6月14日(日):
422ページ 所要時間10:40 蔵書
著者40歳(1923~1996:72歳)。
慶応3年(1867)6月、竜馬から後藤象二郎に「大政奉還」案、「船中八策」が提示され、それを山内容堂が大喜びで受け入れてから後、実現するかどうかは別にして、目標に向けて事態は一気に進む。京都では、薩摩と結びついた岩倉具視の朝廷工作が本格化し、討幕に向けて暴発寸前の長州藩も加わり、「討幕の密勅」案が先を争うように進められていく。
竜馬によれば、大政奉還は、幕府側にとって徳川家救済案として働く。薩長の討幕勢力にとってこの案を呑まなければ、それこそ幕府を朝敵とみなして討つ格好の理由になる。どっちつかずの土佐藩にとって徳川にも薩長にもつける魔法の策であった。
時勢が土佐藩の上士層にも変化を生む。後藤、乾(板垣)以外にも時流を観る能力のあるものは、佐々木三四郎などが現れ、土佐藩における竜馬の利用価値を考えて、竜馬と共闘する流れができ上り、京都では中岡慎太郎の陸援隊に北白川の土佐藩邸が事実上下げ渡され、討幕勢力の拠点化する。
長崎の丸山で英国水兵を海援隊の隊員2人が切り殺したという事件(実は無実。犯人は筑前福岡藩士、明治元年(1868)判明)が京都で最後の工作に取り組んでいる竜馬と土佐藩佐々木のもとに報告される。「列強との関係に通じた海援隊員が英国水兵を切り殺すことはあり得ない」しかし、イギリス公使パークスは土佐藩の責任を激しく言い募る。
大政奉還、討幕工作を目前に控えながら、竜馬は佐々木らと幕府、英国公使に先駆けて土佐に帰る。清国で虚喝外交の味をしめた駐日公使パークスが、土佐藩に強烈な恫喝をかけてくるが、対応したのが底の抜けた破れ大風呂敷の後藤象二郎だったのは痛快だった。臆病な幕臣とは全く違う雄藩の責任ある武士に対してパークスは態度を改め、英国、土佐、幕府共同で長崎現地調査となるが犯罪の立証は不可能で土佐藩・海援隊におとがめなしで決着する。
大事の前の小事で貴重な二カ月が過ぎた。長崎で1300丁の最新式元込め銃を仕入れた竜馬は、300丁を海援隊用とし、残り1000丁を土佐の国元に持ち込み、土佐藩の討幕への決起を促す踏み絵とする。通常の元込め施条銃(尖頭系の榴弾)が火縄銃の発展形のゲベール銃(丸弾)の10倍の速さで発射出来て兵力も一躍10倍となるのだが、竜馬の持ち込んだ最新式元込め施条銃は七連発で、千人に装備すれば、三万の敵にあたることができた(249ページ)。
竜馬が京都に戻った時には、時勢は完全に煮詰まっており、一兵も率いることなく単身で幕閣に「大政奉還」工作を進める後藤象二郎の土佐藩に対して、薩摩(特に西郷)、長州らの不信感は極まっていた。岩倉具視による朝廷工作も「討幕の密勅」だけでなく、「錦の御旗」偽造にまで進んでいた。
あと数日の攻防となった10月13日、京都二条城に在京40藩の家老たちが集められ、慶喜から「大政奉還」の意思が諮られる。薩摩の小松帯刀、土佐の後藤、安芸の辻将監らが慶喜に直接の念押しにまかり出る。「大政奉還」の朝廷への正式な申し出は明後日10月15日と決まる。その夜遅く、後藤の手紙で慶喜の決断を知った竜馬は深く感動して泣く。
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「大樹公(将軍)、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな。よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん。」略/日本は慶喜の自己犠牲によって救われた、略。いまや、慶喜と竜馬は、日本史のこの時点でただ二人の同志であった。略。このふたりはただ二人だけの合作で歴史を回転した。竜馬が企画し、慶喜が決断した。308ページ
