながら、やるとなるとマジメになってしまう。かといって、誰もほめてくれない。弱い者に矛盾のシワ寄せがきえいるのを上の人たちも見て見ぬふりだ。それにしてもどうしてわざわざねじれ現象を起こすのか不思議でならない。上に行くと、ほんとに下のことがみえなくなるんだなあ。隣の席の人と話をしないというのはアメリカ式だそうだが、日本はいつからこんな国になってしまったのか。支え合うという文化があったはずだ。

それにしても目がチカチカしてつらい。明け方、大きな地震があった。不安だなあ。スキャンをどんどん進めて整理していきたいが今日はやれない。

自分にお休みをあげないと病気になってしまう。これからヨガに行くぞ!

それにしてもあの席はいやだ。

こんなにがんばってやってきて、今さらいやな思いをしながら、こらえながら、やらなければならないなんて、さっぱり意味がわからない。

私はこれからどうすべきなのか、何をやるべきなのか、今だみえず。意味のわからないことをやらされる、あるいはただ振り回されるってつらいよね。こういう怒りをかたちにできないものだろうか。

気づいた方が負け。

ほんとのバカってバカだっていうことに気がつかなくってバカなんだよなあ。」

「2011年12月10日(土)at.イタトマ

疲れている、ヘタっている。

ガチャ目からくる偏頭痛。アホくさい、面倒くさい、へんちくりんな組織の中での矛盾との闘いの日々。矛盾は誰かが引き受けることで成り立つ。それは弱い者の立場にくることが多い。全く上にくる人達ってどうしてばかなんだろう。何かがおかしい。気持ち悪い。それを感じて、外に向かって表現していくことは難しい。

私がストレスの固まりとなって坐っていれば周りもさぞかしやだろう。何しろあいさつがってろくにしないのだから。でも私はこの怒りを自分の中でごまかしていい顔するつもりなんかない。だってヘンなモンはヘンだ。同化することなんかできない。非常に疲れるが自分を曲げるつもりはない。

社会の中のシステムもシステムも組織の中も電車の中もヘンだらけ。なんだかヘンで気持ち悪いと感じているのは私だけではないようだが、少数派なのかなあ。

あんなにすごい地震と津波と原発事故。何事もなかったかのように時がすぎているが、もうその前に戻ることなんてあり得ない。たしかに何かが変わったのだ。日本がいい方向へとより深くあたたかい国へと生まれ変わっていけばいいのだが残念ながらそうではないようだ。この国は大丈夫なのかなあ。荷物を減らして移住したい。

自分はどこへ行くべきなのか。何をすべきなのか、わからない。生きられる時間はかぎりがある。この感性の揺さぶりを忘れてはならない。能面で過ごしているがその内側にはすごく深いものがあおる。それが私なんだ。何が悪い・・・!!」

「2011年12月14日(水)くもり

全く暑苦しい。ヒマな奴らはうるさい。プリンターの廃熱と空調の風邪で暑くて仕方ない。この面倒くささに耐えられないなあ。

震災孤児が1500人いるという報道をみた。被災地に行けない自分、何もできないでいる自分がもどかしい。不安が強くて仕方ない。なんだか世の中の空気が不快で仕方ない。何かが間違っている。そう私の体が叫んでいる。それをこらえなければならない。きついなあ。組織は疲れる。もういやだ。上の言うことに有無を言わせない。風通しの悪い会社なんて最低だ。

水よう日、いちばんつらい。自分は本当になにをすべきなのかわからない。あまりねてないし生理がきたがっているのにこないのがすごくつらい。

土よう日、ちゃんと長野に行けるだろうか。」

「2011年12月18日(日)13時32分 善光寺近くにて

なんとか予定通り新幹線に乗って長野へ来た。雪がちらちら降って寒い。信州の山々に囲まれて久しぶりの小さな旅。非日常の時間を過ごしている。

軽井沢になると、山々が広がってきて嬉しくなった。なんだかすごーく懐かしい空気感。佐久平では小海線の文字。清里、よくきてたよなあ。

駅からホテルまでの道が最初はわからなくて、思いのほか、やはり時間がかかった。14時からの吉村さんの講演会になんとか間にあった。1枚1枚に込められた撮影に至る裏話と熱い語り。なつかしさと斬新さが入り混じった。展示スペースに一枚一枚飾られた写真は、本でみるよりもさらに生活感にあふれ、エネルギーをもってせまってくる。石巻の光景を思い出しながら、一枚一枚じっくりみていく。美しいなあ。日々の営むに裏打ちされた人の持つエネルギーにあふれていて美しいなあと思った。

