つぶやき、或は三文小説のやうな。

自由律俳句になりそうな、ならなそうな何かを綴ってみる。物置のような実験室。

ノクターン

2016-06-22 08:55:10 | 文もどき
ノクターンと聴いて浮かぶ旋律がショパンの第2番でも遺作でもなく、ベートーヴェンの月光だということに軽い戦慄を覚えたのはここだけの話だ。

Indian Nocturn
夢のまにまにインドを旅する男の物語である。
丁寧な筆致で匂い立つようなスラム街の喧騒や猥雑な安宿、清潔という概念の入り込む隙間に虫が詰まっている病院、それらに紗をかけた上に王冠を戴くかのごとくふわりとつま先立つ絢爛豪華なホテルが描き出される。圧倒的な存在感を持ってインドの風景が広がっていく。
または、インドを夢想する男の物語である。
ガンジスがすべてを飲み込んで流れていかない物語の中で、人間は、世界はつくづく二元論的だと思い知る。
眠りと覚醒。
貧困と富裕。
男と女。
出会いと別れ。
美しさと醜怪さ。
雄弁と思慮。
生と死。
アトマンとマーヤー。
静かに、淡々と、どこか不穏な暗喩をはらんで物語は過ぎてゆく。いつ始まって、いつ終わるのかも告げぬまま。
魂の代わりに空虚を抱いて流離う男。
幻想的で捉えどころがないのに、心を掴んで離さない。読み手によって、彼はいく通りの人物にもなる。書き手の手を離れ、物語は自由だ。私は旅する彼であり、彼は夜に魅入られた私なのである。

蛇足。
物語を読み解くキィのひとつは、間違いなく私に取り憑いたペソアである。彼は筆名を変えると同時に、別人の視点で物語を紡いだ。人間に内在する多面性に名をつけると、それはもう別の誰かになってしまう。
どちらがアトマンでどちらがマーヤーか、あなたにはわかるだろうか。

インド夜想曲/アントニオ・タブッキ(白水社)