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《8》南京大虐殺・敗残兵処断の適法性

2015年07月19日 | 南京大虐殺
最終更新:2017.09.08



ここでは以下の事実をもって、「敗残兵の処断は適法」と解釈する。
※敗残兵の処断をもって虐殺、とする主張については他の書籍やサイト等を参照してください。


1)陥落後の城内掃蕩に際して松井司令から「青壮年は全て敗残兵または便衣兵とみなし、全てこれを逮捕監禁せよ。」と軍命が出ている。
2)前項の事実にもかかわらず、訴因54すなわち虐殺の命令・授権・許可が無罪判決、訴因55すなわち俘虜と一般人の保護義務違反のみが有罪である。
3)起訴事実読み上げに捕虜の処刑を糾弾する記述があるにも関わらず、判決文には「南京の不幸な市民を保護する義務を怠った」としか書かれていない。
4)東京裁判判決・第8章に「捕虜」の言及があるとの指摘があるが、他の戦犯の判決文と比較するとその指摘は当たらない。
5)敗残兵の処断を実行した各部隊の師団長・連隊長らが誰も罪を問われていない。
6)1929年ジュネーヴ条約「俘虜の待遇に関する条約」だが、南京戦の時点では日本は署名すれども批准せず、の立場にあった。







《東京裁判の松井司令への訴因概説》

訴因27 → 無罪
第一類 平和に対する罪
要点:中華民国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反

訴因45 → 他の訴因と重複のため判定放棄
第二類 殺人の罪
要点:条約に違背して南京市を攻撃し、かつ国際法に反して住民をおう殺(=皆殺し)することを日本軍に不法に命じ、氏名及び員数不詳なる数万の中華民国の一般人及び武装を解除させられた兵士を殺戮

訴因54 → 無罪
第三類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪
要点:訴因53(=戦争法規慣例違反の共同謀議)の違反行為の実行を命令し授権しかつ許可したことによる戦争法規違反(訴因45に重複)

訴因55 → 有罪
第三類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪
要点:俘虜及びー般人について保護する責任(=法規慣例の遵守)があるところ、故意または不注意にその義務を無視

以上の概説は、以下のサイトを参考にしました。

--【第02項】 『訴因45』と『南京事件』--

http://oira0001.sitemix.jp/frame02.html




《戦時国際法に関する見解》

国際法が専門の青山学院大学名誉教授・佐藤和男博士によれば以下は戦時国際法違反ではないとの判断。

・第九師団歩兵第七連隊による便衣兵6,670人の処断
・第十六師団歩兵第三十三連隊による捕虜3,096人の処断
・第十六師団歩兵第三十旅団による敗残兵数千人の処断
・第百十四師団歩兵第六十六連隊第一大隊による捕虜1,657人の処断
・山田支隊が幕府山付近で捕えた捕虜数千人の処断


また次のような指摘もある。

・支那事変は法的には戦争に該当しない。
・支那事変当時日支両国間に適用されるハーグ陸戦規則には、捕虜の定義は具体的に示されてはいない。
・日本軍は捕獲した敗残兵の処置を状況に応じて、釈放、収容、処断としている。(=一律の処刑とはしていない)
・軍服を脱ぎ捨てて安全区に逃げ込むという行動自体がハーグ陸戦規則に違反している。
・安全区からの敗残兵摘出については、日本軍は「兵民分離」を実施している。
・1929年ジュネーヴ条約「俘虜の待遇に関する条約」については、南京戦の時点では日本は署名すれども批准せず、の立場にあった。(国際赤十字




《捕虜処断を実行した師団のその後》

上述の捕虜等処断を行った各師団長らのその後を記す。見てわかるように、特に誰も処断の罪を問われていない。

金沢第9師団長 吉住良輔中将 → 1963年死去
 金沢歩兵第7連隊 伊佐一男大佐 → 1985年死去
京都第16師団長 中島今朝吾中将 → 終戦直後の1945年10月に病死
 名古屋歩兵第33連隊 野田謙吾大佐 → 1961年死去
 歩兵第30旅団 佐々木到一少将 → シベリア抑留を経て中国に引き渡され1955年撫順戦犯管理所にて病死
宇都宮第114師団長 末松茂治中将 → 1942年より小倉市長を務め、1960年死去
 宇都宮歩兵第66連隊 山田常太中佐 → (不明)
*仙台第13師団長 荻洲立兵中将 → 1949年死去
 *会津若松歩兵第65連隊 両角業作大佐 → 1963年死去

