つぶやき、或は三文小説のやうな。

自由律俳句になりそうな、ならなそうな何かを綴ってみる。物置のような実験室。

小僧の神様

2016-08-27 18:07:07 | よしなしごと
運賃箱の前で、私は固まった。
確かに財布を重くするのが嫌で、小銭はなるべく減らすように支払うのが常である。それが仇となり、こんなところで窮地に立たされる羽目になるとは。
私の脳が急速回転して、学生時代の友人の逸話を再生した。辺鄙な場所にある学校へ行くための手段はふたつ。JRの駅から私鉄に乗り換え、最寄り駅から30分歩くか、バスに乗り換えて20分揺られるか。急いでいることもあり、彼女はバスを取った。ステップにあがり、小銭はおろか千円札もないことが分かって慌てたが遅かった。運転手には釣り札がないとけんもほろろに突き返され、仕方なしに有り金を全部はたいて5000円のバスカードを2枚買うことになった。
バスに乗るのは、ひと月に一度あるかないかなのに。なぜ財布の中やポケット(よく釣り銭をねじ込んでいる)を確かめてから乗らなかったのか。バスは発車している。鞄の底に転がっていないかと淡い期待を込めて覗いてみたが、こんな時に限って一円玉すら見つからない。ああ、必要なのは百円玉ひとつなのに。
「どうぞ」
はっきりとした発音とともに、横から細い手が伸びてきた。バスはいつの間にか、次のバス停に到着していて、運賃箱の前で焦る私の脇を乗客がすり抜けて行く。
声の主は小学校高学年の男の子だった。きれいに切り揃えられたつやつやした髪に細いフレームの眼鏡をかけた理知的な面差しが、みっともなく焦る私を生真面目に見上げている。彼の手には百円玉が握られていた。
「……あの、いいんですか」
おそるおそる、私はたずねた。見も知らぬ赤の他人同士である。
「はい」
少年は歯切れよく答える。
「あの、ありがとうございます。じゃあ、お借りします。ありがとうございます」
私はへどもどと礼を言い、少年はこちらはやんちゃそうなあどけない弟を連れて後方の二人掛けの席に着いた。
すべてが自然で、何の気負いもなく行われたことに感動を隠せなかった。惚けている私を、発車準備を終えた運転手が苦笑せんばかりに横目で見ている。
情けなさと恥ずかしさ、それを上回る感激と感謝の念に呑み込まれて私はそそくさと手の中であたたまっていた小銭とともに彼の百円玉を運賃箱に投じた。

ヒーロー

2016-08-25 08:04:45 | 文もどき
雑踏の正体は、やはり靴音なのだろう。カシャン、というのは落下音であったらしい。そのものは見えなくても、音だけはやけに響くものだ。
乗り換えのプラットフォームへ押し流される最中、彼は全力投球を終えた球児のような、はたまた道化の大袈裟すぎるお辞儀のような姿勢を見せた。だぶついたワイシャツに黒のナイロン地のショルダーバッグ、てっぺんの少々薄くなり始めた頭髪。よく見かける、典型的なオジさんだ。
オジさんは茶色のサングラスだか髪留めだか、プラスティック製の何かを拾い上げるとスティールでも決めるかのように走り出す。身のこなしが軽い。
ありがとうございますぅ、と明るい女性の声が前方でファンファーレのように鳴り響く。軽くぺこりと頭を下げたオジさんが、ななめ後ろから見えた。あの髪型はてっぺんではなく、生え際の後退した結果らしい。
群れて泳ぐ魚のような人波を外れて、オジさんは去っていった。夏痩せしたのか、ウエスト周りの緩いスラックスに何度もシャツを押し込みながら国道へ向かう痩躯に、ひっそりと喝采を送る。
かっこいいぞ、オジさん!