たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

夏空の下で_迷いの日々

2015年07月31日 16時44分23秒 | 祈り
一昨日は都心の分かち合いの会に参加させていただきました。人数が少なかった分、しっくりと深い時間になりました。私は自分のことを話すエネルギーがあまりないのかなと思いながらの参加でしたが、自死遺族という立場になられてまだ日が浅い方のお話をきかせていただいているうちに、私の体験が参考になればという思いが生まれて、妹とのお別れのことを話したくなりました。やはりどれほど時間がたっても、楽になることはできないのだと自分の中で確認しながらお話させていただきました。どうしてなのかはわからない、因果関係では説明のつかない、どうしてに対する答えを求めてもどこにもない。どこにもないまま、おろすことのできない十字架を背負って命あるかぎり、私は生きていかなければなりません。私が生きて妹が
教えてくれた生きることの深さを人に伝えていくことできっと妹も生きている。今も私の中で一緒に生きている。私はこういう人間なんだと人に伝えて、私は生きていくしかないのだとあらためて自分の中で確認しました。

こういう私は、利潤追求社会の中で、自分が選ばれる者になるために書類を作成してアピールすることがとても苦手です。もし選ばれる者になることができたとしても、なにかあれば対立しなければならない、闘いになっていくしかないということがわかってしまったので、虚しくてなりません。選別されること自体に本当は耐えられません。人を選別していく仕組みの限界を感じてしまいます。まだそこまで心のエネルギーが回復できていないのだと気づかされます。心身をすり減らして歯も眼もボロボロにして働いたのに、評価されるどころか権力に蹴散らされた傷は思いのか深かった。でも生活があるので何もしないでいても心が休まることはありません。どうにかしなければと、これからどう生きていけばいいのかわからないの間で、毎日揺れ動いています。生活の糧さがしとは別に、社会の中で大切な役割だと思うことへも気がついたら踏み出そうとしています。一年前には全く思いもよらなかったことでした。

妹は今の私を空からどんなふうに見守っていてくれるでしょうか。背中をおしてくれているでしょうか。ねえちゃん、こっちだよ。答えを教えてくれると助かるのですが、残念ながらあとできっと教えてくれたんだと思うだけで今はわかりません。

フォーカシング合宿で書いたレポートを以前ブログに載せていますが、今日はその頃の日記を振り返ってみようと思います。

「1996年2月11日(月)fine

3泊4日のフォーカシング合宿を終えて、まだ地に足がついていない感じだ。明日からまた普段の暮らしが始めることに抵抗感もあるし、実感が伴わない。が、なんとかわたしはやっていけるだろう。自分の中に確かなエネルギーを感じることができたのだ。

そう、評価も解釈もしない。流れのままに、自分にやさしく、わがままに、感じるままをことばにして、お互いを批判することもなにもなく、あるがままでいられた。
もちろん、最初は戸惑いもあったが、自分の身体をいたわりマッサージしてもらって緊張がほぐれてくると、気づいた時には身体の中にあるものをことばにしていた。本当に今までがんじがらめになって、頭の中だけで考えて無理してきたんだなあ、って身体の中で感じていた。

やさしくいたわってあげると、いちばん無理してる部分をさらに感じて、二度目のフォーカシングは辛かった。右の肩が痛くて痛くて、なのにどんどん左の方へも身体が引っ張られるようで、なおかつ頭は右の方へ行こうとしていて、首が三角になって、腰の負担はどんどん重くなってきて痛くてたまらなかった。
ぱたっと倒れてしまいたいのに、腰で必死にふんばった。きつかったよ。痛くて痛くてたまらないんだもの。右の方でひっぱっているものに、そのまま支えてほしかった。助けてほしかった。誰かが助けてくれたらどんなに楽だろう。助けてくれよう。

でもわたしはがんばった。そしたらお腹の中に、白い木が生まれたのだ。まっすぐに上にのびようとしている白い木-それは、わたしの中のエネルギーではないだろうか。

3回目、4回目も緊張していた。かまえていたのだ。が、身体をほぐしてもらって、休らかになってくると、なぜだかわからないけれど、涙が流れてきた。不思議だ。静かに心地よく涙がにじむ。わあっと、胸につかえていたものが、具体的なことばになってあふれてきてしまった。思い出すことはきつかった。けれど、わたしは向きあった。きいてもらっているという心地よさだろうか。

重いよう~、つらいよう~、わたしの中から、お腹の中からことばが上に向かってあがった。どんどんどんどん。なぜだか、いつも、妹の休らかな寝顔が頭の左上の方に浮かんでいた。だから、左の方へひっぱられるような、いやちがう、左へいきたがってたんだ。(なのに、右へひっぱれてていた。)呼んでいたのかもしれない。

わあっと泣いて、たまっているものを出し切ることなんて到底できないけど、でも、その時あふれたつらい具体的なものを、ことばにして出したら、気づいた時、私の中に海が広がっていた。お腹の中で、竹がぐんぐん伸びてくるように思えた。なぜだか、わたしは朗らかに笑っていた。

今日の5度目の体験で、さらにいいものをつかむことができた。頭がマッサージによってほぐれてくると、ランプのほのかな灯りが頭の中にともり、お腹には最初小さな木が生まれた。次に、わたしの身体ごと木になった。やがて、大きな枝葉が茂ってきて、幹からまっすぐに伸びたほどよい太さの枝、その両側にまた細い枝、いつしか赤いリンゴの実がなり、その甘ずっぱいリンゴを食べている後姿の女の子、足を伸ばして、空をみあげるようにしてリンゴをかじっている。それをみているわたし。

二人の間には確かな一定の距離がある。女の子はわたしに気づかない。けれど、わたしは女の子のエールを感じているのだ。やがて女の子は妹であることがわかった。ほほえんでいた。やさしく。やがて、妹の顔は風船の中に浮かんでいることがわかった。ゆらゆらと。糸が切れていて、わたしはそれをつかむことができない。つかめないとわかっているから、つかもうとしない。ただ、声がきこえた。おねえちゃん、がんばって、なんにも気にすることないんだよ、って、そう言っているように思えた。そう、ききたがってるからかもしれないけど、そうきこえた。