*部隊構成:第13師団>山田旅団>歩兵第65連隊




《東京裁判と南京軍事法廷》

戦後に行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)と南京軍事法廷での、南京事件関連で有罪となった日本軍将兵は以下の5名のみ。

1)司令官・松井石根大将(東京裁判/B級戦犯)
2)第6師団長・谷寿夫中将(南京軍事法廷/南京事件の責任者容疑*1)
3)第6師団45連隊12中隊長・田中軍吉大尉(南京軍事法廷/三百人斬り容疑*2)
4)第16師団9連隊3大隊歩兵砲小隊長・向井敏明少尉(南京軍事法廷/百人斬り容疑*3)
5)第16師団9連隊3大隊副官・野田毅少尉(南京軍事法廷/百人斬り容疑*3)

*1:ただし、第6師団は陥落1週間後の12月21日にはすべて蕪湖に移動している。本来の南京事件は陥落後6週間の出来事とされる。また、陥落後に安全区の掃蕩を実施したのは第9師団歩兵第7連隊である。
*2:「皇兵」という本に収録された「悲願三百人斬田中軍吉大尉の愛刀助広」とのキャプションがついた写真が証拠になったとされる。ただし、45連隊は城外南西の新河鎮などで激戦をしたものの、城内には入城していないとの指摘あり。
*3:東京日日新聞の「百人斬り競争」という記事が証拠になったとされる。ただし、当時の新聞は「○人斬り」というのが定番の誇張表現であり、記事の信憑性に疑いあり。

従って、たまたま記事になって目をつけられた田中、向井、野田の3名を除くと、組織的責任を問われたのは松井司令、谷中将の2名のみ。また、上述のように敗残兵処断を実行した第9、16、114師団と山田支隊の師団長・連隊長クラスで有罪となった人がいないことを併せて考えると、松井司令に対する「市民の保護義務違反」以外の具体的違法行為がなんであったのかが極めて曖昧である。


(追記)文官として南京事件関連で戦犯となった人を追記。

6)広田弘毅・外務大臣(=南京戦当時)(東京裁判/A級戦犯)

訴因1、27、55で有罪。訴因29、31、32、33、35、54は無罪。
判決文の要旨は、南京入城後に残虐行為に関する報告を受けていたのに、これを防ぐための必要な処置を怠った、という内容。

訴因1、27は「平和に対する罪」。訴因1は、侵略戦争の共同謀議など。訴因27は、特に中華民国に対するもの。
訴因55は、米、英、仏、蘭、比、中華民国、ポルトガル、ソ連の軍隊並びに、当時日本の支配下にある諸国における俘虜及び一般人に対する保護義務。




《東京裁判判決・第8章について》

東京裁判において、南京事件関連で有罪となった戦犯は松井石根大将と、広田弘毅・外務大臣の2名である。

その判決において、「捕虜の処刑が断罪されたか否か」が争点になっている。論争になる原因は、東京裁判判決の文書構造にある。詳細説明は省くが、論争は次のようなものである。

争点:「捕虜の処刑は断罪されたか否か」

断罪されていない派:「戦犯個人への判決文(第10章)において、松井・広田両名の文面には『捕虜』の言及がない」
断罪されている派: 「第10章にはなくても、『第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)』に『捕虜』の言及がある」


第8章の文面については次のサイトなどを参照。

極東国際軍事裁判判決 第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)
http://www.geocities.jp/yu77799/toukyousaiban2.html



判決における『第8章』という文書の位置付けが判然としないので、これについての直接的な論評は避け、他の戦犯の判決文(第10章)がどうなっているかを確認する。

以下は、東京裁判で訴因第54または第55で有罪となった戦犯の一覧と、その判決文(第10章)に登場する犠牲者あるいは被害者の表現。

戦犯者氏名  犠牲者または被害者の表現
土肥原賢二  捕虜
畑俊六    捕虜、一般人
広田弘毅   何百という殺人、婦人に対する暴行、その他の残虐行為
板垣征四郎  捕虜と抑留者
木村兵太郎  捕虜の使用、捕虜虐待
小磯國昭   捕虜と抑留者の取り扱い
松井石根   無力の市民、何千という婦人が強姦、十万以上の人々が殺害、南京の不幸な市民
武藤章    捕虜と一般人抑留者、一般住民は虐殺
重光葵    捕虜の取り扱い

