たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「大草原の小さな家」への旅_ミネソタ州ウォルナット・グローヴ_プラム・クリーク(2)

2015年02月28日 22時25分51秒 | 「大草原の小さな家」への旅
「ここウォルナット・グローヴは、「大きな森」と違って、森が少なく、木材がなかなか手に入らない。丸太小屋といっても、何人もの家族が暮らせる家は、男一人ではすぐには建てられないのだ。だから開拓者たちは、ローラ一家のように土手のほら穴に住んだり、芝の根が食い込んだ硬い芝土を四角く切り出して煉瓦のように積んだ家ソッド・ハウスに住んだのだ。

 クリークに沿って歩きながら、ローラとメアリがならんで走って遊んだ大きな岩はどこだろうと探した。するとクリークのほとりに、大岩(ビック・ロック)の看板が立っていた。クリークの氾濫で泥をかぶり、地中に埋まっているものの、たしかにあった。

 一家は、土手の穴に一年住んだのち、クリークのそばにガラス窓の入った明るい家を建てた。それもゴードン氏の農地の中だ。ゴードン夫妻は、農地を買ったときも、そこに建っていた一家の古い家を壊して廃材でニワトリ小屋を作ったときも、ここがインガルス一家ゆかりの土地だとはつゆ知らず、あとで驚いたという。ゴードン氏は亡くなり、夫人も今は住んでいないが、息子さんたちのサマーハウスがある。」


(松本侑子著『アメリカ・カナダ物語紀行』平成21年幻冬舎文庫、180-182頁より引用しています。)





花が咲いていました。




大岩。



クリークの水辺。





周囲の景色。



移動するバスの車窓から。


もやもや春霞

2015年02月27日 22時33分37秒 | 日記
乾燥した季節が終わり、なんとなくもやもやと霞がおりたような雨の日が続きました。
春がすぎ、夏がすぎ、秋がすぎ、冬がすぎてまた春がやってこようとしていますが、
終わりはみえません。
山の八合目まで来たと思ったのに、山は十三合目まであった?!みたいな感じで、
もやもやした日々は続いています。
おかしいことばっかりみえてしまって、どこに進んだらいいのかわからず、
戸惑うばかりのわたしです。

「大草原の小さな家」への旅_ミネソタ州ウォルナット・グローヴ_プラム・クリーク(1)

2015年02月25日 08時59分18秒 | 「大草原の小さな家」への旅
「ローラの一家は、シリーズ第二巻『大草原の小さな家』に書かれたカンザス州インディペンデンスを去ったのち、ここウォルナット・グローヴへやってきた。第三巻『プラム・クリークの土手で』で一家が住んだのは、土手の横穴にしつられた家。それは、町から北に二キロ半ほどで、ゴードンさんという人の農地の中ににあった。

 ローラがミズズマシのように泳ぎ、意地悪なネリー・オルソンにヒルを吸わせて仕返しをした小川プラム・クリークは、のどかなせせらぎだった。

(略)

 クリークにかかる小さな木橋を渡ったところに、横穴の家の跡はあった。今は土手が崩れていて、入り口も何もない。インガルス家の住居跡だったことを示す大きな看板があるだけだ。
土手の上は、大豆とトウモロコシの畑だった。

 土手の家は、夏は涼しく、冬は暖かだっただろうが、狭いほら穴だ。天井からの土埃と雨漏りがひどく、窓も小さな穴が一つだけ。暗くて、住みにくかったという。

 一家は、ウィスコンシン州の「大きな森」でも、カンザス州の大草原でも、かまどと煙突のある家に住んでいたのに、どうしてこんな古代人のようなほら穴に、と不思議に思った。その答えは、その日の午後、近くにあるソッド・ハウスという芝土(ソッド)の家を見学して、わかった。」