やがて、風船からキラキラ光る星くずがあふれてきて、わたしに向かっている。わたしはそれを全身で、すっくと受け取めようとしているのだ。わたしの中に、足から頭の方にまっすぐな線を感じた。
受け取めようとする線が・・・。

忘れないと思う。
わたしの中には、木がしっかりと生えている。上に伸びていこうとする木が・・・。
つかえているものは、そのままにちゃんとある。それを抱えていくのはとてもきつい。けれど、どちらをもそのままに受け取めて歩いていけると思う。わたしの中に、右足をひきずりながら、がんばって歩いてるわたしがみえる。いいじゃないか。わたしの中には、木が根付いているのだ。

明日から、なにかが急に変わるわけではない。いつもの暮らしが始まるだけだ。けれど、自分を身体で感じたこと。本当に自分の身体に耳を傾け、その中にあるものを感じることが少しわかってきた。本当に中にあふれているもの-をつらい時には思い出そう。深呼吸してみよう。
すぐにはまだ冷静にかけないものもある。
今日はこれまで・・・。
完ぺきを求めるとつらいよ。」


長文におつきあいいただき、ありがとうございました。

卒論の指導(第六回目)

2015年07月30日 14時10分58秒 | 卒業論文
職場はガタガタガタガタと混乱するようになりました。2003年の春のことでした。なにかおかしいな方向へと進もうとしていることを感じながらも、卒論を書き始めようとしている今仕事を変えるのは得策ではないと考えて、就労を継続する道を選んだ私は、ずいぶん翻弄されました。行き当たりばったりのやり方の中で、人が入れ替わったり減らされたりする負荷を部署の中で全部背負うことになりました。

それでも、私は職場では一切何も言わずに論文の執筆をスタートさせました。よくがんばりました。こうして振り返っていると色々と思い出されてきます。細かい光景の一つ一つを私の体が今でもよく覚えています。それだけ大変な毎日でした。提出期限の11月末が迫ってきた秋頃になると、削ることができるのは睡眠時間しかないという思いで、職場では残業を続けながら、途中で食事をして帰宅すると毎晩遅くまでパソコンに向かいました。休日だけではとても間に合いそうになかったのでやるしかないという思いでした。無理をしていることが如実に体調に現れているのがわかっていましたが、終わりが決まっていることなので仕方ないとしてやり抜こうと思いました。

「8月10日時点で第4章と第5章を書き進めています。第一章を読み返して、図表の通し番号の間違いに気づき修正中です。修正が終りましたら、コピーを送らせていただきたいと思いますので、御指導をよろしくお願い致します。
書き始めるのが少しおそかったと反省しております。
最後までなんとか書き上げたいと思いますので、よろしくお願い致します。
卒業後は、大学への編入学、または大学院入学を視野に入れております。
あわせて御相談させていただければと考えております。」


提出期限の11月末(消印有効)は日曜日でした。前の晩から徹夜して書き上げた膨大な量の論文は、4冊に分けて簡易製本した上で、郵便局から荷物として大学宛に送付しました。やり遂げたという満足感と虚脱感の中で卒業が認められればすぐにも次の勉強を始めたいと気持ちだけが流行っていましたが、結局カウンセリングスクールに通うようになったので大学院には進みませんでした。

10年以上前にこうして苦労して卒論を書き上げたことが、ようやく今になって意味をもってきているのかもしれません。大きなことは10年ぐらいのスパンで辻褄があってくるものなのでしょうか。わかりませんが、この論文を書いたことで今自分が動いていることの社会の中での意味も理解することができます。必然だったのかもしれません。わかりませんが・・・。

卒論の指導(第五回目)

2015年07月29日 16時44分01秒 | 卒業論文
2003年5月の指導に向けて、この個別調査票を書いたのは2月の終わり頃だったようです。
職場の目先のことだけしかみていない、場当たり的な対応に大いに振り回されるようになり、また本来私の責任ではないはずのことが私の責任にされてしまったようなこともあり、この機に去るべきかどうかも含めてかなり悩んでいた頃でした。
ドタバダとさんざん振り回されたあげく、過重労働が始まるに至る一連の細かい経緯は、今も鮮やかに私の中によみがえってきます。日々の忙しさの中で、長い間すっかり忘れてしまったいましたが、ずっと感じ続けた、何かかがおかしい、という違和感を体がちゃんとおぼえているせいか、記憶の糸をたどり直すと、次から次へと色々なことが思い出されてきます。大変な日々でしたが、その後さらにどんどん大変になっていきました。

この頃結果的に去るという選択をしなかったことが、私の人生の中で正解だったのか、不正解だったのか、これからどう生きていけばいいのか迷いの中にいる今はまだわかりません。
ただ時間は過ぎてしまったので、職場を去るという選択をしなかったことを今さら悔やんでも仕方ありません。
こんな内容の論文を書こうとしていながら、この頃には全く予想だにしなかった出会いの中に現在(いま)いることを思うと、なんとなく現在の状況が結果的に必然だったようにも思えて、どうすることが私にとってよかったのか、長い人生の中で考えると本当にわからないのだと思います。生きることはむずかしいです。


インタビューしたいと考えていたことなど自分でもすっかり忘れていました。職場に大いに振り回されるようになりながらも、抜き書きカードを整理しつつ、休日に論文の執筆を始めようとしていました。精一杯でしたね。試作途中のものを載せてしまうのは、おはずかしいかぎりような感じもありますが、書き始めてしまったのでそのまま載せようと思います。卒論の指導は六回まで続きました。


「前回提出しました章立てに基づいて、抜き書きカードの作成を進めています。膨らんでいくばかりで切りがありませんので、そろそろ区切りをつけなければなりません。3月上旬を目途に、集めたものを整理しながら、書き始めてみようと思います。
インタビューにつきまして、こちらからお願いしておきながら、なかなかご連絡をさしあげずに、大変申し訳ありません。
現在インタビュー内容を下記のように考えています。
若い女性の二極分化傾向・新専業主婦志向の裏付けがとれたらと思います。
非常につたないものでありますので、御教示願えればと思います。

