ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

閉塞感はあるけれど…

2014-03-27 22:22:15 | 草木花
人事異動が発表された。
3月末を迎え、今週後半は、あちこちで異動に伴う引継事務や作業が行われている。
自分の勤務先が変わることはなかったが、この規模の職場では「かなりの数」と言えるだけの人々が転出することになった。
たくさんの人が代わるということで、不安は大きい。
しかも、自分の一番近くで仕事をしていた要職にある人々が、軒並み旅立っていくことになった。
これって、私がいやだったということ?
…などと言われそうである。(苦笑)
自分の名誉のために言うと、そういう訳ではなく、ほとんどの人が自分の人生設計で「今出ること」を選んだということだ。
去る者は追わず。引き止めずに、気持ちよく旅立っていただくことに努めた。
ただし、残念なことに、異動先が希望通りにいかず、涙にくれる人もいたことも事実ではある。


わが家でも、家庭事情を考えると、妻の勤務先は今まで通りであってほしかった。
娘の入院している病院に近いからだ。
ところが、異動を命じられた先は私よりも遠く、車でも45分くらいはかかる所だ。
定年までの残り年数を考えると、えらく飛ばされたという感じがしてしまうのだ。

毎日の記憶が積み上がらないままではあるが、娘のけいれん止めの薬の濃度はかなり薄まってきた。
昨秋なら、薬の濃度が薄くなってくると、記憶や認識はしっかりしてきたものだったが、今は期待しているようには回復してくれていない。
11月に起きた複数回のけいれんによるダメージは、相当強かったのだろう。
去年の秋ごろには、かなり期待できるくらいになっていたのに、と思うと、本当に悔しくなってしまう。
仮にこのままけいれんが起こらなくなって、退院、なんて言われても、娘も家族も困るばかりだ。
一人で留守番ができるような認識のレベルではないから。
もう少し、記憶力が回復してくれないものか、と思うことが多い。

これらの事情が重なり、自分にも大きなストレスがたまっているようだ。
今までなら、その解消に走っていたのだが、せっかくあたたかくなったというのに、約1か月間走っていない。
ふくらはぎ痛がなかなか改善されないので、走れないのだ。
歩くのにも痛みが生じて、今週やっと引きずらずに歩けるようになった。
走りたい!
走って少しでもすっきりしたいところなのだが…。

…様々な点で閉塞感を強く感じているせいか、夜の睡眠が浅く、目覚めることが多い3月末である。


そんななか、春の花を見つけた

青いキクザキイチゲ。
アズマイチゲかな?
道路沿いの土手に咲いていた。
少しだけ心にさわやかな風が吹いた。
これから咲いていく春の花々に気持ちを救ってもらい、4月に向かっていこう…!!







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娘よ(39)

2014-03-23 17:02:36 | 生き方
年度末となり、例年にも増して、心が荒れる(慌ただしい)、心を亡くす(忙しい)毎日となっている。
やるべきことは多いのだが、消化しきれないままに新たな課題がぶつかってくる。
だからこそ、の年度末である。
来週の今頃はどうなっているのだろう?
…などと考える間もなく、時間だけは過ぎていく。
それは、どの人にも同じなのだろうけど、…。

時間が過ぎゆくのが早いのは、娘も同じである。
その様子は、相変わらず、としか言いようがない。
幸い、体は元気。
ここのところ、けいれんが起こっていないことは、よいことだと考える。

3月にある、小学校時代の担任の誕生日を今でも覚えていて、「元気かな?」などという話をする。
ところが、10分前にした話をもう覚えていない。
「母、いつ帰ったの?」などと、聞いてくる。
「今は、夜でしょ?昼食の付き添いに来ていて、その後帰ったんだよ。私が来たのは夜でしょ。だから、5時間以上前。」
「そうだっけ?」
などという話になったりする。

娘が前の職場でお世話になった人が、11年務めた職場をこの3月で辞めるという話を聞いたので、それを伝えると、「Sさんでしょ!?」と聞き返してきた。
「正解!」
こんなふうに、2年以上前の話なら大丈夫なのだ。
ちゃんと、分かっている。
が、今のことになると怪しくなる。
「じゃ、お世話になったから、みんなでお別れの手紙を作らなくちゃ。」という考えになるのはいい。
だけど、もう一度今の娘の状況を教えてあげないと、娘は自分の間違いに気づかないでいた。
今は、その職場に働いていないということ。
今は、入院しているから、「みんな」にお礼の手紙を書いてもらうことはできないのだということ。
そんなことを繰り返し教えて、「みんなで」別れの手紙を作ることはできない、ということをなんとか納得させた。
こんなふうに、昔の記憶は大丈夫。
短期の記憶が積み上がらない。
感情は、正常。
認識の程度は今いち…かな。