(松本侑子著『アメリカ・カナダ物語紀行』平成21年幻冬舎文庫、179-180頁より引用しています。


今年は雨が少ないので、水が少ないというガイドさんのお話でした。





インガルス一家が暮らした家の跡の看板が見えています。



ここで生活したことがなかなかイメージできませんでした。












橋を渡りました。



思いは空高く

2015年02月24日 21時41分15秒 | 日記
混乱は終わらないし、なんだかやっぱり疲れたなあという感じがあったので、コミュニティハウスに行って遅めのお弁当を食べながらパソコンをやっていたら、いつの間にかちっちゃい子たちでとってもにぎやかになっていました。(明日はまたちょっとがんばろうとしています。)

去年の春始めて会った時にはハイハイしていたKちゃんには二週間ぶりに会いました。
三週間ぶりぐらいに会ったMちゃんも、一カ月ぶりぐらいに会ったRちゃんもMちゃんも
みんなしばらく会わなかった間にまた大きくなっていました。
ことばもどんどん増えてきていて、大きくなるの早いなあ、自分もこうして大きくなってきたんだなあと、子育てをしていない私は感慨深いものがありました。

元気な子どもたちの様子を見ながら、母のことを思わないではいられませんでした。
私と妹と弟、年が近いので母は大変だったろうと思います。
以前にも書いているかもしれませんが、弟がまだ乳飲み子だった頃。
父は仕事で帰りが遅かったんだろうと思います。
弟の腰につけたひもをお風呂場のドアに結びつけて、母が奮闘しながら私と妹をお風呂をいれてくれていた光景をおぼろげにおぼえています。
一生懸命に育ててくれました。恨んだり憎んだり、母に対する思いはいろいろに揺れ動いてきました。
いなくなった今、母が一生懸命に育ててくれたから今私はこうしてどうにかこうにか生きているんだと思うことがようやくできるようになりました。

なぜうちの家族なんだろう。私の問いかけに対する答えはどこにもなく、私の思いは空高く舞っていくばかりで、どこにもたどりつくことはできません。あるがままを受けとめながら生きていくのが私の役割。どんな役割が与えられているんでしょうね。
自分のコアとなることはなかなか言いづらい、伝えづらい、理解されづらいことなのでむずかしいなと感じています。

最近資料をまとめたりなどしたからか、思いが深くなってしまい、ちっちゃい子たちの様子を見ながら徒然な思いがつきることなくて、涙がにじんでいました。
人の生きる力をちっちゃい子たちは教えてくれています。





あったかな一日でした

2015年02月23日 19時18分05秒 | 日記
昼間はあったかくてちょっとだるい感じでした。
次のことを考えてなんとかしなければと社会見学もかねて行ってみたところがありましたが、
こういう場面設定からは大きくはみ出ている自分を感じてしまいました。
いろいろなことがあったことのどこまで、どう話していいものやらわからないです。
たぶん向こうもわからないですね。
こんなことでは本当に自分にふさわしい場所がみつかっていくものやら、
不安ですが、やれることをひとつひとつやっていくしかありません。
21年間を振り返る作業は、自分で自分のことなのに涙が出てしまったりしています。

三津五郎さんが旅立たれましたね。
歌舞伎座にいかなくなって久しいですが、ひところよく行っていた頃に、何度か拝見していると思います。
生きる時間には限りがあるのだとあらためて知らされます。
謙虚に、生かされているという思いを大切に生きていかなければと思います。

救われました_『看護のための精神医学より』

2015年02月22日 17時57分23秒 | 中井久夫著作『「つながり」の精神病理』他
自分の歩みを時系列でたどっていて、ああこんなこともあったんだ、この頃はこんな思いでいたんだと、自分でも忘れてしまっていることをいろいろと思い出します。

妹とのお別れから10年が過ぎたころ、カウンセリングスクールの夜間の、カウンセラー養成講座の基礎科に通っていました。二人分労働のきつい日々でした。後期は特に授業が金曜日の夜にあったので、仕事を早目に切り上げてスクールに行くこと自体がすごくきつかったです。
それでもわたしがんばってしまいました。
母のこと、妹のことを受けとめられる自分になりたい一心でした。

レポートを読み返していて、授業の中で紹介された中井先生の著書の中の一文にすごく救われたことをあらためて思い出しました。


中井久夫・山口直彦著『看護のための精神医学(第二版)』(2004年発行、医学書院より)