・「OL」からイメージする働く女性像。
・「キャリアウーマン」からイメージする働く女性像。
・女性が職業をもつことをどう思うか。
 (結婚するまで働く/子供ができるまで働く/子供ができても働く、
 の選択肢から)
・就職するにあたって総合職を選ぶか、それとも一般職か。
・自分の将来像(人生のプログラム)を描いているか。
 (人生80年と言われている。それぞれの年代にしたいこと、
 またしなければならないと思うことはあるか)
・自分の将来像を描いているとすれば、誰を手本としているか。

また、女性の生き方の多様化を裏付ける意味から、自分はこうしたいという意志をもち、女性の活躍できる空間を求めて挑戦する「OL」へのインタビューを身近なところからとれたら、と考えています。」

『エリザベート』四度目の観劇_生きることは闘い

2015年07月28日 23時34分38秒 | ミュージカル・舞台・映画
「1858年夏、シシーはお産の前の数日をさわやかなラクセンブルクで過ごしていた。ところが出産は予定日より早まった。8月21日の午後、急に陣痛が始まったのである。大至急ウィーンのフランツ・ヨーゼフと大公妃に知らせが送られた。
 (略)
 その15分後、扉が中から開いて大公妃がそっとささやいた。「男の子ですよ、フランツ・ヨーゼフ」
 「大丈夫でしたか」これが皇帝の第一声。待望の世継ぎが生まれた、ということはとっさには意識にのぼらなかったのだ。
「母子とも無事です。難産だったからシシーはだいぶぐったりしてますが、もう入っていいでしょう」
 入ってみると、シシーが憔悴しきっているので、フランツ・ヨーゼフはぎくりとした。おずおずとシシーがかぼそい声で尋ねた。「また女の子だったの?」
「ちがうよ、シシー、男の子をさずかったんだ」
 (略)
フランツ・ーゼフは、皇位継承者ができて喜びもひとしお、その若い母親に世界中の宝石を贈ってやりたいほどだった。皇太子誕生の報は国中で熱狂的に迎えられた。気前よく施し物が配られる、との期待からである。フランツ・ヨーゼフの見るところ、息子は格別美男子というわけではないが、まるまるといかにも丈夫そうだった。誕生第一日目にして早くも、彼は息子のルドルフを陸軍大佐に任じた。洗礼にさいしては、“金羊毛皮勲章”をその揺りかごに入れ、誇らしげに告知した。「われは欲するものなり、神の恩寵によって賜った男子が、この世に参入する日よりわが勇敢なる国軍に所属せんことを」
 (略)
 ルドルフが成長するにおよび、(息子がのちに欲するかどうかもかえりみず軍人になるよう定めた皇帝の)専断はしばしば父子論争のきっかかとなる。」

(マリールイーゼ・フォン・インゲンハイム 西川健一訳『皇妃エリザベート』295-296頁より。)


 『ルドルフ・ザ・ラスト・キス』のプログラムに掲載されている少年ルドルフの表情は、孤独の中を漂っているように見えます。瞳がすごくさびしそうです。誕生した、その時父フランツは目に入れても痛くないほどの歓びにあふれていただろうに、親子のすれ違いの伏線はすでにひかれていました。それは、結果的にあとでそういうことだったのだと気づくことしかたぶんできない。気づいた時にはすでに間に合わない。親子だからこそ、家族だからこそわからない。結果的に息子の方が先に旅立っていくことになってしまった。それは結果でしかない。誕生した時にそんなことを望んだはずはないし、そんなことを想像することすらできなかった。ハプスブルクの未来の皇帝として、ルドルフが自分で選び取ることができなかった運命、あがない切れなかった運命。

 少年ルドルフが手にする銃は、2012年の公演ではおもちゃのようなものだったと思います。孤独な少年に、「呼んでくれれば来てあげる、必ず」と忍び寄ってきた死の影トートに向かって、少年ルドルフが「ほんとう?」とおもちゃの銃を向ける演出でした。今回は、孤立無援となった青年ルドルフがトートから手渡されるのと同じ銃を少年ルドルフがトートダンサーから手渡されます。銃に魅せられる少年ルドルフに寄り添い、髪をなでおろすような仕草をしながら、トートは冷たく不気味に微笑みかけます。少年時代にすでに死の影が忍び寄り、ルドルフ自身からトートに微笑みかけていることを暗示している場面だと思います。流れがわかりやすくなったといえばなりました。

 この日も子役ちゃんはエンジェルボイス。歌がうまい。小柄でひ弱な感じがよく出ていたと思います。母の姿を一生懸命に探し求めているのに会うことは許されませんでした。観ていて辛いものがあります。

 シシィが旅に明け暮れている間に深まっていった父子の溝。古川さんルドルフは、涙と汗をあふれさせながらの熱演でした。2012年の舞台でもビジュアルが美しい方だなと思いましたが、『レディ・ベス』のフェリペ王子役を経て、さらに美しく孤独なルドルフでした。軍服の着こなしがきれいです。この日はダンスの切れもいっそうよくて体がよく動いている感じがしました。京本さんルドルフを前日に観た後で、より強い古川さんルドルフを感じました。自分の意志があるのに、考えを持っているのに、想いがあるのに、皇太子という立場であるために身動きとれない苦悩。すごく、むずかしい役どころなんだろうなとあらためて思いました。

 「闇が広がる」で、井上さんトートと古川さんルドルフの声が今一つ聴こえない感じがあるのは、影コーラスがかぶり過ぎているからなのかな。ちょっと残念です。もう少し強く二人の歌唱で聴きたい感が残ります。トートが追い詰めていこうとするように立膝をたてながら鋭いまなざしでルドルフにせまっていくシーンは、毎回印象に残ります。