ただし、1月から大きな発作は起こっていない。
大きな、と書いたのは、いつぞやのような小発作のようなものがあったかどうかは、分からないからである。
ここ1週間くらいで、娘のけいれん止めの点滴の濃度はずいぶん薄くなっている。
1.5まで下げ、さらにそれを薄くする措置を行っている。

なんとか、このまま発作が起こらなければよいのだが。
そうすれば、点滴をしなくても飲み薬で発作を抑えることができるようになるのだから、ベッドから離れることができるようになる。

春の訪れとともに、暖かくなるように、娘の容態も快方に向かってほしい。
明日で、娘の入院は、300日を迎えようとしている…。



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娘よ(38)

2014-03-16 12:24:25 | 生き方
Gwoooo!Gwooo!Gwoo!

およそZZZとはかけ離れた音。
なんともすさまじいいびきの音である。
私でもわが家でもない。
娘の病室である。
止むことなく、ずっとカーテン1枚を隔てた娘の隣のベッドから響いて来る。

大部屋の娘の病室は、他の3名の患者さんと一緒である。
であるが、他の患者さんとの交流は、ほとんどない。
脳に関する病で入院している方々、というのは、ほとんどが高齢者である。
うちの娘のような例は、珍しい。
脳梗塞等で入院した方々ばかりが、入れ替わり立ち代わり娘の同室となる。
だから、静かに寝て過ごしている方が多い。
ただし、すぐ隣の女性は、数日前に入院して来られたが、一言も発することなくずっと大きないびきをかいて眠るばかりである。

病院には、様々な患者さんがいる。
その患者さんの家族にとってみると、やはり回復に向けて少しでも明るい話題がほしいものだ。
隣の患者さんの娘さんと思われる方が来室すると、いびきをかいて眠るその方に一生懸命語りかけている。
 少しはよくなった?
 誰それも心配していたよ。
 ねえ、聞こえてる?
…だけど、いびきの音はやまない。
聞いていると、切なくなる。
やがて、来室された方は、看護師さんを呼び、どんな治療をしているのか、他の検査はできないのか、転院した方がいいのではないか等、様々な相談を持ちかけていた。
身内の人に訪れた災難を何とかしたいという気持ちが、痛いほど伝わってくる。
その気持ちは、とてもよくわかる。

こんな環境の中でも、うちの娘は、淡々と時を過ごしているようだ。
時折は「うるさすぎる」と感じることもあるようではあるが。
娘に隣の人のことについて聞くと、「まあ、私は、介護の仕事をやっていたからねえ…。」と、5年余り前まで自分がやっていた仕事のことを挙げ、いびきの喧騒を我慢できるというそぶりを見せている。
病院では、インフルエンザ感染予防策による面会制限がずっと続いているため、他の人と会って刺激を受けるということがない。
いびきのことがよい刺激となるとは、とうてい考えられない。

そんな状況の中、けいれん止めのD剤の濃度は、2,3日前に1.5にまで下がってきた。
幸いけいれんの発作は起こってはいない。
ただし、記憶や認識は、去年の秋のようには戻って来ない。
時折、病室からトイレに行くとき、トイレへの標示を時々は見逃して動き出すこともある。
少し前のことでもすぐに忘れることが多いのは相変わらずである。
だから、下着を1日に2回も替えてしまったりすることもあるのだ。
少し目の前の物から目をそらしていて、再び見ると、「ものが増えている」とか「位置が変わった」ということなども、まだまだ普通にある。
それでも、自分が1年近く(「以上」と思う時もあるようだが)入院しているということは感じられることが多くなったように思う。
また、ガンバ大阪のGKが誰だっけ?という質問に、「東口。」(正解!)と言えるようになっている。
そして、今まで何度もしてきた話ではあるが、入院した時の話を聞きたがることがある。
その際には、それらのことを自分が全く覚えていないことにがく然として、涙をこぼすことが多い。
家のピアノをお返しした話をしたら、先日は、涙をポロリとこぼした。
「最後に1回弾きたかった…。」
同室者のいびきを許すことやこうして涙をこぼすことなどから、感情に関する部分は、まったく普段通りの娘になっている、と思える。

