斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

4  【春水満四田】

2016年10月21日 | 言葉
 記者駆け出しの頃
 新聞記者になって4年目の春、新潟県南魚沼郡六日町(現・南魚沼市)の通信部へ赴任した。1人で一定エリアを受け持つのが通信部記者で、警察で言えば「駐在さん」のようなもの。昭和50年5月から56年5月まで通信部記者としては異例に長い6年間、この地に勤務した。
 管内だけで当時50か所のスキー場がある名だたる豪雪地にして、魚沼産コシヒカリの産地。他には特徴のない過疎地だが、赴任の翌年、がぜん世間の注目を浴びることになった。7月27日、この地を選挙区とする前首相、田中角栄氏がロッキード事件で逮捕され、12月に“ロッキード総選挙”が実施されたからだ。大票田の長岡市や出身地の刈羽郡以上に、魚沼地方は後援会「越山会」の金城湯池(きんじょうとうち)とされ、この地発のニュースが多かった。

 驚きの「越山会選挙」
 選挙で田中氏は16万8千余票を取って圧勝した。逆風のなかフタを開けてみれば2位に11万票以上の差をつけていた。世間は驚いたが、魚沼の支持者たちは「ワシらのセンセイなら当然だ」と眉も動かさなかった。
 越山会の強さの秘密は、老人たちの話に耳を傾ければ、すぐに分かる。会員と支部役員、地元担当秘書間の連絡がふだんから密で、どの家の長男が嫁とりに苦労しているとか、二男が就職先を探しているといった情報が、すぐ秘書の耳に入る。会員たちがバス旅行を兼ねて目白の御大邸を訪れると、御大みずから寄って来て「アニ(息子のこと)の嫁とり、○○(秘書の名)に言っておいたから、安心していていいゾ」と声を掛ける。世評通りのコンピュータ付き何とかで、会員たちの心配ごとを事細かに覚えていた。ここまで気配りされて心酔しない会員はいない。
 選挙とは無関係の時期にこまめに面倒を見ているから、選挙前後にあわてて実弾(現金)をカマす、ブザマな選挙運動はやらない。「あそこの人は本当に選挙違反をやらンなあ」。当時、六日町署の刑事課長サンが、そう言って嘆いて(?)いた。

  「春水満四田」の扁額
 田中氏は書も好きだったようで、「越山 田中角栄」の署名と落款付きの扁額を、結構あちこちの会員宅で見かけた。書の良し悪しは分からなかったが、書かれた5文字は印象に残った。
「はるみず、まんよつだ、ですか?」
「違うよ、記者さん。しゅんすい、しでんにみつ、と読むンだ」
「へえー、どういう意味ですか?」
「ああいう意味さ!」
 老人が指差した先に、水を引き終えたばかりの水田が、さっぱりと、せいせいとした感じで広がっていた。5つの文字が印象深かった理由は、あとは田植えを待つばかりに水をたたえた水田が放つ美しさに、ハッとさせられたからだ。
 「春水満四田」が陶淵明の「春水満四沢」から採られたと知るのは六日町を離れた後のこと。しゅんすいしたくにみつ。「沢」の1字を「田」に変えただけ。陶淵明の元の詩からは中国山水画の幽遠な山里の美を連想するが、田中氏の「満四田」は土の匂いのする美意識や生活感、農民たちの喜びや哀感までも伝えているような気がした。
<春水満四沢(春水 四沢に満ち) 夏雲多奇峰(夏雲 奇峰多し) 秋月揚明暉(秋月 明暉を揚げ) 冬嶺秀孤松(冬嶺 孤松秀ず)>
  ちなみに、この五言絶句は陶淵明でなく東晋時代の画家、顧愷之の作とする説もあるようだ。「四沢」の「四」は「四方一帯」という意味で、春の雪解け水が山深い渓谷の隅々にまで満ちみちる情景である。「沢」を「田」とでも変えなければ、人間の臭いが一切しない自然情景のみの写生詩であり、筆者も陶淵明の作ではないように思う。

  雪国の春と秋
 魚沼では11月から雪が舞い始め、翌年3月末まで山野が雪に覆われる。年明けから3月半ばまでは積雪が3メートルに達して家々を埋め、人々は昼なお暗い家にこもって春の兆しを待つ。そして光の4月、農民たちは白一面の田に黒い消雪剤をあまねく撒(ま)き、太陽の熱の恵みを少しでも早く、少しでも多く田へ招き入れようと精を出す。黒い土が見えた時の例えようのない嬉しさ。田を起こし、ふたたび太陽にお願いして光にさらし、十分にさらし終えた後、谷川山系から流れ下る雪解け水を田へ引き入れた。<春水 四田に満ち>た頃は農民が満を持して待ち望んだ時節、一面に水の張られた水田は農民たちの心境そのものであるように思えた。
 雪のない地方の農民たちも、満を持して田に水を張る気持に変わりはあるまい。ただ、雪に半年埋もれながらこの季節を待っていた人々の胸の熱さの方が、少しだけ熱いのではないかという気がする。その熱さのほどが「春水満四田」の扁額になって表れたのだろう。
 春に触れたら秋の美しさにも触れたい。魚沼には見るものすべてが黄金一色に染まる秋がある。田に刈り落ちた稲ワラと、規則正しく延びた刈り跡の列。農道に沿って立つハザキ(ハサキ)には、刈り取られた稲が幾重にも波打つ。よく晴れた日の夕暮れ、太陽が山の端に沈む前の一瞬だけ、光は世界を黄金色に染め上げた。群れなして飛ぶ赤とんぼ、かすかなその羽音、ゆく秋を惜しんで吹く風さえもが、その一瞬だけは黄金色に見えた。

  農民の心に近かった
 「美しい」と思った理由は「春水満四田」のそれと同じだ。農民の喜びが景色の中にとけ込み、見る人にも同じ喜びを伝えていた。マルコポーロは日本について「黄金の国ジパング」とヨーロッパに紹介したが、それは文字通りのゴールドというより、収穫シーズンの日本の秋景色を指してのことのことではないか、とも思えた。
 ハザキによる天然乾燥は当時すでに少なく、大半のコメは農協へ送られ、一夜の機械乾燥で仕上げられていた。消えゆく風景だから余計に美しく思えたのかもしれない。
「でも、ずっと美味いンだよ、日数掛けてハザキで乾燥させた方がね。だから自分のウチで食べる分は、みな天日(てんぴ)干しにしているよ」
 家が農家でもある地域紙の記者が、そう教えてくれたこともある。
 田中氏は「春水満四沢」の扁額も、したためている。「沢」を「田」に換えたのは田中氏の着想だったのか、支持者の要望を容れてのことか。農民の心に近い政治家だったことは確かだ。

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