大政奉還が成立した後、竜馬は革命の流れが、岩倉・西郷らの討幕派と坂本・後藤の大政奉還路線に分裂することのないように即座に薩摩藩邸に乗り込む。西郷らには無い新政府構想を語り、諸官制の人事案を伝える。示された人事案に土佐藩は後藤象二郎のみだった。山内容堂も、竜馬の名もない。
有名なシーンである。というか、この「竜馬がゆく」で有名になったシーンであろう。薩長同盟、第二次長州征伐参戦、大政奉還の立役者で本来土佐藩の筆頭に記されるべき竜馬の名がどこにもないことに不審がる西郷に「わしぁ、出ませんぜ」「あれはきらいでな」「窮屈な役人がさ」「窮屈な役人にならずに、お前(まん)さぁは何バしなはる」「左様さ。世界の海援隊でもやりましょうかな」このやり取りを観ていた陸奥宗光が、このときの竜馬こそ、西郷より二枚も三枚も大人物のように思われた、と語っている。
陸奥の人物評価は彼自身の性格的偏向があるので措いておく。それより、俺には竜馬の「世界の海援隊でもしょうかな」の言葉が、まさに海好きの少年のように一途で自然な言葉に思えた。そして、司馬さんはこの言葉を読者の腑に落ちさせるために「竜馬がゆく 全八巻」(3300ページ)を書き続けてきたのではないか。そして、その試みは成功していると思った。
「あとがき五」で、「世界の海援隊でもやる」という
竜馬の一言は維新風雲史上の白眉といえるであろう。略。筆者はこの一言を常に念頭に置きつつこの長い小説を書きすすめた。このあたりの消息が、竜馬が仕事をなしえた秘訣であったように思われる。その点、西郷もかわらない。私心を去って自分をむなしくしておかなければ人は集まらない。人が集まることによって智恵と力が持ち寄られてくる。仕事をする人間というものの条件のひとつなのであろう。412ページと記されていて、俺の感想は当たっていたことになる。
その後、急ぐように竜馬は近江路を越前福井へ旅立ち、松平春嶽公の新政府への参加要請と福井藩で政治犯として5年間の禁固刑に服している三岡八郎(由利公正)の復帰、新政府参加要請に行く。無一文から出発した新政府の財政をどう立ち行かせるか。三岡と大いに談じた竜馬は京都に戻り、ほどなく慶応3年(1897)11月15日夜河原町近江屋にて中岡慎太郎とともに暗殺者ら(見回り組か?)の襲撃を受け、前額部が致命傷で落命する。二日後中岡も後頭部の傷で死ぬ。
暗殺者に対する司馬さんの筆は厳しい。「
暗殺などは、たとえば交通事故とすこしもかわらない。暗殺者という思慮と情熱の変形した政治的痴呆者のむれをいかに詳しく書いたところで、竜馬とは何の縁もない。」366ページ、としてあとがきで愚者どもの例として少し触れているのみである。
今回、俺の中では久しく影の薄まっていた坂本竜馬という人間が無私と海好きの極めて魅力的な運動家・事業者として蘇ってきた気がする。新政府名簿に竜馬の名が無かったことに戸惑った西郷は、そのあとすごくうれしかったのではないかと思う。西郷さん自身、「敬天愛人」で無私を人間の形にしたような人物なのだから。明治新政府に籍を置きながら、私利私欲に走る藩閥の大官たちの姿に絶望しながら、竜馬のことを懐かしく思い出していたんじゃないか、と想像するのだ。
あとがきで司馬さんは「すでに明治も三年のころにはもう、幕末といえば遠い昔のように思われるようになったらしく、略。竜馬の名は、日々忘れられた。」414ページ、と記している。人の世の忘却の速さに、俺自身も現代社会に思いをはせざるを得なかった。
【内容紹介】
慶応三年十月十三日、京は二条城の大広間で、十五代将軍徳川慶喜は大政を奉還すると表明した。ここに幕府の三百年近い政権は幕を閉じた。―時勢はこの後、坂を転げるように維新にたどりつく。しかし竜馬はそれを見とどけることもなく、歴史の扉を未来へ押しあけたまま、流星のように…。巻末に「あとがき集」を収む。