 トートから銃を手渡されたルドルフが、自らトートに口づける場面をプレビュー初日に観た時は、帝国劇場中が驚いた感じでした。三度目の観劇の時の京本さんルドルフもそうでしたが、井上さんトートは長い時間おでこをくっつけてルドルフと見つめ合うようになっていました。トートの瞳の中に何をみて、何を思ったか。ルドルフは引き金をひいて自ら旅立っていきます。

 ルドルフが母に助けを求めてきたとき、すでに人生に疲れ切ってしまっていたシシィは、政治の話はもううんざりといった表情で、ルドルフのもとを立ち去ってしまいます。「ママも僕をみすてるんだね」。ルドルフの声は、魂がぬけていったように力がなくなっていき、崩れおれます。

「ママは自分を守るためあなたを見捨ててしまった」。棺の上で泣き崩れて、トートの影を感じると「早く死なせてほしい」と頼むシシィを嘲笑うかのように拒絶するトート。自分を責めるシシィの姿に毎回私自身をどうしても重ね合わせてみてしまうことは、何回も書いているのでここでは書かないことにします。年老いてきたフランツはシシィに手を差し伸べて支えようとしますが、シシィは気づいているのかいないのか、一人ふらふらと彷徨うようにルドルフの眠る棺へと向かっていきます。

 生きることは一日一日が闘いで、こうして生かされていることが奇跡の重なりあい。生きることはむずかしくて、みんな精一杯与えられた命を生きていて、誰が悪いとか何が悪いとか、因果関係で説明がつくことばかりではない。幾重にもより糸が折り重なったような、そんな生きる、ということ。

 ラストで喪服を自ら脱ぎ棄ててシシィが少女時代の笑顔に戻り、自らトートに口づけて一人旅立っていくのは、精一杯生きてきたから、闘い抜いたからの、くしゃくしゃな笑顔。

 四度目も色々と自分の中の思いを重ね合わせながらの観劇でした。カーテンコールのシシィとトートは、プリンセスとプリンスの笑顔。井上さんはすみからすみまでエスコート役に徹していて美しいです。重い作品の最後に救われます。花ちゃんのお辞儀の仕方は、宝塚で10年以上娘役として舞台に立っていた人の美しさと貫録にあふれていて素敵です。

 この日は、ハンガリーに連れて行った長女のゾフィを亡くしたシシィに、トートが忍び寄って、「早く認めるんだ、俺への愛を」とささやきかける場面も印象に残りました。同じキャストでも観る旅に印象が変わるので、一回一回大切に観たいと思います。


皇妃エリザベート (集英社文庫)
マリールイーゼ・フォン インゲンハイム
集英社

卒論の指導(第四回目)

2015年07月27日 16時50分59秒 | 卒業論文
第四回目の指導に向けて、個別調査票にこんなふうに書いていました。2002年10月のことでした。

タイトルを、先生に助言をいただいて、「職業観と生活観についての考察」から「女性の職業観と生活観についての考察-自己実現をめざして-」に変更しました。章立てが出来上がり、抜き書きカードを順番に参照しながら、頭の中で流れを組み立てて執筆を始める準備は整いつつありました。それでも、私は慎重になっており、書き始めるまでにもう少し参考資料を集めたいと欲張っていた覚えがあります。どこまでやっても切がつきそうにありませんでしたが、私は欲張ろうとしていました。

思い返すと、職場の中は少しずつ何かおかしい感じになりつつありましたが、それでもまだ余裕があり、むしろ楽しかった思い出があります。正規の一般職の女性がこの頃はまだたくさんいたので、その後気がついたら非正規ばっかりになった時のギスギスした感じはありませんでした。非正規が増えてくると、外から見れば同じように仕事をしていても、目には見えない、とても言葉では表現しづらい区別が幾重にもはりめぐらされている中で仕事をすることになり、ギスギス感と息苦しさが増していきましたが、この頃はまだ平和でした。それでも、自分が膨大な量の抜き書きカードを作成しないではいられないほどの怒りをすでに感じていたことに、こうして振り返ってみて自分で驚いています。


「参考文献資料の収集はほぼ終わり、抜き書きカードを作成しながら章立ての作成を進めています。前回指導をいただいた折から下記のように少し変更追加をし、現在下記のように整理しています。

・性別職務分離の状況
   女性労働者の分布
   (事務職は女性労働者の最大勢力)
   M字型雇用
   労働市場の性的な職種分離
   非正社員の増加
   賃金格差
   会社員が男と女に性別化されること
   あるOLの退職(ライフヒストリーの紹介)
   
・日本的経営と女性労働 その歴史の概観
   戦後の労働基準法
   高度経済成長
   事務従事者の増加
   サービス経済化
   低成長期
   主婦の賃労働者化
   不安定雇用者の増加
   雇用形態の多様化
   派遣社員
   雇用機会均等法の成立
   管理職は7%
   雇用均等法改正

・日本的経営
   日本型雇用慣行
   会社人間
   日本型能力主義
   日本的経営の「合理性」
   日本型資本主義の功罪
   家族賃金
   女性差別
   雇用調整機能を果たす女性労働
   日本型福祉社会

・OLという存在
   多数派ノンエリート
   非差別者の自由
   二極化
   「OL」の誕生
   OA化とOL
   会社妻としてのOL
   「女の子」としてのOL
   OLに求められる役割
   ジェンダーの落とし穴
   性のステレオタイプ
   構造的劣位の優位性
   協調的抵抗と抵抗的協調
   受身の仕事態勢
   優先順位決定権の掌握
   ボイコット
   人事部への通告
   抵抗行為の限界・制服

・帰路に立たされる女性
   企業と女の友情
   OLの上下関係(四つの指標)
   転機がおとずれる
   転職・シンデレラコンプレックス
   35歳は女の転機?・結婚
   モラトリアム・自己実現と現実の間
   
