もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

211030 祈「れいわ」大躍進!明日の衆議院選挙、比例は「れいわ」で是非ともよろしくお願いしますm(_ _)m。

2021年10月30日 23時14分28秒 | 今、思うこと&意見
10月30日(土):    

「れいわ新選組」は、山本太郎(東京)、大石あきこ(大阪5区)をはじめ、魅力的な候補者がたくさんいます。小選挙区での闘いで少し苦戦してますが、比例区での闘いは大いに期待が持てます

比例は「れいわ」で是非とも投票よろしくお願いしますm(_ _)m。

兵庫県から12回衆議院議員選出の政治家 石井一 氏
    
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210928 れいわ新選組を支持します(もみ)

2021年10月30日 09時38分21秒 | 時代の記憶
9月28日(火):





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211027 大阪5区 大石あきこ(れいわ新選組)が素晴らしい。何とか勝たせて下さい m(_ _)m。

2021年10月27日 23時56分41秒 | 今、思うこと&意見
10月27日(水):     
YouTube:【衆議院選挙】【木村英子議員全力応援】れいわ新選組 大石あきこ JR塚本駅前 街頭記者会見 2021.10.27 18:00- ぜひ見て下さい。



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211021 再掲:191215 自宅の壁に「れいわ新選組」のポスターを貼った。初めての経験。立民エダノは、れいわ・共産と組んで<政権交代>を実現しろ。

2021年10月21日 18時42分14秒 | 一年前
10月21日(木):
191215 自宅の壁に「れいわ新選組」のポスターを貼った。初めての経験。立民エダノは、れいわ・共産と組んで<政権交代>を実現しろ。
2019年12月15日 23時14分45秒 | 今、思うこと&意見

(2019年)12月15日(日):  

連日、れいわ新選組山本太郎代表の街頭記者会見をユーチューブで観続けている。長年作り上げてきた俺自身の政治に対するあるべき姿、コモンセンス(常識)がほぼすべて山本太郎代表が話す内容と重なり合う。ある意味、山本太郎代表の姿は俺の分身であると言える。

政治家のポスターを自分の家の壁に貼るというのは初めてのことであり、自らの姿を世間にさらすことに感じられて多少の躊躇はあった。しかし、彼を応援せずして、誰を応援するというのか?!日和見をして声を上げるべき時に声を上げれずに終わるのは後悔を残す。それだけは嫌だった。

れいわ新選組の公約すべてに対して納得して賛成できるが、同時にすべて実現は極めて困難であることもわかっている。俺が山本太郎代表に最も共感できるのは、ストレートな政策もさりながら、彼の国民・市民に対する寄り添う姿勢と、自らの言葉に対する誠実さと覚悟が見て取れるところである。彼の言葉にはウソがない

今の世に最も必要な政治家が奇跡のように現れてくれたのだ。山本太郎代表を見殺しにしてはいけない。彼と駆け引きをしているつもりの立憲民主党のエダノやレンホウは、醜く滑稽の極みである。2年前の立憲民主党に対する大いなる支持の波は、「義を見てせざるは勇なきなり」と、捨て身で民意の受け皿を作ろうとしたエダノの姿勢に対するエールであって、エダノの政見に対する支持は一部に過ぎない。

今、国民・市民の期待は「れいわ新選組」山本太郎代表の本気の政権交代への挑戦に支持を送っている。政権交代を本気で狙わず小さくまとまろうとする立憲民主党、国民民主党に風は吹かない。愚劣と愚かの極みだ。

願わくば、前原詐欺師、野田ブタを切って、立憲・国民は消費税率5%引き下げを掲げて、れいわ・社民・共産党と組んで本気で<政権交代>を目指してほしい。きっと政権交代は実現するはずだ。そして、逆も真なりである。どうか我々国民・市民を失望させないでほしい。



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211016 映画「あん」(2015:監督 河瀨直美/原作 ドリアン助川)感想4+

2021年10月16日 03時00分21秒 | 映画・映像
10月16日(金):    

録画DVDで映画「あん」(1時間53分)を何度目かで観た。今回が、一番心に響いた。原作の本は持っているがまだ読めていない。ドリアン助川さんの積極的感受の考え方が随所に出ているように感じた。

ハンセン病患者をめぐる現状を静かに押しつけがましくなく、しかし必要なことは自然にきちんと伝えてくれる映画である。前半はごく普通に話が進むが、中盤から以降今の日本で実際に起こるであろう厳しい現実が示されて俄然話が深まっていく。