まずは、けいれんの発作が起きないようになること。
主治医が毎度話す通りなのである。
短期記憶力が少しでも回復することはその次になる。
課題は変わらないままだが、娘の入院は、まもなく300日を迎えようとしている。


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ホーム開幕戦を飾れず

2014-03-09 23:13:10 | アルビレックス新潟
これが、負けか―。
連勝記録がストップした時、横綱白鵬が言ったセリフは、あまりにも大きく記憶に残っている。
稀勢の里に、連勝を63でストップされたとき、白鵬はそう言った。
それに比べたら、非常に少ないかもしれないが、われらがアルビレックスの連勝記録も、年をまたいでの6に終わった。
また、ホームでの10連勝もならず、9連勝で記録は終わった。

ホーム開幕戦。
予想される天気は雪。
予想最高気温は、3℃。

でも、われらがホームの開幕戦だ。
行って応援せねばなるまい。(と言いながら、ゴール裏の応援サポーター席で応援するわけではないのだが)
対するガンバ大阪のGKは、東口。
去年まで新潟のゴールを守っていた元日本代表選手である。
その、移籍してしまった東口からゴールを奪って勝利を!というのが、新潟サポーターの偽らざる本心であった。
試合開始前の選手紹介でも、東口には、ブーイングも拍手もどちらも少なかった。
これは、新潟のサポーターたちの気持ちの表れである。
「別れても、好きな人」なのかもしれないが、ここは勝負の世界。
「別れたら、次の人」「別れたら、別の人」なのである。
新潟サポの、今年の新潟の正GK守田への声援は、非常に大きかった。

試合が始まると、圧倒的に新潟ペース。
かつては、ポゼッションのガ大阪、カウンターの新潟であったが、立場が全く逆転していた。
前半は、新潟のコーナーキックは、8本を数えた。

それなのに、得点が入らない。
やがて、後半、ガ大阪に先取点が入る。
さすが、ガチャピン遠藤のキックはすばらしい。
先制点をアシストするFKであった。
やがて、さらに1点を追加され、新潟は万事休す。

新潟が公式戦で敗れたのは、昨年の10月以来ではなかろうか?
これが、負けか。
なんて、白鵬のようなセリフを言えるほど、強すぎてはいない。
選手たちも悔しさを押し隠していた。

でも、負けた柳下監督のコメントは、ちっとも下を向いていない。
去年やれていたことを今年そのままやっているだけではなく、さらに強くなるために、去年とは違う戦術を試しているのだそうだ。
そして、それがうまくいかなくて負けても、続けるのだそうだ。
ブレない監督である。
非常に頼もしい。

10回連続のホーム戦バンザイはできなかったが、さらに強くなるのだろうなあ、という期待が持てる。
次戦、アウエー甲府戦もがんばっていただこう!



この日の試合は、新潟の民放局でTV放送があった。
娘の病室にメモを書いて、テレビを見れるように配慮してきた。
夕方、病室を訪ねると、娘は幸い、テレビを見ることができたようだった。
しかし、本人は、実際にスタジアムに行って来たような気がしていたり、テレビは前半しか見なかったと言っていたり、ちゃんと0-2で負けたことを知っていたり…と、よく訳が分かっていなかった。
しかし、新潟が負けたことだけは分かっていた。
負けたけど、いい試合だったと娘は言っていた。

ただし、試合を見た後、TV視聴に必要なTVカードをどこかに無くしてしまって、混乱していた。
病室のあちこちや、娘の持ち物のすべてを探したが、TVカードは見つからなかった。

…ところが、幸いにも、見つかった。
娘自ら、自分の持つ化粧ポーチの裏側のポケットに入っているのを見つけたのだった。
自分でも、なぜそんなところに入れたのかわからない、と言っていた。
まあ、見つかったことはよかった。

ともかく、試合で新潟が負けたことはわかっていた。
やはり刺激があるのはいいのだな、と改めて思った。
毎試合、地上波のTV中継があればいいのだがなあ…。
面会制限が続く娘に、今、外部からの刺激は少ないのだから。


さて、けいれん止めのD剤の濃度は下がってきている。
先週末は、2.5まで下がった。
主治医の話では、来週初めに2.0に下げるそうだ。
薬と点滴によるけいれん止めが果たしてどこまで効くのか。
今までやって来た効果が表れるかどうか、いよいよ薬による治療の最終局面を迎えているような気がするのだが…。
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今年も中学校の卒業式を見て、泣いてしまった…

