つぶやき、或は三文小説のやうな。

自由律俳句になりそうな、ならなそうな何かを綴ってみる。物置のような実験室。

永い言い訳

2016-08-24 19:24:34 | 文もどき
書いて消してを繰り返している。どこにも痕跡は残らないけれど、書いている。どうしても自分で自分を御せないときには、いつもそうする。それがいつか活計になり、生業になり、人生になる。津村啓という作家は、幾ばくかフィツジェラルドを想わせる。そうして、浅野稀を思い出させる。
彼女の作品に触れるとき、覚束ない足取りで川底を行くような錯覚を起こす。清涼で明澄な水面はいつもゆらゆらと揺れて、見えているのに正しく像を結ばない。
Sちゃんに連れられて'ゆれる'を観たのはもう、かなり昔のことだ。
人間は書き割りじゃない。虚実が相滞在し、善と悪とが振り子のように芯を揺さぶる。何ひとつ確かなものなど持ち得ないのだ。そう自分に言い聞かせていても、脳はあっさりと御都合主義を提案してくる。砂漠の蜃気楼のごとくあらわれては翻弄することくらい、嫌という程わかっているつもりでも虚像に縋りつく。
稔にとっての猛も、猛にとっての稔も、どちらも彼ら自身でないことくらい互いにわかりきっているはずなのに。誰かにとっての自分は、たいてい自分が思うそれから遠く離れているものだ。
おそらく、ロードショウには足を運ぶだろう。Sちゃんもどこかで観ていると思う。
あの日から吊り橋は揺れていて、水底の景色はまだ、見えそうにない。

永い言い訳/西川美和(文藝春秋)