監督  河瀨直美/脚本 河瀨直美/原作 ドリアン助川
出演者 樹木希林/永瀬正敏/内田伽羅/市原悦子

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211013 【社説】無国籍の子 実態つかみ支援に動け

2021年10月13日 21時21分00秒 | 時代の記憶
10月13日(水):

朝日デジタル(社説)無国籍の子 実態つかみ支援に動け
2021年10月13日 5時00分

  五輪やノーベル賞の発表など「国籍」に考えを巡らせる機会が続いた。誰にもあるものと思いがちだが、国籍のない人は国連難民高等弁務官事務所の推計で数百万人規模にのぼる。
  無国籍者を減らすことをめざす国際条約が採択されて、今年で60年になる。紛争で国そのものがなくなった、国家が特定の民族を迫害して国民として認めないなど、無国籍者を生む背景は複雑で多様だ。個人がどの政府からも保護されないという、不安定で過酷な状況をなくしていかなければならない。
  遠い国の話ではない。日本でも無国籍の幼い子が近年急増している。出入国在留管理庁によると、無国籍の0~4歳児は昨年末で211人と、5年間で約4倍になった。調査方法に制約があり、実際はもっと多いといわれている。
  同庁はまた、16~20年に日本で生まれ、無国籍だった子について追跡調査を初めて実施した。対象の約300人の2割以上は、今年4月の時点でも引き続き国籍がなかったという。
  増加の理由は何か。
  技能実習生や留学生など日本に住む外国人が増えるなか、子どもが生まれたが、事情があって親が自身の国籍国に届け出ていない、親自身が無国籍状態で手続きできない――といったケースが考えられる。
  住民登録されていれば、健康診断や通園・通学などの日常生活に直ちに支障が生じることはない。だが親が非正規滞在の場合、子は社会から「見えない」存在に陥りがちだ。その後も無国籍者には、海外旅行や留学、結婚、出産といった人生の節目で壁が立ちはだかる。
  国籍は個人の権利の土台であり、アイデンティティーの形成に深く関わる。日本も加盟する子どもの権利条約は、国籍を得る権利を明記しており、問題の解消は政府の務めだ。大人も含め無国籍者の実態を把握することが、まず必要だ。
  実務の面で再考すべき点もある。たとえば、母親の経歴などから入管当局が子の国籍を安易に判断し、在留カードに記載することが珍しくないと支援団体は指摘する。旅券の申請などで大使館と接触して初めて、自分が国民とみなされておらず、無国籍者だとわかるという。受けるダメージは計り知れない。
  日本国籍を積極的に認める運用も求められる。国籍法は、日本生まれで、父母が不明か無国籍の場合、その子は日本国民とすると定める。該当する可能性があれば、法をふまえた対応を速やかにとらねばならない。
  日本は一人ひとりの人権を大切にする国か、そうでないか。少数者への接し方が映し出す。
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211008 再掲:141211 内田樹:対米従属を自己目的化した歴史修正主義者たちが私的利益にはしる恥ずかしい国、日本

2021年10月08日 14時30分34秒 | 一年前
10月8日(金):
141211 内田樹:対米従属を自己目的化した歴史修正主義者たちが私的利益にはしる恥ずかしい国、日本
2014年12月11日 23時53分40秒 | 考える資料

2014年)12月11日(木):

【内田樹の研究室】にまた良い論考が載っていた。スパッと乱麻を断つお話である。この先生の話は、突飛なことではない。自分が感じている当り前のことを「それでいいんだ!」とわかりやすく腑分けして語りかけてくれる感じである。とにかく歯切れがよい。しかも引用掲載フリー!である。今回の論考を読んで、大岡昇平の「レイテ戦記」を読んで、あの戦争の悲惨さを疑似体験したことは、大変重要な経験だったと思った。以下、掲載する。

【内田樹の研究室】2014.12.10
週刊プレイボーイインタビュー記事

週刊プレイボーイから『街場の戦争論』についてのインタビューを受けた。
かなり長い行数を割いてくれたので、こちらに転載。

“本”人襲撃でも以前取り上げた白井聡氏の『永続敗戦論』や赤坂真理氏の『愛と暴力の戦後とその後』、そして矢部宏治氏の『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』など、ここ最近、日本の戦後史を再検証する本が数多く出版され、大きな注目を集めている。
今回紹介する内田樹氏の最新刊『街場の戦争論』もまた、「日本の戦後史」や日本人の「戦争観」に、独自の角度から切り込んだ、話題の一冊だ。
現代フランス哲学の研究者でありながら武道家としての顔も持つ内田氏は、昨年末から今秋にかけて10冊以上という驚異的なペースで著書を刊行するが、なぜ今、「戦争論」をテーマに選んだのか? 神戸にある自宅兼道場「凱風館」で話を聞いた。