・新しい職業観の可能性をさぐる
   労働の意味を問う
   余暇と労働
   生きがい・自分さがし
   人間の条件としての職業
   
・女性の生き方は変った」


 本来は人に読んでもらうようなものではないものを書いているのかもしれませんが、自分の気持ちに本当に区切りをつけていくために書いています。会社に対してすごく疑い深くなっているので、何を信じていいのかわからず、次といってもなかなか難しいものだと感じています。そんなこといつまでもいっていられないので、公的プログラムを利用申請しましたが、公的機関を信じることができていないので難しいのかもしれません。卒論指導は六回まで受けました。平日はフル稼働していたこともあり、時間をかけました。

観劇日記も書きたいですが、また後日。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

卒論の指導(第三回目)

2015年07月26日 15時20分30秒 | 卒業論文
三回目の指導に向けて、個別調査票にこんなふうに書いていました。2002年5月のことでした。休日になると、参考文献の中から気になる箇所をひたすらカードに抜き書きしていました。この頃はパソコンをまだ使っておらず、カード作成には手書きと、弟からゆずってもらったワープロを使っていました。カードは膨大な量になっていきつつありました。カードを何度も読んでは並べかえていくことで章立てをしようとしていました。職場は大変でしたが、後に思えばまだ嵐の前の静けさでした。

指導していただいた先生は、私に膨大な量の卒論を書かせた源は怒りだと後に仰られました。
私自身は気づいていませんでしたが、こうして読み返してみると、自分の書いたものながら、全体に怒りのエネルギーがにじみ出ているなあと感じます。私が職場で本当に振り回されていく日々がやってくるのは章立てを終え、パソコンを購入して執筆を始めた頃でしたが、すでに男性中心の職場の中で、家事労働的な業務に対する疑問のような、女性蔑視的な空気感に対する疑問のような、自分自身では感じていなかったけれど怒りのような、そんなものが私の中に湧いていたことを感じます。

過重労働をこなしながら、最終的に論文を仕上げたのは、2003年度に卒業するための提出期限ぎりぎりの2003年11月末のことでした。執筆開始と過重労働がふりかかるようになってきたのは同時期だったと思います。職場で残業し、どこかで食事をとってから帰りの電車の中で睡眠をとり、帰宅すると夜の10時ぐらいからパソコンに向かって二時間ほど集中し、終わるとお風呂と睡眠。毎晩2時頃就寝するというサイクルを平日は繰り返しました。ストレス解消に週に一度は、残業後でもスポーツクラブに寄って体を動かしていました。よくやったもんです。それだけのエネルギーは今はありませんが、誠実な怒りのエネルギーをもち続けることはこれからも大切にしていきたいと思います。


「近年、女性のライフサイクルとライフコースは多様化している。戦前の、結婚して子供を産み育てるという性役割と共に一生を終えた女性のライフサイクルとは大きく異なり、性役割という観点からだけでは女性のライフサイクルは説明できなくなっている。シングルで働き続ける女性、結婚、出産後も働き続ける女性、子育て後に再び働き始める女性が増え、職業との関係を抜きにしては、女性の人生を語ることはできなくなっている。職業活動は、女性のアイデンティティの中核をなすものとなってきている。

 しかし、現実に日本の企業における女子労働者の位置づけは若年短期補充労働力であり、男性は仕事、女性は家事を担うという性別役割分業を前提とした使い捨ての「モノ」扱いである。女子雇用者の3人に1人以上が事務従事者であり、女性は男性の補助として働くというパターンが日本の企業で徹底している。働く女性の代名詞ともなった「OL」が現実の職業生活において行っていることは、たいした技術を必要とせず、また成果がかたちで残るわけでもない補助的な仕事である。実に様々で細々とした「雑務」をこなさなければならない「OL」に求められているのは基幹的な作業を担う男性や上司の補助をする「女房」的役割であり、自分の位置を見失いやすく、疎外が起こりやすい。「OL」の現実の職業活動は、社会の中で積極的に意味のあることを自分たちのため、世の中のためにやっているのだという働く人間としての実感と納得が得られにくいものなのである。

こうした「OL」の立場から、働くことは現代を生きる私たちにとってどのような意味をもつのか、アイデンティティの形成にどのような役割を果たしているのか、働き甲斐をどこに見いだせるのか、組織の中でどこまで個性の発揮を実現できるのか、真の幸福とは何か、フロムのいう「あること」とはどういうことなのかを、女性の自立を軸に考えたい。

 戦後の日本における女子労働をめぐる問題の視点を下記のように分類してみた。
①高度経済成長と近代家族の形成/日本型雇用慣行の成立
②事務職従事者の増加/「OL」の存在
③根強い性別役割分業
④主婦の賃労働者化
⑤不安定雇用者の増加/パートタイム労働/派遣労働
⑥職場における家事労働(評価の対象にならない雑務)
⑦男女の賃金差
⑧構造的には弱い立場にある筈の「OL」が強くなること。
⑨制服」

『エリザベート』四度目の観劇_生きることは切なく

2015年07月25日 14時49分27秒 | ミュージカル・舞台・映画
連日エリザベートが熱いですね。つたないものを読んでいただき、ありがとうございます。

7月20日(月)、夜の部(17時30分-20時40分)。満員御礼。

エリザベート:花總まり
トート:井上芳雄
フランツ:田代万里生
ルドルフ:古川雄大
ゾフィー:香寿たつき
ルキーニ:山崎育三郎
少年ルドルフ:大内天


プレビュー初日以来のプリンシバルキャスト。
子ルドは三人ともあたりました。


19日(日)の観劇後、ゆっくりとお茶を飲みながら購入したばかりの舞台写真付きの本を読んでから、帝劇の地下から地下鉄に乗ろうとうろついていたら、トートダンサーのお一人と思われる方をおみかけしました。お疲れの様子でしたが、20日(月)はまた美しいダンス。
トートダンサーは8人いらっしゃるのでなかなか見分けられません。
舞踏会でシシィと踊る乾さん、フランツと踊る小南さん、
ルドルフを抱きかかえて棺に運ぶ田極さんはわかるようになりました。