訴因54:違反行為の命令・授権・許可による戦争法規違反
訴因55:捕虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反


見てわかるように、南京事件関連の松井・広田両名以外の人たちへの判決文(第10章)には、『捕虜』、『抑留者』などという単語を用いて判決理由を述べている。第8章で説明しているから判決文(第10章)で繰り返す必要がない、などというルールがあるようには見えない。

従って、東京裁判が「南京暴虐事件」と称する南京事件のあらましについて、『第8章』の中で「捕虜」という単語も用いながら説明されているものの、松井・広田両名への判決文(第10章)にだけ「捕虜」という単語が登場しないということは、南京戦における敗残兵の処断については断罪されていない、と解釈する方が妥当だと考える。



以下は、東京裁判で訴因第54または第55で有罪となった戦犯への判決文(第10章)の抜粋。

出典:
アジア歴史資料センター
簿冊標題:A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.164)
レファレンスコード A08071307800


[土肥原賢二]
土肥原は、1944年4月から1945年4月まで、第7方面軍の指揮官であった。この指揮権には、マレー、スマトラ、ジャワ及び一時はボルネオが含まれていた。彼の指揮する地区内の捕虜を、殺害と拷問から保護することに対する彼の責任の範囲については、証拠が矛盾している。少なくとも彼らに食物と医薬品を供給することについて、彼は責任があった。これらの供給に関して、彼らが甚だしく虐待されていたということは、証拠によって明らかである。捕虜は食物を充分に与えられず、栄養不足と食餌の不足による病気とに基づく死亡が驚くべき率で発生した。これらの状態は、捕虜にだけ当てはまったことであり、彼らを捕らえた者の間には起こらなかった。弁護のために、これらの地区における日本の戦局が悪くなり、交通が絶えたので、捕虜に対するいっそう良い補給を維持することができなくなったということが主張された。証拠の示すところでは、食物と医薬品とは手に入れることができたのであり、それを捕虜の恐るべき状態を緩和するために用いることができたはずである。これらの補給は、土肥原がその責任を負うべき方針に基づいて差し止められた。これらの事実の認定に基づいて、土肥原の犯罪は、訴因第55よりも、むしろ訴因第54に該当する。従って、訴因第54について、彼を有罪と判定し、訴因第55については、我々はなんらの判定も下さない。


[畑俊六]
1938年に、また1941年から1944年まで、畑が中国における派遣軍を指揮していた時に、彼の指揮下の軍隊によって、残虐行為が大規模に、しかも長期間にわたって行われた。畑は、これらのことを知っていながら、その発生を防止するために、なんらの措置も取らなかったか、それとも、無関心であって、捕虜と一般人を人道的に取り扱う命令が守られているかどうかを知るために、なんらの方法も講じなかったかである。どちらの場合にしても、訴因第55で訴追されているように彼は自己の義務に違反したのである。
本裁判所は、訴因第1、第27、第31、第32及び第55について、畑を有罪と判定する。訴因第35、第36及び第54については、彼は無罪である。


[広田弘毅]
戦争犯罪については、訴因第54に主張されているような犯罪の遂行を、広田が命令し、授権し、または許可したという証拠はない。
訴因第55については、彼をそのような犯罪に結びつける唯一の証拠は、1937年12月と1938年1月及び2月の南京における残虐行為に関するものである。彼は外務大臣として、日本軍の南京入城直後に、これらの残虐行為に関する報告を受け取った。弁護側の証拠によれば、これらの報告は信用され、この問題は陸軍省に照会されたということである。陸軍省から、残虐行為を中止されるという保証が受け取られた。この保証が与えられた後も、残虐行為の報告は、少なくとも1ヶ月の間、引き続いて入ってきた。本裁判所の意見では、残虐行為をやめさせるために、直ちに措置を講ずることを閣議で主張せず、また同じ結果をもたらすために、彼が取ることができた他のどのような措置も取らなかったということで、広田は自己の義務に怠慢であった。何百という殺人、婦人に対する暴行、その他の残虐行為が、毎日行われていたのに、右の保証が実行されていなかったことを知っていた。しかも、彼はその保証に頼るだけで満足していた。彼の不作為は、犯罪的な過失に達するものであった。
本裁判所は、訴因第1、第27及び第55について、広田を有罪と判定する。訴因第29、第31、第32、第33、第35及び第54については、彼は無罪である。