黙して語らぬ戦中派と断絶された歴史の罠

――『街場の……』シリーズや、憲法論など、このところ立て続けに新刊を出されている内田さんですが、今回はなぜ「戦争論」なのでしょう?

内田 僕たちが今いるのは、ふたつの戦争、「日本が負けた先の戦争」と「これから起こる次の戦争」に挟まれた「戦争間期」なのではないかという気がなんとなくしています。実際に、近年に僕よりずっと若い書き手たち、例えば白井聡、赤坂真理、中島岳志、片山杜秀といった方たちが申し合わせたように「先の戦争の負け方」について独自の論考を展開している。現代日本の本質的な弱さを「戦争の負け方」の総括が間違っていたからではないかというのが彼らの問いかけだと思いますが、僕自身もそれを共有しています。
1950年生まれの僕は戦争を経験していませんが、戦争を経験してきたばかりの父親たち世代のたたずまいを記憶しています。「証人」として、戦争についての語る世代的な責務も感じています。

――世代的な責務とは?

内田 父親たちの世代、「戦中派」には「戦争経験について語らない」という一種「暗黙の了解」のようなものがあったように思います。戦地で実際に行なわれたことや見たことについては子どもたちには語らない。もとは「善意」から出たことだと思います。「戦争がどれほど醜悪で過酷なものか、自分たちがどれほど残酷で非情だったか、そういうことは子供たちには伝えまい。無言で墓場まで持って行こう。子供たちは無垢な戦後民主主義の申し子として未来の日本を担って欲しい」そういう思いだったのではないかと思います。だから「黙して語らず」を貫いたのだと思います。
しかし、そのせいで「戦争の記憶」は次世代に語り継がず、僕たち世代は戦争を「済んだこと、早く忘れるべきこと」として、戦争について深く踏み込んで総括する機会を逸してしまった。そのことの負の側面が、現代日本の足腰を致命的に劣化させている、そう感じます。
なぜ「戦中派」は戦争を語らなかったのか? あるいは語れなかったのか? そしてそれが戦後70年にどんな影響を与えたのか?世の中から「戦中派」がどんどんといなくなっている今、少なくとも「沈黙を貫いた父親世代」の屈託した表情だけは記憶している僕たちの世代が証人として、その〝沈黙の意味〟を再構成しなければならない、そう思ったのです。

――「戦争」が語り継がれなかったことによる歴史の断絶によって表面化した「負の側面」とは、具体的にどういうことですか?

内田 最も顕著なのは「歴史修正主義」の登場でしょう。これは日本に限らず、ドイツやフランスでも同じなのですが、戦争経験者世代が社会の第一線から退場しはじめると、どこでも「歴史修正主義者」が現れます。
彼らは歴史の「生き証人」がいなくなった頃を見計らって登場します。「戦中派の沈黙」ゆえに戦争の記憶が伝えられなかった戦後日本では、とりわけ歴史修正主義は暴威をふるいました。現場を見た生身の人間がいなくなった頃になって、断片的な文書だけに基づいて、戦争について言いたい放題の「事実」を語り出した。
従軍慰安婦の問題にしても、実際に戦地で慰安所に通っていた兵隊たちが生きていた間は「強制性はなかった」「軍は関与していない」などということをうるさく言い立てる人間はいなかった。慰安婦がどういう制度であるかを誰でも知っていたからです。
証人たちがいなくなった頃になってはじめて「慰安婦問題は捏造だ」と言い出した。ヨーロッパにも「極右」の政治家はいますけれど、安倍晋三のような極右が総理大臣になれたのは世界で日本だけでしょう。

――なぜそうなってしまったでしょう?