2014-03-07 22:07:18 | 「育」業
今年も、中学校の卒業式に行ってきた。
去年は、卒業する生徒たちの立派な姿に、思わず涙を流してしまった。
今年は泣くことなどないだろうと思いつつ…。

去年の場合は、歩くことに不自由を感じる生徒を待ってあげたり助けてあげたりする姿が見られた。
その姿が、あまりにも自然だったのだ。
同じ仲間として寄り添う思い、「一緒に卒業しよう」という思いを、どの生徒からも感じることができた。
そのあとは、卒業式後、卒業生の合唱で、泣かされた。
「旅立ちの日に…」を歌う卒業生たちは、万感胸に迫ったのだろう、歌い進むうちに、涙をボロボロ流す子が多くなった。
でも、歌声は、しっかり出ていた。
涙が出ると、歌えなくなるものだ。
それなのに、生徒たちは涙を流しながら、しっかり声を出そうとするのだ。
それだけでもすごいことだ。ジーンとしてきた。
そして、2番を歌い終えて間奏になったとたんに、泣いていた生徒たちが全員、袖で涙をぬぐって、一気にはなをすすった。
涙をふき、はなを抑え、最後の盛り上がりの部分をしっかり歌い切ろうとしているのだ。
その姿に、もう私は出てくる自分の涙を止めることができなかった。
すばらしい卒業合唱だった。

あれから1年。今年の中学校の卒業式でも涙をおさえられなかった。
今年は、卒業生代表の答辞で泣けた。
代表の子は生徒会長も務めた彼女だけに、内容もすごくしっかりしていた。
話す前から感情が高ぶっていて、何度も涙声になりそうだった。
でも、彼女は泣かない。
泣き出したい気持ちを必死におさえ、答辞の言葉を一つ一つ感情をこめて話していった。
突然、彼女が、体の向きを職員席に向け、頭を下げた。
「用務員の○○さん。いつも私たちのだめに見えないところで仕事をしてくださってありがとうございました。おかげで、でこぼこのグラウンドが、部活に出る頃にはいつもきれいに整備されていました。各教室のストーブに灯油を入れてくださったおかげで、私たちは気持ちよく授業を受けることができました…。」
(少々違うかもしれないが、概してこんな内容だった。)
こんなふうに、調理員さん、事務員さんたちにも名前を言いながら呼びかけ、お世話になったことを具体的に話し、介助員さん・先生方、地域の方々、保護者の皆さん、在校生、同級生…それぞれには話のたびごとに頭を下げ、感謝の心を込めて話を進めていった。
彼女の話に、会場の全員が引き込まれていきた。
私の近くに去年小学校を卒業した、顔を知っている1年生たちが並んでいた。
Aさん、Bさん、Cさん…たちの顔も、涙でぐしゃぐしゃだった。
大きな感動をもって、答辞は終わった。
やがて、卒業証書授与式は終わった。
ステージを整備して、次は、全校生徒の合唱「旅立ちの日に」、そして卒業生の卒業合唱「桜ノ雨」だった。
先ほど、涙をこらえながらすばらしい答辞を行った彼女は、今度は、微笑みを浮かべながら歌っていた。
歌が進むにつれ、卒業生たちには涙を流しながら歌う生徒が多くなった。
それも、男女を問わず、何人も。
感涙にむせびながら卒業していけるというのは、なんとすばらしいことだろう。
充実した中学校生活なしには、この涙は流せないことだろう。
去年の卒業生と同様に、今年の卒業生たちも、泣きながら懸命に最後の歌を歌い続けるのだった。
もう、この姿は、伝統と言ってもいい。
すごい。
やがて、合唱が終わり、涙を流した卒業生たちは、少し照れたように笑いながらあるいは涙をふきながら、満足そうに式場を退場していった。

去年も今年も、このように感激する中学校の卒業式を見せていただくと、義務教育の終了を、この地区の子どもたちがとても幸せな思いで迎えていることを、心からうれしく感じる。
小学校生活を終えた子どもたちが、その3年後にこのような姿で卒業している。
そのことを考えると、同じ仕事をなりわいとしている者として、中学校の先生・職員の方々に、深い感謝の気持ちを表したくなるのだ。


中学校3年生の皆さん、ご卒業おめでとうございます!
そして、中学校の職員の皆様、本当にありがとうございました!