色々と思いはやはり尽きることがないですが、印象に残る場面、まずはバートイシュルで、姉のヘレネに付き添っていっただけのつもりのシシィが、鹿を見つけると「鹿、鹿」と追いかけながら白いドレスをたくしあげてはしゃぎまわっているところでしょうか。

この場面、宝塚では、鮮やかなブルーのドレスを着て、「暑いったらありゃしない」という台詞がありました。東宝では台詞はありませんが、帽子で仰ぐしぐさとニヒヒ、イヒヒといった感じの笑顔で、とても自然に表現してくれています。
無理に創り上げているわけではなく、本当に自然に10代の少女にみえるのだから不思議です。

フランツの放った鉄砲の音に驚いたシシィは、フランツをまっすぐな瞳で見つめます。
「やあっ」と言葉をかけたフランツは、シシィと目があったその瞬間、シシィを好きにならずにはいられませんでした。シシィは「やあっ」に、手を振ってはしゃいでいます。
それからフランツは、ニコニコニコニコとお見合い相手のヘレネではなく、シシィだけを見つめ続けています。その笑顔の優しいこと。
フランツが自分だけを見つめていることに全く気づいていない様子のシシィは、マカロン頂戴といったしぐさをしたり、ヘレネの腕のリボンがとれてしまったのをつけてあげたり、足をバタバタさせたり、そしてフランツがダンスを誘う段になると、ヘレネに、姉さん大丈夫よ、がんばってね、といったしぐさをします。
フランツがヘレネではなく、自分の前に立ち止まって手を差し出すと、一瞬驚いた表情になり、戸惑いをみせます。そして、フランツの「君がいい」という優しい声に、シシィの中にもフランツへの想いが生まれてきます。その移り変わりをこまかく丁寧にみせてくれています。

二人で手を取り合いながら、「あなたが側にいれば」を歌っている時、演じている花總さんの瞳には、生き生きとした笑顔の中で、ほんとうに涙があふれているんですね。
フランツを好きになった想いを全身で体現していて、田代さんもシシィへの優しさを全身で体現しているので、微笑ましかったです。それだけにいっそう、晩年の二人の「夜のボート」が切なくてなりません。史実でも、シシィは、「フランツが皇帝ではなく仕立て屋さんだったらよかったのに」と言ったとか。
フランツが一目でシシィを好きならずにはいられなかったことに説得力がないと、その後の展開にも説得力がない作品なんだとあらためてわかりました。

シシィ「馬に乗りましょ、世界中旅をするの、自由に生きて行くのよ」

フランツ「皇帝に自由などないのだ、義務の重さに夢さえ消える」

シシィ「夢はそこに」

フランツ「小さな幸せもつかめない」

シシィ「私がつかめる」

フランツ「皇帝は自分のためにあらず、国家と臣民のため生きる、 皇后にも等しく重荷が待っている、それでも君がついてこれるなら嵐もこわくはない」

二人で「二人寄り添えれば全てを超えることができる」

シシィ「勇気を失い、くじけそうな時もあなたが側にいれば」

記憶で書いているので正確ではありませんが、こんなふうに歌われていました。


晩年の「夜のボート」になると、同じメロディラインで想いあっているのに寄り添うことができないすれ違いが歌われます。

シシィ「愛にも癒せないことがあるわ」

二人で「すれ違うたびに孤独は深まり、安らぎは遠く見える」


2000年の初演で、高嶋さんルキーニが「本当の話、シシィはものすごいエゴイスト」と歌った時は衝撃でした。宝塚ではデフォルメされた感のあるところが客席に生々しくせまってきました。2000人の観客がシシィってなんて勝手な人なんだろうっていう空気感になるのを、跳ね返そうとする強さを一路さんシシィはもっていました。強く孤独に全身をはって生き抜いた悲劇的な皇后。(細い体で、トートがダブルキャストだったのに対して、シングルキャストで演じきられました。その時代の「私だけに」。)

15年の時が流れ、社会も移り変わり、観ている私自身にも色々なことがあった現在(今)観ているシシィは、ただ自分勝手というよりは、孤独の中で、無理矢理人に迎合するのではなくひたすら自分を信じて歩み続けた女性という印象になりました。
「私だけに」がもつ意味が同じ歌詞なのに、今回の舞台で変わったと思います。
女性の体をまだコルセットで強く締めあげていた時代に、「私が命委ねる、それは私だけに」
と自分の生き方を貫いたのだからすごいことだと思います。

シシィの歌には、「自由」という言葉が繰り返し出てきます。
本当に自由に、ジプシーのように、気まぐれに生きていくことは、現実に私たちにものすごくむずかしい。どこまでいっても憧れ。生活していかなければなりません。

精神病院を訪問したシシィが、自分をエリザベートだと思っているヴィンデッシュ嬢に「あなたの魂は自由よ」「あなたの方が自由よ」と語りかける場面。
今まではヴィンデッシュ嬢の体を、最後は身動きとれなくなるようにしていたと思いますが、
シシィとスカーフでつながりながら、最後はシシィに優しくスカーフで巻かれて抱かれるという演出に変わりました。
耐えがたい孤独の中で自分が生きていることを、ヴィンデッシュ嬢との対面で思い知らされたシシィは、「闘い続けて手に入れたものはなに」と打ちひしがれたように歌います。何も持たないヴィンデッシュ嬢とコルセットのドレスで体を締め付けているシシィ、二人の女性の対比は、シシィの孤独をより深く感じさせます。

自分の命を精一杯生き続け全うした女性が、最後に少女時代に戻って天に召されていく、
トートに見守られながら、一人で旅立っていく。最後は二人で手を取り合いながら昇天していく宝塚版と一番大きく違うところです。

フランツもまた、自分が生まれながらにして与えられた、自分では選び取ることのできなかったハプスブルク帝国を守り抜くという役割を全うするためには、シシィに「皇后らしくするんだ」「皇后教育、学ばなくては」と言わなければならなかった、苦悩の中で生きていました。