もともとの自民党はイデオロギー政党ではありません。党内に極右からリベラルまで含んだ「国民政党」でした。国民の生活実感を汲み上げることで長期政権を保ってきた。
そして外交戦略は「対米従属を通じての対米自立」一本槍だった。従属することで主権を回復するというトリッキーな戦略ですが、それが戦後日本の戦略として最も合理的で現実的だったわけです。現に、その戦略のおかげで日本は敗戦から6年後にはサンフランシスコ講和条約で主権を回復し、1972年には沖縄返還で国土を回復した。対米従属は「引き合う」というのは自民政権の歴史的成功体験だったわけです。しかし、この成功体験への固執がそれから後の日本外交の劣化をもたらした。
沖縄返還後の42年間、日本はひたすら対米従属を続けましたが、何一つ回復できていない。世界中から「アメリカの属国」だと思われているけれど、その見返りに「対米自立」としてポイントを獲得できた外交的成果は一つもない。ゼロです。米軍基地は縮小も返還もされない。年次改革要望書を通じてアメリカは日本の政策全般についても細かい指示を続けている。
対米従属は本来は主権回復のための手段だったはずですが、それが三世代にわたって受け継がれているうちに「自己目的化」してしまった。対米従属を手際よく効率的にこなすことのできる人たちが政治家としても官僚としても学者としても「出世できる」システムが出来上がってしまった。
自民党が国民政党からイデオロギー政党に変質したことは、この「対米従属の自己目的化」の帰結だと僕は見ています。安倍首相はじめ対米従属路線の主導者たちがその見返りに求めているのは日本の国益の増大ではなく、彼らの私的な野心の達成や、個人資産の増大です。
今回の解散・総選挙はどのような国益にもかかわりがありません。政権の延命が最優先している。かつての自民党政権は列島住民の雇用を確保し、飯を食わせることを主務とする「国民政党」たらんとしていましたけれど、現在の自民党は限定された支配層の既得権益を維持するための政治装置に変質してしまいました。

――実際、日中関係や日韓関係はこじれたままですし、集団的自衛権の行使容認や秘密保護法の制定などで、日本が「戦争の出来る国」になろうとしているという声があります。近い将来、この国が「戦争」に巻き込まれる可能性はあるのでしょうか?

内田 現実的にはあり得ないと思います。安倍さんや石破さんは日本を「戦争の出来る国」にしようとしていますけれど、本気で戦争になるとは思っていません。一体どこと戦争するんです?
韓国には米韓相互防衛条約があります。今も韓国軍の戦時作戦統制権を持っているのは在韓米軍司令官です。日本と韓国が戦争するということはアメリカと戦争するということです。そんな覚悟がある人がいますか?
日中が戦争することをアメリカは全く望んでいません。
日本と中国が例えば尖閣問題で軍事衝突を起した場合、日本人は安保条約に基づく米軍の出動を期待しますが、アメリカは中国と戦争する気なんかない。だから、調停は試みるでしょうけれど、同盟軍として中国と戦うことはない。だから、何としても軍事的衝突そのものを事前に抑え込もうとする。
日本で対中国で好戦的な発言をしている人たちは、うしろから羽交い締めにされている酔っ払いが怒号しているようなものです。止めてもらえると思って安心しているので、威勢の良いことを言っていられるのです。
そもそも、安倍さんも石破さんも、今の日本の政治家に実際の戦争を指揮できるだけの基礎的な能力がありません。
戦争というのは国の根幹に関わる死活問題ですから50年後、100年後のこの国をどうするのかという長期的なヴィジョンがなくてはすまされない。ところが「領土」や「国威」にこだわるナショナリストたちの発想は、市場でのシェアを競争しているビジネスマンと同一の発想しかしていない。自分たちの「シェア」が増えたか減ったか、そういう二次元的な、空間的な数値の変化しか見ていない。経済戦争とほんとうの戦争を同じものだと思っている。株式会社の経営者の発想です。ビジネスマンに戦争ができるはずがない。

――つまり、本気で戦争をする気も、またその能力もない人たちが、この国を「戦争ができる国」にしようとしていると? 

