東久留米 学習塾 塾長ブログ

東京都東久留米市滝山の個別指導型学習塾 塾長白井精一郎のブログ

ゴルバチョフとペレストロイカ

2015-09-19 10:39:13 | 社会の話
こんにちは。東久留米市の学習塾塾長です。

天気予報通り秋晴れのよい天気になり、この好天は1週間ほど続き、快適な連休を過ごせそうです。

さて、先日、塾生からペレストロイカの具体的な内容について質問されたので、簡単にまとめてみました。

ペレストロイカは、1985年3月にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフが、翌年2月の第27回ソヴィエト大会で提示したもので、当時、成長の鈍化、技術革新や産業の高度化の遅れが明らかになったソ連経済を立て直す政策です。

それまでのソ連経済は、計画経済のもと、1938年にアメリカについで世界第2位に達します。ところが、政治・軍事を優先させたため、特に食糧・食品などの民需産業が未発展な状況にありました。

そのようなソ連経済は、1970年代後半には、石油・天然ガスの輸出が好調でアメリカと並び世界をリードしていたのですが、1979年にアフガニスタンのアミン政権の打倒に介入したことによる軍事費負担と、1980年代初めの石油価格下落などにより、ゆきづまっていきます。

このような状況下、登場したのがゴルバチョフですが、当初のペレストロイカは市場経済の導入を目指す経済改革で、具体的には、個人企業の解禁、企業の自主性拡大、外国との合弁事業の認可などでした。ところが、物不足とインフレ、財政赤字と対外債務の増加により経済混乱に陥り、国民生活は窮乏化します。

そして、経済改革が進展しない原因の一つが、共産党内部保守派の抵抗であったため、ゴルバチョフは政治改革にも踏み込んでいくことになります。

ゴルバチョフは、改革派と保守派との間でバランスを取りながら改革推進していくのですが、1991年にソ連邦の体制を変える新連邦条約をまとめると、保守派はクーデターを起こします。

しかし、このクーデターは、エリツィンのロシア共和国政府に指導されたモスクワ市民の抵抗で失敗し、その後、ゴルバチョフは共産党書記長辞任と中央委員会解散勧告を伝え、ついにソ連共産党が解体します。

さらに、1991年12月、ロシア連邦共和国を中心にウクライナ、ベラルーシは独立国家共同体(CIS)を創立したため、ソ連邦は消滅、初代ソ連大統領のゴルバチョフは辞職します。ここで、彼のペレストロイカは終わり、改革運動は、ロシア共和国のエリツィンに引き継がれていくことになります。


ベルリンの壁崩壊やソ連の崩壊は、私が30歳過ぎの出来事なのですが、遠い昔のことのように感じます。今、こうして調べてみると、世界現代史もダイナミックで面白いものです。

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