「ハプスブルク家の皇妃としての伝統。それは、常に美しく立ち振る舞い、国の威信をしっかりと守り、そしてそれを人々に示し、次々とこどもを産み、年老いたり病気になった親戚や役人、宮廷奉公人の世話をする。これが大公妃ゾフィーが強要した仕事だった。しかし、エリザベートにはこのような生活は到底受け入れられないことであった。

ヨーロッパの伝統を一心に背負う、堅苦しい宮廷での生活の中でも、フランツ・ヨーゼフとエリザベートは深い愛情によってむすばれていた。まわりの干渉が激しかったにも関わらず、二人の関係が良好であったために、二人はさまざまな障害が降りかかってきても、それを乗り越えることができた。」
 (2012年『輝ける皇妃エリザベート展』公式カタログより)。


人はみんな一人で生まれて、最後はいつかみんな一人で旅立っていかなければなりません。
何が悪いとか誰が悪いとかではなく、誰も悪くない何も悪くないのに、なぜ?どうして?の答えを探し求めても、どこにもないまま、想いが届けられることのないまま、この世にいる間与えられた命を精一杯生きていかなければなりません。
フランツもシシィもそれぞれに精一杯生きて、神様から与えられた自分の役割を全うして生き抜いたと思います。
想いあっていても二人で一つではなく、人はみんな一人。だから、シシィの最期は一人で、「私の命委ねる、それは私だけに」。


こんな強い女性になりたい。自分のしてきたことの、社会での位置づけがようやく確認できるようになってきたので、だいぶ回復しては来たものの、心の井戸がまだ枯渇しているのを感じるこの頃です。心の強さを取り戻していきたいと思います。
生きることは毎日が闘いで切ないもの。こうして一日一日を生きぬことができているのは、当たり前のことではなく奇跡の重なりあい。命ある限り先に逝った人たちの分まで生き抜いていくのが今を生きる私たちの役割なんだとあらためて思います。


ゾフィーの孤独と厳格さもさらに増していました。
「義務を忘れたものは滅びてしまうのよ」。この言葉にゾフィの全てが込められていると思います。フランツに双頭の鷲の紋章を指し示しながら言い聞かせようとしますが、母の行動(娼婦たちを招いたこと)に怒りを露わにしているフランツは背を向けます。
フランツのため、大帝国を守っていくために、「優しさよりも厳しさを」もって、心を鬼にしてやってきた、信念を貫いてきたゾフィーの旅立ちを、羽を付けたトートダンサーがやってきて見送ります。香寿さんの老けぶりが芸達者で、この場面に共感をおぼえて意外と好きだったりします。

古川さんルドフルのことなど書きたいですが、また次回にします。
何度観ても見逃せないところばかりできりがありません。

いろいろと書きたいことがあふれていて、止まらなくなっているこの頃です。

写真は東宝の公式ツィッターよりお借りしました。



卒論の指導(第二回目)

2015年07月24日 17時50分08秒 | 卒業論文
第二回目の指導に向けて、こんな個別調査票を書いていました。2001年10月のことでした。
休日に図書館で借りた絶版の参考文献を、住まいの近くのコンビニで何時間もかけてコピーしていました。せっかくの休みの日に自分はなにをしているのだろうと涙が出るような思いでやっていたことを思い出します。コピーしたものを職場に出入りしていた印刷業者に渡して製本を依頼したりしていました。
振り返っていると色々とよみがえってきます。なんかおかしいぞ-怒りの感情を内に閉じ込めめながら仕事をしていた過重労働の日々が始まる前の、まだ序の口の、その後の、心身がすり減っていくような日々を思えばわりと穏やかな頃でした。
毎日実感していた諸々を論文として体系化していこうとしていました。本当の意味で学びだったのかもしれません。せっかくコピーした大量の参考文献を、いまだに全部読み切れていません。現在(いま)読むとさらに実感として深く入ってきそうなものばかりなので、読みたいと思っています。


「職業活動は、現在の社会生活を支えている中心的なものである。私たち一人一人は、一定の労働分野に従事し、そこから得られる報酬によって、衣食住の基本的なものから、娯楽・教養などの文化的な面に至るまでの生活を営んでいる。と同時に、私たち一人一人が従事している労働が他の人々の同じような生活を支えている。つまり、現代の生活は、分業の原則に貫かれた職業活動によって支えられている。現代社会において生活していくということは、この一定の秩序をもった社会体型の要素である職業に従事し、そうすることによって、自分の生活の手段(収入)を得ると同時に、他人の生活手段を生産しているのである。もともと、職業活動というものは、私たちの先祖にあたる人間が、生活の便宜として採用した労働組織化の一形態にあって、関心の焦点は、常に人間の幸福な生活にあったのであった。

 しかし、高度に組織化された現代社会においては、一人一人の労働力は「物化」し、労働における疎外が起こりやすくなっている。幸福のための職業活動が、現実には、この世の中で積極的に意味のあることを自分たちのため、世の中のためにやっているのだという、働く人間としての実感と納得が得られにくくなっている。こうした点をふまえて、働くことは現代を生きる私たちにとってどのような意味をもつのか、働き甲斐をどこに見い出せるのか、組織の中でどこまで個性の発揮を実現できるのか、真の幸福とは何か、こうした問題を、いっしょくたに「女の子」として扱われやすい、機械的に正確に事務処理をこなすことを要請される、いつでも取り換えのきく労働力たる「OL」の視点から考察してみたいと思う。

 現在、項目別の文献リストを作成しつつ、文献資料を収集する作業を行っている。女子労働の現状を調査した資料も何点か収集済みであり、とりわけ事務職に従事する女性の現状を捉え、職場において自己実現の困難な「OL」にとっての働くことの意味を探ろうとしている。」

卒論の指導(第一回目)

2015年07月23日 19時06分03秒 | 卒業論文
卒業論文を書き始めるまでの過程を振り返ってみようと思います。
第一回目の個別指導に向けてこんな個別指導調査票にこんなふうに私書いていました。
2001年5月のことでした。
タイトルは「職業観と生活観についての考察」としていました。ここに「女性の」が加わっていくことになります。
よろしかったら読んでください。