彼らは戦争の生き証人である「戦中派」の退場を狙って、あるいは「語られなかった歴史」の断絶を利用して、知りもしない戦争を語り、自己都合で書き換えた歴史を信じさせようとしている。そして、その目的が国益の増大ではなく、私的利益の増大であることが問題なのです。
安倍さんたちが目指しているのは、北朝鮮とシンガポールを合わせたような国だと思います。
政治的には北朝鮮がモデルです。市民に政治的自由がなく、強権的な支配体制で、自前の核戦力があって国際社会に対して強面ができる国になりたいと思っている。
経済的な理想はシンガポールでしょう。国家目標が経済成長で、あらゆる社会制度が金儲けしやすいように設計されている国にしたい。
万が一、日中が戦争状態になったときに米軍が出動しなければ、日本はこれまでの対米従属の反動で、間違いなく極端な「反米」路線に走るでしょう。安保条約即時廃棄、米軍基地即時撤去となれば、日本はアメリカ、中国、韓国、ロシア、すべてを仮想敵国とみなすハリネズミのように好戦的な「先軍主義」の国になるしかない。先の世界大戦前と同じです。そういう北朝鮮のような国になることを無意識的に願っている日本人は少なくないと僕は思っています。

現実には「強い現実」と「弱い現実」がある

――一方、内田さんは今回の著書で、「もし、日本の敗戦が決定的となったミッドウェー海戦の直後にアメリカと講和を結んでいたら……」という仮定の下に、今とはまるで異なる「日本の戦後」があり得たと書かれています。そして「現実」には、この「もし」で大きく変わり得た「弱い現実」と、「何があっても、結局はこうなっただろう」という「強い現実」があるという視点を示されています。

内田 ミッドウェー海戦に敗れて太平洋戦争の帰趨がほぼ決した直後に、すでに吉田茂や木戸幸一は対米講和を考えていました。でも、ずるずるしているうちに機会を失した。
 もし44年までに対米講和が成っていれば、本土への空襲も、玉砕も、特攻もなく、広島や長崎への原爆の投下もなかったはずです。そう考えると今、我々が直面している現実も、過去の小さな「もし」によって、大きく違っていたかもしれない「弱い現実」だということがわかります。

――それが「弱い現実」である以上、我々の行動次第で変えることもできるということですか?

内田 歴史のなかに「もし」という視点を置くことで、少なくとも、「結局、日本はこうなるしかなかったんだ……」という宿命論からは逃がれられます。何かの要素がほんの少し違っていただけで「もっとましな今になっていたチャンスはあった」と考えることで、少しは希望が持てる。
もちろん、先の戦争が証明しているように、いくつかの「偶然」がもたらした「弱い現実」によって、国が壊滅的な危機に直面するということもあります。たとえそれが「弱い現実」であっても、ものを破壊することはできるからです。
安倍政権もそうです。歴史的必然性があって誕生したわけではない政権ですが、それでも日本社会の根幹部分を破壊するだけの力はある。でも、この痛ましい現実も、所詮は偶然が重なって生じた「弱い現実」に過ぎませんから、わずかの入力変化で大きく変化するでしょう。
目の前に迫った衆議院選もひとつの「分岐点」です。これが日本の歴史を大きく変える「節目」になる可能性はあると僕は思っています。
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211007 再々掲:190809 参院2議席しかない山本太郎氏へのネガ・キヤンの激しさは、山本氏の可能性の証である。枝野氏は立憲、れいわ、共産の大連立を目指せ。国民党は消滅しろ!

2021年10月07日 19時41分13秒 | 一年前
10月7日(木):     

190809 参院2議席しかない山本太郎氏へのネガ・キヤンの激しさは、山本氏の可能性の証である。枝野氏は立憲、れいわ、共産の大連立を目指せ。国民党は消滅しろ!
2019年08月09日 11時37分54秒 | 今、思うこと&意見

2019年)8月9日(金):  
「山本太郎が政権をとったらヒトラーになりかねない」と識者たちが言っているのだそうだ(デイリー新潮)。他にも、夕刊フジをはじめ「あああれね。アベのつかいっぱしりの御用マスゴミね!」と思うメディアが書き立てている。東国原某や橋下徹らが「山本太郎は総理になれない」など参院2議席しかない<れいわ>に対するとち狂った対談が垂れ流されている。また、わざと<れいわ>と<N国>を並べて論じることで、<れいわ>のイメージを<N国>と同じレベルのインチキ勢力という見え見えの印象操作をしようとしている。

正直「現段階で参議院2議席しかない<れいわ>に対して、ここまで山本太郎氏を見え透いたウソで貶めるのか・・・。」参議院2議席しかない<れいわ>山本太郎氏に対してこれほど卑怯で不当なネガティブキャンペーンが張られるということは異常を通り越して恐ろしくもある。それだけアベを支える利権屋集団が、今後の衆議院議員選挙に向けて山本太郎氏の実力、影響力の大きさに恐怖していることの表れだろう。

