575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

熱田神宮の昔を知ろう ⑴  竹中敬一

2017年06月16日 | Weblog
6月5日、名古屋の熱田神宮の例祭「熱田祭り」を見に行ってきました。
天皇陛下のお使い (勅使) が参向される祭典とあって、とても厳かでした。
それにしても、アマチュア・カメラマンが多勢、詰め掛けていたのにはびっくり。
私は皆さんの後ろからかろうじて、神事の模様をiPadで撮らしてもらいました。

熱田神宮については三種の神器の一つ草薙剣 (くさなぎのつるぎ)をご神体とする
お宮であること位しか知りませんでした。
熱田神宮の歴史を知ろうと思って、宝物館で「尾張国熱田太神宮縁起」(890年
成立とされる)の現代語訳を買って、読んでみました。僅か25ページ位に纏められ、
漢字には振り仮名もついていて、わかりやすくなっています。
ヤマトタケルの東征のことが詳しく書かれていますが、それを更に要約すると、、、、

景行天皇の皇子ヤマトタケルは天皇の命を受け、東国の逆賊を征伐するため、吉備
(きび) の武彦、建稲種(たけいなだね)の公(きみ)らを伴って大和を出発。
伊勢神宮では倭姫命 (やまとひめのみこと) から神剣と小袋を授けられる。
途中、尾張 (愛知)の国・愛智郡(あゆちのこおり)に お着きになった時、稲種の公が
「この郡(こおり)の氷上(ひかみ) の里は私の故郷でございます。ここに、留まって
お休みなさいませ。」と云った。
ヤマトタケルはここで、稲種の公の妹、ミヤスヒメを見初められ、しばらく、留まら
れた。
この後、駿河で野火に囲まれたヤマトタケルは神剣で草をなぎ払い、持っていた小袋
を開けて、火打石で向い火を付け難を逃れた。神剣を草薙の剣と云う。
さらに、海路で相模から上総 (かずさ・千葉)へ向かう途中、妃 ・オトタチバナヒメの
入水によって海難を免れた。
こうして、陸奥(むつ・青森) の地まで平定したヤマトタケルは帰路、常陸(ひたち・茨城) 、
甲斐(かい・山梨)へと来た所で、尊は山道、稲種(いなだね)の公(きみ)は海道を辿り、
尾張 で合流することになった。

ヤマトタケルは信濃(しなの・長野)を経て、篠城(しのぎ)の里 (今の愛知県春日井市
篠木町)についた時、従者から稲種の公が駿河の海で遭難死されたという知らせを聞き
嘆き悲しむ。「現哉(うつつや) 、現哉(うつつや)」と仰せられた。そこで、この地を
内津(うつつ)と名付ける。
尾張に入って、ミヤスヒメと再会し結婚。草薙の剣を彼女に預け、伊吹山の荒ぶる神を
討とうとして病を得て、伊勢の能褒野(のぼの・三重県亀山市)で、没された。
御年(おんとし) 三十。

ミヤスヒメは草薙の剣を新しい社(やしろ)に遷し祀りたいと云はれ、その地を定める
ことになった。ここに楓の樹一本があって、自ら炎(も)え焼け、水田に倒れたが、
炎は消えず、水田はなほ熱かった。そこに社地を定め、熱田の社(やしろ)と名付けた。

ヤマトタケル東征については、古事記、日本書紀にも大筋、同じような内容の話が出て
いますが、ここでは、かって中部地方を支配していた尾張氏(おわりし)と熱田神宮との
関係に絞ったつもりですが、長くなりました。

次回、氷上(ひかみ) の里などミヤスヒメについて、もう少し調べてお伝えします。

  写真は、熱田神宮の例祭 (熱田祭り) 6月5日の祭典の模様です。




コメント (1)
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