[板垣征四郎]
1945年4月から降伏まで、板垣が指揮していた地域は、ジャワ、スマトラ、マレー、アンダマン及びニコバル諸島、ボルネオを包含していた。右の期間中、何千という捕虜と抑留者がこれらの地域の収容所に収容されていた。
彼が提出した証言によれば、これらの収容所は、シンガポールにあるものを除いて、彼の直接の指揮下にはなかったが、彼はこれらの収容所に食料、医薬品及び医療設備を供給する責任をもっていた。
この期間中、これらの収容所における状態は、言葉では言えないほど悪かった。食料、医薬品及び医療設備の供給は、甚だしく不充分であった。栄養不足による病気がはびこり、その結果として、毎日多くの者が死亡した。降伏の日まで生き残ったものは、哀れな状態にあった。降伏後に、収容所が視察された時は監視員の間には、そのような状態は見られなかった。
捕虜と抑留者とのこの残虐な取り扱いに対する板垣の弁護は、日本の船舶に対する連合国の攻撃によって、これらの地域への補給物資の輸送が甚だしく困難になったこと、手元にあった補給物資で、彼はできるだけのことをしたということである。しかし、降伏後には、食料と医薬品の補給は、板垣の軍隊によってシンガポール、ボルネオ、ジャワ及びスマトラの収容所の使用に当てることができた。板垣のための証拠及び弁論として申し立てられた説明では、日本側は長期戦を予想し、補給品を使わないで保存していたというのである。このことは、板垣が捕虜と抑留者を甚だしく非人道的に取り扱ったのは、当時の一般的な事情からすれば、正当な理由があったと主張するに等しい。本裁判所は、躊躇なく、この弁護を却下する。板垣は、何千という捕虜と抑留者への補給について責任があったのであるから、その補給が将来維持できないとわかったならば、戦争法規に基づく彼の義務としては、手元にある補給品を分配し、その間に、上官に対して将来捕虜と抑留者を扶養するために、必要とあれば、連合国に連絡して、手配をしなければならないと通告することであった。彼のとった方針によって、彼は、自分が適当に扶養すべき義務のあった何千という人々の死亡または苦痛に対して責任がある。
本裁判所は、訴因第54について、板垣を有罪と判定する。土肥原の場合と同じく、本裁判所は、訴因55については、判定を行わない。


[木村兵太郎]
共同謀議者のひとりとしての彼の活動と相まって、1939年と1940年には師団長として、次には関東軍参謀長として、後には陸軍次官として、彼は中国における戦争と太平洋戦争との遂行に目立った役割を果たした。太平洋戦争の不法性について、完全な知識を持っていながら、1944年8月に、彼はビルマ方面軍の司令官となり、降伏のときまで、引き続いてその地位にあった。
彼は多くの場合に捕虜を作業に使用することを承認したが、その作業は、戦争法規によって禁止されている作業と、何千という捕虜の最大の艱難と死亡をもたらした状態における作業とであって、この点で、彼は戦争法規の違反に積極的な形で参加した一人である。後者の場合の一例は、泰緬鉄道の建設における捕虜の使用であって、これに対する命令は、木村によって承認され、伝達されたものである。
さらに、すべての戦争地域で、日本軍がどんな程度の残虐行為を行ったかを知っていながら、1944年8月に、木村はビルマ方面軍の指揮を引き継いだ。彼がラングーンの司令部に到着した日から、のちに司令部がモールメインに移されたときまで、残虐行為は少しも衰えることのない程度で、引き続いて行われた。彼の指揮の下にある軍隊が残虐行為を行うのを防ぐために、彼は懲戒措置または他の手段を全然取らなかった。
木村の弁護として、彼がビルマに到着した時2、彼はその部隊に対して、正しい軍人らしい行動をとり、捕虜を虐待することを慎むように命令したということが主張された。多くの場合2、彼の司令部から数マイル以内のところで、大規模に行われた捕虜虐待の性質と範囲に鑑みて、本裁判所は木村が戦争法規を実施すべき彼の義務に怠慢であったと判定する。このような事情のもとにおける軍の司令官の義務は、たとい型通りの命令が実際出されたとしても、そのような命令を出すだけで果たされるものではない。彼の義務は、その後戦争犯罪が行われるのを防ぐような措置をとり、そのような命令を発すること、その命令が実行されていることを自ら確かめることである。これを彼は怠った。このようにして、戦争法規の違反を防ぐために、充分な措置をとるべき法律上の義務を、彼は故意に無視したのである。
本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第54及び第55について、木村を有罪と判定する。