「安定した看護、治療、相談は、「守秘義務をもった他人」だけができる。
家族だから話せることもあるが、家族だから話せないこともある。
どんな看護師も医師も自分の家族の治療はできない。
客観的にみることがむずかしいし、どこまでやったらよいという限度も、いつまで続くという限度もなく、十分すぎてあたりまえであって、足らないところは相手が責めなくても自分が責める」。

この一文を読んだときに、自分はこれでいいんだとはじめて思うことができました。
わかりやすく書かれているとはいえ、専門性の高い本なのでいまだに読み切ることができていません。
落ち着いてきたら、もう一度最初から読んでみようと思いながらずっときています。

『エリザベート』の思い出(2)

2015年02月21日 23時11分46秒 | ミュージカル・舞台・映画
「旅から旅へとさすらい、ウィーンの王宮に寄りつかない皇妃の不在は、子供たち、特に長男のルドルフには深い精神的な傷を与える結果になってしまった。ルドルフは母親に似て、感受性が鋭く、頭の回転の早い知的な青年に育っていたが、母親の愛情に飢えている孤独な青年だった。いつの間にか、父親の皇帝と政治外交問題で対立が深まり、父と子の相克は次第に抜き差しならないものになっていった。ベルギー王室から嫁いできた皇太子妃との関係もうまくいかず、二人の関係は冷え切ったものになり、たった一人の息子で、ハプスブルグ帝国の後継者であるルドルフ皇太子が心身ともに疲れ果て追い詰められていることに、エリザベートは気づかなかった。
 1888年のクリスマスの夜、さすらいの翼を休めにウィーンの王宮に戻った時、三十歳にもなる大の男のルドルフ皇太子が突然、母親であるエリザベートに抱きつき、大声をあげて泣き出した。あまりにも激しく、しかもいつまでも泣き止まないので、周囲の人々は感動し、もらい泣きした。
 エリザベートも思わず涙ぐんだ。それが永遠の別れの涙であることはそのとき誰も分からなかった。
 開けて1889年1月末、皇太子ルドルフが若い未婚の十八歳の男爵令嬢と心中し、命を絶ったという凶報がエリザベートを襲う。エリザベートは激しい衝撃と後悔の中で、はじめてルドルフ皇太子の心中を察したが、後の祭りだった。皇帝の配慮で彼女はルドルフの葬儀には出席しなかったが、深夜ルドルフが葬られたばかりのハプスブルグ代々の人々が眠る霊廟を訪れ、暗闇の中に蝋燭を灯し「ルドルフ、ルドルフ」と呼ぶエリザベートの声が暗い地下の墓所にこだまする光景は鬼気迫るものがあったと、霊廟の修道僧は書き残している。
 旅に明け暮れて一人息子の身近にいることができなかったエリザベートは深い後悔に苛まれたが、ルドルフ亡き後、彼女の魂にはどうにも埋めようもない孤独感と絶望感が深まり、この苦悩を絶つためにさらに強く死を望むようになった。こうして彼女のさすらいの旅への衝動はさらに激しさを増していった。」

(2000年東宝初演『エリザベート』のプログラム、
 塚本哲也「ハプスブルク家と皇妃エリザベート」より引用しました。)

東宝版『エリザベート』のオープニングは私にはかなりきついドキッとする演出です。
宝塚版では黄泉の国の帝王トート(ドイツ語で死の意味)が主役となって、エリザベートの愛をめぐって最後には皇帝と法廷で対決します。

息子の皇太子ルドルフもまた『ルドルフ・ザ・ラストキス』や宝塚でなんどか上演されている『うたかたの恋』では主役となってその人生が描かれています。
井上さん演じる『ルドルフ・ザ・ラストキス』を観た時には、この人が生きていたら世界はちがっていたんじゃないかと心から思ってしまいました。