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走るとふくらはぎ痛が…

2014-03-05 23:11:53 | RUN
毎週1回、10km前後の距離を走っている。
半月ほど前に走ったとき、ふくらはぎ痛になった。
痛みがあっても、家に帰るためには歩かなくてはならない。
…ということで、歩いたり走ったりして、あの時はなんとか家にたどり着いたのだった。
その1週間後、痛みが引いたのでまた10kmほど気を付けながら走った。
途中痛みがありそうな雰囲気になったのだが、そこは慎重に走ることにしたら、痛みは広がらなかった。

それから10日。
土日は体調がすぐれなかったので、走るのはやめたのだったが、昨日はつい走りたくなった。
8kmほど走るつもりでいたのだが、調子に乗って遠回りして帰ることにしたら、また前と同じ右ふくらはぎが痛くなってきた。
だが、ごまかしながら走ることにした。
10kmあまり、走り切れるようにしたかった。

走り切れるのはいいのだ。
気持ちは楽でいくらでも走れそうなのだが、体の方が悲鳴を上げるのが早過ぎる。
この頃は、どうも8kmぐらいを越えると、ふくらはぎに痛みが出るような感じである。

今日は、足をひきずりながら歩いていた。
1か月後には、ハーフマラソンの距離を走るつもりなのに、これでは半分の距離しか走れない。
困ったもんだ。
まあ、50代の後半ですからね…。
ふくらはぎを鍛えなくてはいけないのかな?
そこを鍛えるには、どうすればいいのかねえ…?
なんて思いながら、今日の夕方には痛みはありながらも普通に歩けるようにはなったのだった。
(回復力は少しはあるようだな…)


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娘よ(37)

2014-03-02 19:48:05 | 生き方
相変わらず病院は、インフルエンザの感染予防対策として、面会制限を続けたままだ。
娘が大部屋に移って、約2週間。
大部屋と言っても、4つのベッドがあり、それぞれカーテンで仕切られている。
他の患者さんは、寝たきりの高齢の女性ばかり。
娘との交流はまったくない。
そして、結構次々と入れ替わっている。
今は、すぐ右隣のベッドからは、一日中大きないびきが聞こえてくる。
少し前は、左入口側の人がそうだったのだけれど。
そういう環境の中でも、娘の様子は全く変わらない。
けいれん止めのD剤は、また少しずつ下げられてきたが、記憶や認識は去年の秋のように改善されていない。

記憶が積み上がらない。
だから、様々な?が生まれる。
「食事のメニューを記録する」という習慣はあるのだが、専用のノートに書くのを忘れて、落書き帳や手元の別な紙に書いたりしている。
また、食事しながら、自分がそのメニューの一部を書くのを忘れたと言い出したりしてペンを取ろうとすることがある。
しっかり食事前に記録したというのに。
また、自分が病院に入院していることを忘れたり、いる場所がわからなくなったりするのは、いつものことのようになっている。
そこに悲しさがある。

先週前半のある日には、気持ち悪さを訴えて、動作が止まったり、視線が動かなくなったりしたこともあったという。
それは、きっと「小発作」だったのではないだろうか。
そんなことがきっと本人も知らないうちに起こっているのではないか。
だから、症状が改善しないのではないか、などと考えることもある。
トイレへの行き来はなんとかできるようになったが…。

土曜日には、サッカーJ1リーグの開幕戦があった。
娘も、新潟のサッカー観戦は好きだった。
NHK地上波は、新潟県では、仙台―新潟戦を放映してくれた。
そこで、妻が、娘の部屋でTVをつけ、その試合を見せた。
勝ったことはよかったのだが、試合を見ながら何度も
「ミシェウさんがいない。」
「三門は?」
「亜土夢が23番じゃない。なんで10番?」
などと言っていた。
彼女の頭には、2年前に在籍していた選手やチームの様子が記憶されていて、去年や今年のアルビレックス新潟の情報は更新されていないのだ。

置時計には、日にちが表示されている。
だから、何月何日かは、それを見て認識できる。
先週は、私の誕生日があった。
その前日、病室で、「誕生日おめでとう」と絵とともに書かれてある、と書いた紙を娘からもらった。

そして、翌日行くと、前日それを私に渡したことを忘れて、また新しいカードが書かれていた。

2度ももらえてうれしい、ということにしておこう。

最新の記憶や認識がきちんとされなくとも、娘の性格、気持ちのよさは変わっていない、とわかるのだから。
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