H30年 4月16日
皆様にお知らせがあります。
「え!! こんなメッセージとUFOみたことなああい」が“たま出版”から出版されています。ブログの内容を1冊の本にまとめたものです。よろしかったらお近くの書店にてお買い求めください。
H20年 9月24日 鹿児島 照国神社
菊理姫のお役目は、これからはいろんな所で出て来られるであろう。もし出会ったなら、それが完了とみてよい。目と心を見開いて意識せよ。
H20年 9月24日 鹿児島 照国神社
希望の星は大きく輝く。その輝きの元で希望が回転されて行く。希望は未来に続く。
H20年 9月24日 鹿児島 照国神社
条件が揃った者から、実践に入ると良いであろう。着ぶくれして中身が細い者の事ではない。条件が揃うと言う事は、そのままの体が見えると言う事だ。そうでなければ途中で息切れするぞ。
(神のこと)
H20年 9月24日 鹿児島 照国神社
一コマ一コマの中に光が凝縮されている。一コマの中の光は莫大だ。その一点がお前達一人一人の光なのだ。
H20年 9月24日 鹿児島 照国神社
竹で占うとは、何が心配か?心配する必要は一つもない。自分で選んで進む道が、その人の歩むべき道である。ただし、神に出会ったならば、そこから道は今まで隠された道を歩く事になる。
H20年 9月24日 鹿児島 照国神社
もう一つ優先せざるを得ないものがある。それは玉依姫の扇を探して欲しい。神社にはない。パソコンの中にある。その扇の役目は多くの者達の悪しき霊的波動を飛ばす為である。
H20年 9月24日 鹿児島 照国神社
開かずの間に足を踏み入れたような気分になる。
H20年 9月24日 鹿児島 照国神社
雄弁な演説をしている者がいる。自分の信念を貫く内容だろう。それにしても声がうわずっているぞ。二つの心を使い分けるのか?
H20年 9月24日 鹿児島 照国神社
お猪口(ちょこ)の上に丸い球を乗せて遊んでいる子供がいる。まわす度にデコボコの所がどんどん丸くなっていくぞ。その子供はデコボコの所が丸くなって行くのを嬉しそうに見ている。大人のデコボコもよーく見ているぞ。
H20年 9月24日 鹿児島 まほろばの里(霧島高原)
専属の案内人を付けよう。(国常立の尊)
H20年 9月24日 鹿児島 まほろばの里(霧島高原)
ちょうど木の葉のように舞い下りた。そして、踏みつけられた。こんな心の葛藤が当たり前のように起きている。森の中に漂う精霊。穏やかな日々が流れる。人間の手で荒らされず、いつまで行けるだろうか。
H20年 9月24日 鹿児島 まほろばの里(霧島高原)
希望号はもうずっと、この宇宙を走っている。魂を磨いたものしか見えぬ。磨く術は己が知っている。
H20年 9月24日 鹿児島 まほろばの里(霧島高原)
子供の頃の傷が癒えぬままに年を重ねた。その傷はいつ解放されるのか?そのカルマを背負ったまま一生を終えてはならない。今の時を感謝で越えなさい。
H20年 9月24日 鹿児島 まほろばの里(霧島高原)
幸福論を論じ事はいい事ではあるが、何を基準に論じるのか?最高の幸福は神との出会いだぞ。
H20年 9月24日 鹿児島 まほろばの里(霧島高原)
不揃いの人々が列をなしている。笑顔もなく、黙々と歩いている。足元の小石は見えたであろうが、大きな岩は見えない。何が大切であるかは、周りを見渡せる目を持つことである。
H20年 9月24日 鹿児島 まほろばの里(霧島高原)
それぞれの行く道が決まっている。順番なぞはない。道に不平を言うなよ。自分で選んだ道であろうが。
H20年 9月24日 鹿児島 まほろばの里(霧島高原)
山岳の頂に鼓舞する雪、補足しよう。やがて大雪となる。わだかまりは今の内に大雪で溶かして行きなさい。
H20年 9月24日 鹿児島 まほろばの里(霧島高原)
将来を見据えて行くならば、今から準備が必要である。浄化の時を見失ってはいけない。感謝の心を持って、やりこなして行きなさい。
H20年 9月24日 鹿児島 まほろばの里(霧島高原)
彼らの言葉は理解出来るであろう。
H20年 9月24日 鹿児島 まほろばの里(霧島高原)
もしもの時の合言葉は「愛」である。「愛」はすべてに通じるからである。