[小磯國昭]
小磯が1944年に総理大臣になった時には、各戦争地域で日本軍が犯しつつあった残虐行為とその他の戦争犯罪はよく知れ渡っていたのであるから、これらの悪評が広まっていたことによってか、各省間の通信からして、小磯のような地位にいた者が十分に知っていなかったということは、ありそうもないことである。この事柄は、1944年10月に、小磯が出席した最高戦争指導会議の会合で、外務大臣取り扱いは『大いに改善の余地がある』と報ぜられていると報告した事実によって、疑いの余地のないものとなっている。外務大臣は、さらに、日本の国際的な評判と将来の国交という観点から、これは重要な事項であると述べた。彼は、これらの事項が充分に協議されるように、主管当局者に指令を発することを要求した。その後、小磯は、総理大臣として6ヶ月間在任したが、その間に、日本の捕虜と抑留者の取り扱いには、なんらの改善も見られなかった。これは、彼がその義務を故意に無視したことに相当する。
本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31、第32及び第55について、小磯を有罪と判定する。訴因第36、及び第54については、彼は無罪である。


[松井石根](後述につき省略)


[武藤章]
武藤は、1937年11月から1938年7月まで、松井の参謀将校であった。南京とその周辺で、驚くべき残虐行為が松井の軍隊によって犯されたのは、この期間においてであった。多くの週間にわたって、これらの残虐行為が行われていたことを、松井が知っていたのと同じように、武藤も知っていたことについて、我々はなんら疑問を持っていない。彼の上官は、これらの行為をやめさせる充分な手段をとらなかった。我々の意見では、武藤は、下僚の地位にいたので、それをやめさせる手段を取ることができなかったのである。この恐ろしい事件については、武藤は責任がない。
1942年4月から1944年10月まで、武藤は北部スマトラで近衛第二師団を指揮した。この期間において、彼の軍隊が占領してた地域で、残虐行為が広く行われた。これについては、武藤は責任者の一人である。捕虜と一般人抑留者は食物を充分に与えられず放置され、拷問され、殺害され、一般住民は虐殺された。
1944年10月に、フィリピンにおいて、武藤は山下の参謀長になった。降伏まで、彼はその職に就いていた。この時には、彼の地位は、いわゆる『南京暴虐事件』の時に、彼が占めていた地位とは、全く異なっていた。この時には、彼は方針を左右する地位にあった。この参謀長の職に就いていた期間において、日本軍は連続的に虐殺、拷問、その他の残虐行為を一般住民に対して行った。捕虜と一般人抑留者は、食物を充分に与えられず、拷問され、殺害された。戦争法規に対するこれらの甚だしい違反について、武藤は責任者の一人である。我々は、これらの出来事について、全く知らなかったという彼の弁護を却下する。これは全く信じられないことである。本裁判所は、訴因第54と第55について、武藤を有罪と判定する。


[重光葵]
重光が外務大臣であった1943年4月から1945年4月までの期間を通じて、利益保護国は日本の外務省に対して、連合国から受け取った抗議を次々に伝達した。これらは、責任ある国家機関によって利益保護国に送られた重大な抗議であって、多くの場合に、極めて詳細な具体的事実が添えてあった。抗議の内容となっている問題は、次の通りであった。
(1) 捕虜の非人道的な扱い、(2) 利益保護国に対して、少数の例外を除いては、すべての捕虜収容所の視察を許可することを拒絶したこと、(3) 利益保護国の代表者に対して、日本人立会人の臨席なしには、捕虜と面会するのを許可することを拒絶したこと、(4) 捕虜の氏名と抑留地に関する情報の提供を怠ったこと。これらの抗議は、まず外務省で処理された。必要な場合には、他の省に送られ、外務大臣がこれに同意することのできるような資料が求められた。
日本の外務省と利益保護国との間の長い期間にわたる往復文書を読んで、誰しも疑わないでおられないことは、日本の軍部がこれらの抗議に対する満足な回答を外務省に提供しなかったのには、悪質の理由があったのではないかということ、または少なくとも、問題にされているような行動をした軍部ではなく、その他の機関によって、独立の調査を行うべきであったのではないかということである。抗議に次ぐ抗議は、未回答のままであったか、遅延の理由を説明しないで、何ヶ月も遅れてようやく回答されたかであった。利益保護国による次々の催促も、顧みられなかった。回答された抗議は例外なしに、苦情をいうべきことは何もないと否定された。
ところで、責任ある人々によって行われ、その時の事情と具体的事実とを添えられた苦情が、ことごとく不当なものであるということは、ほとんどあり得ないことであった。その上に、収容所の視察の許可を軍部が拒絶したこと、利益保護国の代表者に対して、日本人立会人の臨席なしには、捕虜と面会するのを許可することを軍部が拒絶したこと、自己の手中にある捕虜について、詳細は事項を知らせるのを怠ったことは、軍部が何か隠すべきことをもっていたという疑いを起こさせるものであった。
重光は、彼の承知してたこれらの事情からして、捕虜の取り扱いが正当に行われていないという疑いを起こしたものと我々が認定しても、彼に対して不当なことにはならない。実際のところ、ある証人は、彼のために、この趣旨の証言をしたのである。ところが、閣僚として、捕虜の福祉について、彼は全般的な責任を負っていたにもかかわらず、問題を調査させる充分な措置をとらなかった。彼は責任が果たされていないのではないかと疑っていたのであるから、この責任を解除させるために、問題を強く押し進め、必要ならば、辞職するというところまで行くべきであった。
重光が戦争犯罪または人道に対する罪の遂行を命令し、授権し、または許可したという証拠はない。裁判所は、訴因第54については、重光を無罪と判定する。
裁判所は、訴因第55について、重光を有罪と判定する。