どうしてこんな見え見えのウソで固めたネガティブキャンペーンをするのか。そんなことをすればデイリー新潮も、夕刊フジも大企業からスポンサー料を受け取っている雑誌、新聞(産経)などが自らの記事のいい加減さをわざわざ示して、読者から見放され無視されることにつながる危険性を冒していることはわかっているはずだ。もはや彼らは読者の良識に期待する自己を持たない完全なる御用フェイク・メディアであることにアイデンティティを固めているようだ。

たった2議席しか持たない<れいわ新選組>山本太郎代表に対してここまでアベを支える周辺勢力が<山本潰し>を仕掛けるのを観ているとそんなに<れいわ>山本太郎氏の持つ潜在的可能性は大きいのか。今後の野党共闘の有り様によっては、次の衆院選での政権交代までは難しいかもしれないが、与野党伯仲状態に持っていき、その勢いで実際に次の段階で政権交代が実現するかもしれない」といやが上にも<れいわ>への期待が膨らんでしまう。

そう考えると、小泉顔だけ進次郎による公私混同の<官邸できちゃった婚発表>のおバカ騒ぎも、与野党伯仲アベ退陣後の自民党・創価学会から巻き返しのスペア(隠し玉)として用意してのことだと理解できる。それにしても今の自民党は国民・有権者をつくづく舐め切っていると思う。全くもってどうでもいいことなのに、キャーキャー言ってるおばさんたちの姿がテレビで繰り返し流され続ける。我々も本当に舐められたものだ。

そういえば、報道ステーションもニュース23も含めてテレビのニュース番組がお天気ニュースばかりを流し続けている。大切なニュースはいつもお天気ニュースの後だ。天気ニュースならNHK一局で十分足りている。ニュース番組がニュースを流さない時代に我々は生きているのだ。鳴り物入りのニュース23の小川キャスターもプーである。

閑話休題。願わくば、立憲民主党の枝野党首に頑張ってもらい、連合という労働者・庶民と乖離した労働組合の皮を被った既得権益集団と距離をとって、インチキ国民党の分裂・右派の切り離し(維新・自民に行けばよい)、中道・左派の立憲会派への取り込みをはかり、山本太郎氏の<れいわ新選組>や共産党との本格的な選挙協力により、本当の<政権交代>を見せてほしい。

連合や国民党などのフェイク集団に右顧左眄することなく本当の国民・市民の生活安定の願いの実現をはかってほしい。そのために山本太郎氏の消費税5%の提言を受け入れてほしい。

枝野氏をはじめ立憲民主党の有力者たちが、民進党時代に野田汚物政権で消費税10%を取り決めたメンバーに入っていたなどはどうでもいいのだ。2年前の衆議院選挙の際、ゼロから立憲民主党は立党したのだ!そこで別の党、すなわち憲法を遵守し、国民の生活、国民の願いを第一に考える<真っ当な政治>を目指す集団に立憲民主党はリセットされたことを忘れるな。

野田汚物や連合(電機)の奴隷のインチキ国民党など国民の支持の無い連中なのだ!そんな奴らに抱き着かれて、ああだこうだと言われて国民・市民の真の声を聴き洩らすな、忘れるな! 立憲民主党が傾聴・提携すべき国民の真の声は山本太郎氏の<れいわ新選組>の提言にこそあることを忘れるな。

<れいわ新選組 山本太郎氏>に勢いがある内に共産党、社民党、沖縄、被災地、などと一緒になってロスジェネを含む無党派層をも取り込み、一気に政権交代に持っていくべきである。その時総理大臣が、枝野でも、山本でも国民・市民にとってはどっちでもいい。好きにすればいい。山本太郎氏も総理の椅子に執着はない。ただ、この衰退の一途、戦争への一途にある日本を救いたいという思いだけなのだ。くれぐれも「この闘いが、血は流れないが、革命を目指す<戦争>なのだ!」ということを忘れないこと。「やられる前にやってしまう」覚悟が絶対に必要なのだ。

立憲民主党党首の枝野氏にはそこの分別をしっかり持ってもらって、くれぐれも組べき相手を間違わないでほしい。立憲内部での旧体制に執着するバカな連中がいれば、そんな奴らを振り切って党を割ってでも<れいわ新選組>、<共産党>と組んで、一気に政権交代を目指してほしい。勢いが大事で「今しかない!」ということも言っておきたい。
   
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150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)