宝塚の96年の雪組、99年の宙組、2000年の東宝初演のときにはなかった「私が踊る時」、
2000年の東宝版でしか聴けなかった「夢とうつつの狭間に」にもいい曲。リーヴァイさんの書かれる曲は耳に残ります。
いい曲ぞろいですが、トートとルドルフがデュエットする「闇が広がる」は、ひとつの大きな見せ場でしょうか。
父親である皇帝フランツ・ヨーゼフと対立して孤立していく皇太子ルドルフに、死の影トートが忍び寄っていき、ハンガリーの独立運動を先導してルドルフを破滅へと導いていきます。
宝塚版では、二人で銀橋を歩きながら、ロック調の曲にのってみせてくれます。

伏線はルドルフの少年時代に準備されています。
皇太后ゾフィから「子育てを任せてほしい」と子どもを取り戻しながら、エリザベートは一人あてのない旅を続けて宮廷には戻りません。
「ママ、どこなの、きこえてるの」母の姿を探し求める愛に飢えた少年ルドルフが冷たい部屋でひとり勉強しているところへ、トートが「友だちだ、呼んでくれれば必ずきてあげる」と囁きかけます。
宝塚では、当然ですが大人の女性が演じるのでちょっと違和感がありますが、東宝版では子役ちゃんが演じるので、少年の孤独感がよりリアルに伝わってきます。

皇太后ゾフィが亡くなってもエリザベートは宮廷には戻らず旅から旅への生活を送ったので、ルドルフは母の愛に飢えたまま大人になります。

96年の雪組公演でトートを演じた一路真輝さんが、東宝初演の『エリザベート』では、エリザベートをシングルキャストで演じられました。エリザベートってなんて勝手な人なんだろうって観客は思ってしまいます。その客席の思いを受けて立つという思いで演じたというインタビュー記事を読んだことがあると思います。かなりの体力がないとやれないですね。

ルドルフ亡き後のエリザベートのことなど書きたいですが、なんだかとりとめないですね。
2012年のガラコンサートのDVDを観たりしていると思いは尽きることなく続いていきます。
今日はここまでにします。


写真は2012年5月-6月の帝国劇場公演(げきぴあより転用しています。)


高島さんルキーニと清史郎君の少年ルドルフ




平方さんルドルフとマテさんトート




春はもうすぐ、かな・・・

2015年02月20日 21時23分59秒 | 日記
今週もまたなんとか終わっていこうとしています。
すごいマイナスエネルギーを受けてふらふら状態だったのが、ようやくもち直そうとしているところです。私なんとなく大丈夫なのかなあ、っていう確たる根拠はどこにもありません。
ただお気楽に勝手にそう思っているだけです。
アーティストの方が、私からみえてくる絵が雪解け間近、もうすぐ自由に行き来できるようになると言ってくださったのを信じようとしているだけです。
混乱はまだ収束しないし、もっと焦ってがんばって次のことも決めなければならないところですが、ずっとずっとがんばってきました。混乱のために極度の緊張状態で糸がぴいんと張りつめる日々をずっと過ごしてきました。
もう精一杯がんばったし、今やれる以上のことをやれないし、断捨離もまだまだですが進んできているので、ようやく呑気に息抜きもしています。
どっちゃりどっちゃり働いてきたので、少し許されるのかな・・・。

お話をさせていただくのに向けて資料をまとめようとして、21年の日々を振り返ってみると、日記や、カウンセリングスクールのレポートやら勉強の度に、すごい量の文章を書いていることに自分で驚いているこの頃です。
セミナーを聴講した時の記録なども全部私の財産なんですね。
いろいろとがんばってきたんだなあと、自己満足していても叱られてしまいますが、時系列に整理してみるとほんとうに心の中は揺れ動きつつ、なんとかここまでやってきました。
私がたどってきた個人史を社会に還元できる機会になればという思いでがんばろうとしています。自分で自分のことなのに、ここに書いたことなども読み返してはまとめ直していると涙出たりしています。思い返してみれば用意されている社会資源は少ない中で、カウンセラーの先生との出会いで救われ、書くことで自分の気持ちを整理してやってきました。
たどっているとやっぱり思いは尽きることなく、終わることはないんだなあと思います。





元気をもらっています

2015年02月19日 19時11分39秒 | 日記
http://ameblo.jp/ebizo-ichikawa/entry-11991126566.html

