5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

玄白と登美子

2019-09-24 21:57:58 | 歴史

江戸時代の蘭学医師、杉田玄白が福井県の小浜と関わりが深かったというのは、今日のNHK福井局のローカルニュース「小浜で解体新書の初版本など展示」を読んで初めて知った。

1765年に来日したオランダの商業使節が持ち込んできたオランダ語の解剖学図表を小浜藩の藩医をしていた玄白自らが翻訳した〈解体新書〉の初版など、近代医学に関する医学書や医療器具などを紹介する企画展が小浜市で開かれているのだという。

杉田玄白は享保18年(1733年)に生まれ、文化14年(1817年)に死んとウイキにあるから、84年の生涯だった。今から200年以上前のことだが、結構な長命だったことがわかる。

小浜にある山川登美子記念館が企画した展覧会だが、玄白の翻訳による初版の〈解体新書〉と並んで展示されている〈重訂解体新書〉では、それぞれの構図の違いが見比べられるとある。玄白はあまりオランダ語が堪能ではなかったようで、自訳は誤訳だらけだと承知をしており、弟子の大槻玄沢に訳し直させた。それが『重訂解体新書』で、寛政10年(1798年)には稿ができていたが、諸般の事情で遅れ、文政9年(1826年)になってやっと刊行されたものらしい。
 
TV映像で見る明治時代の医療器具も珍しい。聴診器は象牙で作られているし、往診用の薬箱に入った薬瓶には漢方薬と西洋薬が分かれて入れられている。当時は漢方と西洋医学を併用していたというのがわかる。

会場は、やはり小浜出身の明治の歌人、山川登美子の生家を改装した〈山川登美子記念館〉であるからか、若くして死んだ彼女を蝕んだ病に関わる資料や晩年に詠んだ短歌なども紹介されているという。

登美子は、1879年(明治12年)生、1909年(明治42年)没。30歳にならずに亡くなった。小浜藩の上級藩士の旧家筋が生家だったせいか、TVで見る記念館は立派な邸の体である。1900年には与謝野鉄幹が創刊した雑誌明星に歌が掲載されたことで、鉄幹や晶子とも出会い、明星の社友になっている。師の鉄幹をめぐって晶子とは恋のライバルとして争ったというエピソードが知られ、「君が死はわが死」と鉄幹を嘆かせた〈白百合の君〉だという。結核で死んだのだが、当時に若し玄白がいたのなら、上級藩士の娘と藩医という関係で助命の努力がなされたかもしれない。

WEBで見つけた登美子の恋歌を一首。

それとなく
紅き花みな友にゆづり
そむきて泣きて忘れ草つむ 

 


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