575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

ロマンチック海道~北つ海~ 縦横に行き来した船 ③  竹中敬一

2017年02月17日 | Weblog
古代の日本で "北つ海" と云っていたのが、いつ頃から"日本海"と呼ぶように
なったのでしょうか 。
上田正昭氏 (歴史学者) によると、"日本海"という名称は、1602年、イタリア人の
イエズス会宣教師が北京で描いた世界地図の中に、"日本海" と書き込まれていて、
これが始めて見る史料だ、と云っておられます。
従って「韓国や北朝鮮が主張するように日本帝国主義がつけた名称ではなく、
すでに、17世紀、18世紀、ヨーロッパの宣教師の間で、"日本海"という名称が
ひろまった。」とされています。

"日本海" 呼称問題はそれぞれの国によって、主張が対立し、ややこしい話に
なってきますが、古代にはこの海を介して、中国や朝鮮半島と日本が盛んに
交易していたことは事実です。
交易するには、当然、船が輸送手段として使われたでしよう。今回は船について
考えてみます。

最古の舟は、福井県若狭町の鳥浜貝塚から出土した丸木舟で、縄文時代前期のものと
考えられています。
全長6メール余り。スギの大木をくりぬいたもので、三方湖や近海での漁や移動に
使われたようです。
昭和56年当時、この時代の丸木舟としては日本で最古であった為、第一号丸木舟と
名付けられました。その後、関東を初め各地で発掘されており、全長 7メールも
ある丸木舟も見つかっているようです。しかし丸木舟では外洋へ出るのは無理でしょう。

古墳時代になると、朝鮮半島との往来が盛んになり、若狭の首長は九州北部の首長ら
と共にヤマト政権から軍事要員として朝鮮半島に派遣されました。
(「若狭と越の古墳時代・入江文敏」より)
その軍団を乗せた船はどのようなものであったのか、なかなか史料が見つからず、
推測するしかありませんが、手がかりになる神戸新聞の記事 (平成16年2月1日) に
出会いました。
平成元年、兵庫県豊岡市出石(いずし)の遺跡から出土した「船団を描いた線刻画」に
関連した特集記事です。記事を要約します。

杉板に描かれた4世紀初頭のものとみられる船団画は、日本の古代船や航海術を知る上で
画期的な発見であること。
外洋に出ても耐えられる「準構造船」になっていること。つまり、木をくりぬいた
丸木舟を本体として波よけ板がヘサキと船体側面に取り付けてられていること。
19隻の大編隊を整えた外洋船。中央に大型船、周囲を小ぶりの船が取り囲んでいて、
組織的航海法が見て取れること。
記事は最後に「大陸と但馬(たじま) を結ぶ日本海ルートの存在を示す証しである。」
としています。

若狭の首長が率いる軍団も但馬と同様、船団を組んだ準構造船で朝鮮半島へ向かった
ことでしょう。

また、「日本書紀」には、雄略天皇 (第21代の天皇 5世紀後半) の時代、瀬戸内海の
吉備( きび)の海部 (あまべ) 集団が新羅征伐の命を受け百済に赴いた、とあります。
吉備で内乱があった時、ここの首長が40艘の船を率いて制圧に当たったとも。
一艘づつに兵士を乗せ、多数の水手が櫓と櫂で一斉に漕ぎ進めたようです。
40艘ともなれば、相当数の軍団だったでしょう。

平成12年、三重県松坂市の宝塚古墳から出土した船形埴輪には二本の帆柱のような
ものが立っていますが、造船技術史の専門家の話では古代、外洋での使用は帆では
不安定で、矢張り、櫓と櫂だったであろう、と云つています。

海に生きる人々が自由に船団を組んで北つ海を行き来していた時代。ふるさと若狭の
輝かしい時代の始まりだったと思います。

                         写真は小浜湾です。

コメント
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