《太平洋戦争での投降兵殺害の事例》

参考までに次の書籍を紹介する。投降兵があっても殺害する事例は太平洋戦争中の連合国軍でもあったようだ。

リンドバーグ第二次大戦日記 下 チャールズ・A・リンドバーグ
https://www.amazon.co.jp/dp/B01IOFN9UA/
“わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。”
“敵をことごとく殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった。捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。英語を話せる者は尋問のために連行され、あとの連中は「一人も捕虜にされなかった」という。”





《東京裁判・判決文と起訴事実朗読文》

以下に、東京裁判での松井司令への判決文と、起訴事実朗読文を記載する。(他サイトからの借用)



《判決文》


昭和二十三年十一月十二日朗読

松井石根

被告松井は、訴因第一・第二十七・第二十九・第三十一・第三十二・第三十五・第三十六・第五十四及び第五十五で訴追されている。

松井は日本陸軍の高級将校であり、一九三三年に大将の階級に進んだ。かれは陸軍において広い経験をもっており、そのうちには、関東軍と参謀本部における勤務が含まれていた。

共同謀議を考え出して、それを実行した者と緊密に連絡していたことからして、共同謀議者の目的と政策について、知っていたはずであるとも考えられるが、裁判所に提出された証拠は、かれが共同謀議者であったという認定を正当化するものではない。

一九三七年と一九三八年の中国におけるかれの軍務は、それ自体としては、侵略戦争の遂行と見倣すことはできない。訴因第二十七について有罪と判定することを正当化するためには、検察側の義務として、松井がその戦争の犯罪的性質を知っていたという推論を正当化する証拠を提出しなければならなかった。このことは行われなかった。

一九三五年に、松井は退役したが、一九三七年に、上海派遣軍を指揮するために、現役に復帰した。ついで、上海派遣軍と第十軍とを含む中支那方面軍司令官に任命された。これらの軍隊を率いて、かれは一九三七年十二月十三日に南京市を攻略した。

南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。それに続いて起ったのは、無力の市民に対して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であった。日本軍人によって、大量の虐殺・個人に対する殺害・強姦・掠奪及び放火が行われた。

残虐行為が広く行われたことは、日本人証人によって否定されたが、いろいろな国籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的証人の反対の証言は、圧倒的に有力である。

この犯罪の修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占拠されたときに始まり、一九三八年二月の初めまでやまなかった。この六、七週間の期聞において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。

これらの恐ろしい出来事が最高潮にあったときに、すなわち十二月十七日に、松井は同市に入城し、五日ないし七日の間滞在した。自分自身の観察と幕僚の報告とによって、かれはどのようなことが起っていたかを知っていたはずである。

憲兵隊と領事館員から、自分の軍隊の非行がある程度あったと聞いたことをかれは認めている。南京における日本の外交代表者に対して、これらの残虐行為に関する日々の報告が提出され、かれらはこれを東京に報告した。

本裁判所は、何が起っていたかを松井が知っていたという充分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは何もしなかったか、何かしたにしても、効果のあることは何もしなかった。