2月3日から18日まで、六本木のEXシアターで『地球投五郎宇宙荒事』という歌舞伎を上演していました。
海老蔵さんと獅童さんの主演に、清史郎君が一人で二役をこなして実質三番手で出演。
初日と千秋楽以外は、休演日なしの一日二回公演をこなして無事昨日千秋楽を迎えました。
連日海老蔵さんブログに、清史郎君の写真や動画がアップされて、ささやかな癒しと元気のもとでした。

歌舞伎役者さんたちの中に違和感なくとけこんで、初めてのことづくしの舞台をこなしていく表情からは、日々成長していく様子が伺えました。
千秋楽の表情は初日よりもきりっとしていて、さらに大人になった感じがします。
着物姿の所作もきれいで、海老蔵さんの弟子の市川鯛蔵と与駄をきちんと演じ分けて、客席とのアドリブも堂々とこなして、これからどんな役者さんに成長していくのか、さらに楽しみになりました。
真摯に一生懸命に仕事に取り組む姿勢は頭が下がります。


大人がくじけてはいけませんね。
心身共に消耗したエネルギーを補給しつつ、少しずつ動いています。
来月公的な研修で当事者として話をさせていただきますので、資料の準備も進めつつ。
あまり人に話すことなく、一人で20年どうやって向き合ってきたのか、時系列であらためて
振り返るいい機会です。一生懸命やろうとしています。
雪解けが近いことを信じつつ・・・。




「大草原の小さな家」への旅_5日目(カリフォルニア州)&帰国

2015年02月17日 20時13分53秒 | 「大草原の小さな家」への旅
4日目の旅日記は2013年9月14日に書いていますので、よろしかったらご覧ください。
まずは5日目に進んで行きます。

写真は、3日目に訪れたミネソタ州ウォルナット・グローヴの博物館のトイレの入り口のドアです。

「2013年9月8日(日)

薬を飲んで11時15分就寝。やっぱり一度は目がさめてしまった。
4時半頃目ざめる。

4:45 モーニングコール

5:45 ホテル出発。間に合った。

8:00 DL2088 ミズーリ州セントルイス発

10:12 ユタ州ソルトレイク着(時計がさらに一時間戻る)

11:31 ユタ州ソルトレイク発

12:12 カリフォルニア州ロスアンジェルス着(時計がさらに一時間戻る)

カリフォルニア州
サンタモニカ、ビバリーヒルズ、ロデオシアター、チャイニーズシアター、ダウンタウン等々。

途中、高速道路をあがったりおりたりしながらポイントをめぐってくれたようだが、朝早く
二回の乗継はハードでよくわからなかった。
(ドラマでローラを演じた)メリッサ・ギルバートの名前が刻まれた星形、
ハリウッドの文字、スターの手形とサインに少しばかり感動。
日曜日だからだと思うが、マイケル・ジャクソンやマリリン・モンローのそっくりさんがいあたり、色んな肌の色の人がいたりごった煮な感じ。
シリアの攻撃に反対する人たちもみかけた。
アカデミー賞授賞式会場は思ったほど尊厳な感じはなかった。
また訪れる機会はなさそうなので、一度来てよかったかな。
でも朝早くハードで集中力はとっくに切れていた。
疲れたー!

おそいお昼はサンタモニカでサラダとシーフードの串焼き、おいしかった。

ホテル到着後、夜は近くの日本食レストラン。おいしかったが疲れていたし、全部は入らなかった。長い一日だったー!!

太平洋岸の海は穏やかで美しかった。私には不似合いな感じだが、カナダのバンクーバーの海と繋がっているかと思うとしばし感慨深い。

ダウンタウンのヒルトンホテル泊。
12時過ぎに眠ったが、どうしても2時間おきに目がさめてしまう。きついね。


2013年9月9日(月)

6:30 携帯のアラームで起床。スーツケースの準備。間に合った。朝食をとる。

9:00 ホテルチェックアウト。空港へ。ガイドさんの解説をききながら40分ほどで空港へ到    着。チェックイン。」


写真は時々アップデートしていきます。