 

「私たちは、日常生活の中で常に自分の位置を確認したいと思っている。自己の存在を証明したいと望んでいる。だが、今日の社会は工業、技術、及び科学によって支配された、また、官僚制の合理的諸原理によって組織された、高度に分配化された大衆社会であり、あたかも精密機械のように職務を遂行する官僚制が、企業の組織原理として採用されている。従って、個々の組織が合理的に運営されるには、組織のメンバーの主観的感情や欲望は排除されなければならない。私たちは、巨大な産業機構の中の一つの歯車に過ぎないと言える。

 だが、私たちはアルファベットで現される記号化したモノではない。意志をもった主体的な行為者であり、かけがえのない自らの生を生きなければならない。各々が固有の生活史をもっている。では、現実に、組織の一員として働く私たちにとって、”組織のメンバーとして働く”という日常的実践的なる行為は、どのような意味をもつのか。そこで経験する他者との相互作用は、アイデンティティの形成にどのように関わってくるのか。私たちの人格的な発達に何をもたらしているのか。私たちは、”働くことを通して自分の資質を生き生きと表現できているのだろうか。日常生活の中に埋没し、自分自身を見失っていないだろうか。時間に縛られてしまってはいないだろうか。制服を着用している時の私たちはまぎれもなく、この私自身なのか。私たちは、生きていくためには好むと好まざるとに関わらず、ある特定の環境に適応していかなければならない。日常的に克服する努力が必要とされるような抵抗に直面し、葛藤を経験する。


 平凡な日常生活は、つまらぬものと捉えられがちだが、固有の生活史をもつ私たちの一日一日は、決して”平凡”という言葉で片づけられるものではない。一日一日は似ているようでも異なった色を帯びている。同じようなことの繰り返しに見える日常生活の中にこそ、幸福はある。何を幸福と捉えるかによって世界は違って見える。私たちは幸福を求めている。幸福を基礎とした日常生活における自己実現。お金のために辛抱して働くという職業観とは異なる職業観。我慢してやっているのではない、自らやっていることとしての”働く”ということ。公的生活と私的生活とのバランスをどのようにとりながら、どこに生きがいを見出し、様々な役割を調整しながら、日常生活をどのように営んでいくのか。ストレスとどうつきあっていくかということも、現代の日常生活において重要な課題であろう。こうした点を現在非正規社員として働き、毎日同じことを繰り返すだけの創造性のない仕事を主にこなしてきた私の、日常的経験を踏まえて考察してみたいと思う。」

船津衛著『現代社会論の展開』より_生活における意味喪失

2015年07月22日 18時19分51秒 | 本あれこれ
「こんにち、労働の世界では果たせない「自己実現」の欲求は、消費生活に向かっている。高度消費社会の到来により、消費者はあたかも社会の「主役」に躍り出たかのようである。

 たしかに、消費に対する欲求は、かつての日本の生活様式を変えうるほどである。しかし、さまざまなメディアを通して溢れるばかりの商品の「情報」が氾濫している現代社会にあっては、われわれの欲求自体が際限なく高次化する傾向にあり、しかも一方的に操作され作られてしまう可能性が高いことに注意を払う必要があろう。

 とはいえ、何が人間にとって自然で基本的な欲求であり、どこからがそれ以上の作られた欲求なのかを判断することはきわめて困難であるから、自らの欲求を律する内的な倫理を持つことが、消費の<主体>であることの最低条件である。

 この観点からすると、「欲望自然主義」にとりつかれた現代人は、むしろ消費生活において疎外された存在であるといわざるをえない。

 この「欲望自然主義」は、モノあるいはサービスの消費を通じて獲得された「豊かさ」が個人の「しあわせ感」を形成するという、幸福があたかも量的に表現されうるかのような<一元的な>価値志向によって拍車がかけられている。

 そのため、人間関係を含めてあらゆることが金銭的な損得勘定で判断されるような風潮が生みだされ、われわれの日常生活を支配している。

 いうまでもなく、消費の自由度は、よほど大きな資産でもないかぎり、収入の大きさに依存するから、こうした風潮のもとでは、より高い賃金・地位を求めての出世に大きな関心が払われるが、それは<競争>を通じて実現されることになる。

 この<競争>は、現代の日本社会においては、実に人間がこの世に生を受けたときにすでに始まっている。乳幼児は、定期検診のたびごとに標準発達段階に照らして精神的・肉体的な「能力」が測られ、より早く「大人」になることが促される。

 学校教育においては、科学技術に支えられた高度な社会に適応する「能力」が求められ、それによって質の高い労働力が育成されることが期待される。

 このように教育によって、人間のさまざまな「能力」がこの<一元的な>価値によって評価される結果、この基準から外れた「能力」をもつ者は、低い評価しか受けず、しだいに脱落していくことになる。

 成績に限らず、社会の<一元的な>物の見方は、当事者の子供たち自身のあいだにもひろがり、異質な者に対する不寛容を生みだし、陰湿な「いじめ」となって現れている。

 こうして、事実上、学校の管理教育は、<効率>を理念とする人間の品質管理の場になってしまっている。

 家族もまた、この現代社会のなかにある以上、それとは違う論理を持つことは難しい。量的に測られうる「幸福」の獲得をめざす<競争>で勝ち抜くべく、夫は企業戦士として、その候補者としての子供は受験戦士として、家庭で再生産され、社会に送り出される。

 グラムシ(1891-1937)の指摘によれば、今世紀はじめにフォードは、新しい経営様式に必要な質の高い労働力を得るために、高賃金と引き替えに労働者の生活に介入し、その管理を試みた。

 いまや日本において、それは、社会的規模で<競争>を通じて恐ろしいほど徹底してなされている。こうして<効率>という生産の論理が生活全体に浸透し、人間相互の人格的な関係に基づく生活に固有な「意味の世界」が失われていくことになった。


(船津衛編著『現代社会論の展開』1992年、北樹出版 214-215頁より。)

現代社会論の展開
船津 衛
北樹出版