同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に対して、行動を厳正にせよという命令を確かに出し、その後さらに同じ趣旨の命令を出した。現在わかっているように、またかれが知っていたはずであるように、これらの命令はなんの効果もなかった。

かれのために、当時かれは病気であったということが申し立てられた。かれの病気は、かれの指揮下の作戦行動を指導できないというほどのものでもなく、またこれらの残虐行為が起っている聞に、何回も同市を訪問できないというほどのものでもなかった。

これらの出来事に対して責任を有する軍隊を、かれは指揮していた。これらの出来事をかれは知っていた。かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、その権限をももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。

本裁判所は、被告松井を訴因第五十五について有罪、訴因第一・第二十七・第二十九・第三十一・第三十二・第三十五・第三十六及び第五十四について無罪と判定する。

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』P398~P399)



上記の文面は次のサイトからの借用です。

「極東国際軍事裁判判決」

http://www.geocities.jp/yu77799/toukyousaiban.html






《起訴事実朗読》


十一月十一日朗読

南京暴虐事件

一九三七年十二月の初めに、松井の指揮する中支那派遣軍が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するために残留した少数のものを除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。

中国軍は、この市を防衛するために、約五万の兵を残して撤退した。一九三七年十二月十二日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。

中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したので、一九三七年十二月十三日の朝、日本軍が市にはいったときには、抵抗は一切なくなっていた。

日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵は同市を荒し汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。

目撃者達によって、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、同市は単に組織的な戦闘で占領されただけではなかったこと、戦いに勝った日本軍は、その獲物に飛びかかって、際限のない暴行を犯したことが語られた。

兵隊は個々に、または二、三人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人・強姦・掠奪・放火を行った。そこには、なんの規律もなかった。多くの兵は酔っていた。それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、遂には所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。

他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものはだれでも射撃された。

これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少くとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。

多くの強姦事件があった。犠牲者なり、それを護ろうとした家族なりが少しでも反抗すると、その罰としてしばしば殺されてしまった。幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。そして、これらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。 多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後の最初の一カ月の間に、約二万の強姦事件が市内に発生した。

日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪った。兵が道路で武器をもたない一般人を呼び止め、体を調ベ、価値のあるものが何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。掠奪された物資はトラックで運び去られた。

日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった。最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに市の商業区域が一劃々々と相ついで焼き払われた。なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は焼き払った。 このような放火は、数日後になると、一貫した計画に従っているように思われ、六週間も続いた。こうして、全市の約三分の一が破壊された。

男子の一般人に対する組織立った大量の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによって行われた。中国の一般人は一団にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によって、そこで集団ごとに殺害された。 兵役年齢にあった中国人男子二万人は、こうして死んだことがわかっている。

ドイツ政府は、その代表者から、『個人でなく、全陸軍の、すなわち日本軍そのものの暴虐と犯罪行為』について報告を受けた。この報告の後の方で、『日本軍』のことを『畜生のような集団』と形容している。

城外の人々は、城内のものよりもややましであった。南京から二百中国里(約六十六マイル)以内のすべての部落は、大体同じような状態にあった。

住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で、かれらは避難民部落を組織した。日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。

南京から避難していた一般人のうちで、五万七千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。

中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから七十二時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、かれらは集団的に射殺された。

このようにして、右のような捕虜三万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。

後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって証明されている。

これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。

日本の大使館員は、陸軍の先頭部隊とともに、南京へ入城した。十二月十四日に、一大使館員は、『陸軍は南京を手痛く攻撃する決心をなし居れるが、大使館員は其の行動を緩和せしめんとしつつあり』と南京国際安全地帯委員会に通告した。

大使館員はまた委員に対して、同市を占領した当時、市内の秩序を維持するために、陸軍の指揮官によって配置された憲兵の数は、十七名にすぎなかったことを知らせた。

軍当局への抗議が少しも効果のないことがわかったときに、これらの大使館員は、外国の宣教師たちに対して、宣教師たちの方で日本内地に実情を知れわたらせるように試み、それによって、日本政府が世論によって陸軍を抑制しないわけには行かなくなるようにしてはどうかといった。