当たり前の生活、それがどれほどかけがえのないものであるか、あらためて思う。色んな物が規則正しくごちゃ混ぜになった日本だけがもつ美しさ。そこに気づいた吉村さんの感性に脱帽。

組織の中で感性は邪魔だと思う。それでも私は感性をみがき続けることを忘れてはならない。だって、私はMちゃんが自死したことを背負って生きていかねばならない。のたうち回るような思いで過ごしてきた時間。やわらいではいるが事実は変らないのでこれからも葛藤は続いていく。私にはMちゃんがおしえてくれていることを受けとめ、社会に還元していく義務がある。ただ今は方法がわからない。具体的に何をすべきかがわからない。

闘いの日々、自分がつぶれないために『赤毛のアン』とPEIは必要だ。

ベストしょっと8枚のうちの1枚、フレンチリバーに鉛筆で丁寧にサインをしてくれた。差し出した時吉村さんは8枚セットであると思ったようで、「これだけ」とびっくりされた。あとの7枚はまた次回。申し訳なかったです。すみません。ありがとうございます。額に入れます。

『光るふる郷』と『リンゴの里の物語』も購入してサインをもらった。絶版になっているんだ、勿体ない。夜ホテルの部屋で一枚一枚堪能した。

雪がちらつく中を2時間ぐらいかけて善光寺参り。真っ暗な御戒壇巡はこわかったが、光がみえた時何か突き抜けたような思いがあった。仏様の手とカウンセリング・・・。

色々な思いの中から私の言葉はふりしぼって出てくる。ひとつひとつが重く、かんたんではない。

自分を信じてこれからも闘い続けていく。エネルギーをふりしぼって帰路につこう。なつかしい信州の息吹き、しばしば幸せだった。Mちゃんを思い、母の病気を背負いながら闘いの日々は続いていく。」

 

手帳に書き留めていた『赤毛のアン』の原文、

'But it,s so easy to imagine there is,'said Anne.

'Every night,before I go to bed,I look out my window and wonder

if the dryad is really sitting here,

combing her locks with the spring for a mirror.

Sometimes I look for her footprints in the dew in the moring.

Oh,Diana,don,t give up your faith in the dryad!'(P.146)

 

「でも妖精がいると想像するのは何でもないことよ」アンはいった。

「私は毎晩寝る前に窓から見ているのよ。木の要請が本当のここにすわって、泉に姿を映しながら髪をといているんじゃないかと想ってね。朝は朝で朝霧の中に足跡が残っていないか、探すこともあるわ。おお、ダイアナ、木の陽性がいないなんて言わないで!」

(松本侑子訳『赤毛のアン』第21章「風変わりな香料」より)

 

思い出すと苦しいカイシャ、思い出すたびに苦しいカイシャ、こうして無印良品の手帳に『赤毛のアン』の原文を書き付けて持ち歩くことでなんとか自分を奮い立たせていました。

長野で購入したサイン入りの写真集は、他の写真集とあわせて一昨年バリューブックスに売りました。いつかこの世での旅は終わるのでずっと持ち続けるわけにはいかず仕方なかったと思います。残念ですがコロナワクチン3回目接種の投稿をみてからSNSのフォローもブログをのぞくこともやめました。ほぼ食塩水のロットでなにも起こっていなければいいですが知るのがこわいですわ、接種しなければ海外にいくことができなかったという事情がありますが亡くなる方後遺症で苦しむ方の声があがるようになってからも海外にいくために接種を推奨されていたのはちょっと信じられませんでした。残念です、ものすごく。コロナ騒動によっていろいろなことがあぶりだされました。震えます。

30年間衰退してきた国、政策が悪すぎるのを巧みに自己責任ということばにすり替えてきた自民党政治、自民党はグリーバリズムの政党、日本はアメリカの傘下にあり今だ独立することができていない国、今だ戦後が続いている国。働いた方が負けな国、働くの苦しすぎました。

 

善光寺

 

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