ベーツ博士の証言によると、同市の陥落後、二週間半から三週間にわたって恐怖はきわめて激しく、六週間から七週間にわたっては深刻であった。

国際安全地帯委員会幹事スマイス氏は、最初の六週間は毎日二通の抗議を提出した。

松井は十二月十七日まで後方地区にいたが、この日に入城式を行い、十二月十八日に戦没者の慰霊祭を催し、その後に声明を発し、その中で次のように述べた。

『自分は戦争に禍せられた幾百万の江浙地方無辜の民衆の損害に対し、一層の同情の念に堪えぬ。今や旭旗南京城内に翻り、皇道江南の地に輝き、東亜復興の曙光将に来らんとす。この際特に支那四億万蒼生に対し反省を期待するものである』と。松井は約一週間市内に滞在した。

当時大佐であった武藤は、一九三七年十一月十日に、松井の幕僚に加わり、南京進撃の期間中、松井とともにおり、この市の入城式と占領に参加した。

南京の陥落後、後方地区の司令部にあったときに、南京で行われている残虐行為を聞いたということを武藤も松井も認めている。これらの残虐行為に対して、諸外国の政府が抗議を申込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。

この事態を改善するような効果的な方策は、なんら講ぜられなかった。松井が南京にいたとき、十二月十九日に市の商業区域は燃え上っていたという証拠が、一人の目撃者によって、本法廷に提出された。この証人は、その日に、主要商業街だけで、十四件の火事を目撃した。松井と武藤が入城してからも、事態は幾週間も改められなかった。

南京における外交団の人々、新聞記者及び日本大使館員は、南京とその附近で行われていた残虐行為の詳細を報告した。

中国へ派遣された日本の無任所公使伊藤述史は、一九三七年九月から一九三八年二月まで上海にいた。日本軍の行為について、かれは南京の日本大使館、外交団の人々及び新聞記者から報告を受け、日本の外務大臣広田に、その報告の大要を送った。

南京で犯されていた残虐行為に関して情報を提供するところの、これらの報告やその他の多くの報告は、中国にいた日本の外交官から送られ、広田はそれらを陸軍省に送った。

その陸軍省では、梅津が次官であった。これらは連絡会議で討議された。その会議には、総理大臣・陸海軍大臣・外務大臣広田・大蔵大臣賀屋・参謀総長及び軍令部総長が出席するのが通例であった。

残虐行為についての新聞報道は各地にひろまった。当時朝鮮総督として勤務していた南は、このような報道を新聞紙上で読んだことを認めている。

このような不利な報道や、全世界の諸国で巻き起された世論の圧迫の結果として、日本政府は松井とその部下の将校約八十名を召還したが、かれらを処罰する措置は何もとらなかった。一九三八年三月五日に日本に帰ってから、松井は内閣参議に任命され、一九四〇年四月二十九日に、日本政府から中日戦争における『功労』によって叙勲された。

松井はその召還を説明して、かれが畑と交代したのは、南京で自分の軍隊が残虐行為を犯したためでなく、自分の仕事が南京で終了したと考え、軍から隠退したいと思ったからであると述べている。かれは遂に処罰されなかった。

日本陸軍の野蛮な振舞いは、頑強に守られた陣地が遂に陥落したので、一時手に負えなくなった軍隊の行為であるとして免責することはできない。強姦・放火及び殺人は、南京が攻略されてから少くとも六週間、そして松井と武藤が入城してから少くとも四週間にわたって、引続き大規模に行われたのである。

一九三八年二月五日に、新任の守備隊司令官天谷少将は、南京の日本大使館で外国の外交団に対して、南京における日本人の残虐について報告を諸外国に送っていた外国人の態度をとがめ、またこれらの外国人が中国人に反日感情を煽動していると非難する声明を行った。

この天谷の声明は、中国の人民に対して何物にも拘束されない膺懲戦を行うという日本の方針に敵意をもっていたところの、中国在住の外国人に対する日本軍部の態度を反映しものである。

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』P395~P398)



上記の文面は次のサイトからの借用です。

「極東国際軍事裁判判決」

http://www.geocities.jp/yu77799/toukyousaiban.html




《東京裁判・判決文の抜粋》

アジア歴史資料センター
件名標題(日本語) A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.164)
レファレンスコード A08071307800



(松井石根)











(広田弘毅)





(主な訴因)















《関連記事》

「南京大虐殺の真相」
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/eaacb2fee7e20c9adc4799020776c9d1






改版履歴:
2016.12.24 全体的に書き換え。
2017.09.05 図を追加。
2017.09.07 東京裁判判決文画像を追加。広田弘毅・外務大臣について追記。
2017.09.08 《東京裁判判決・第8章について》を追記。


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