つぶやき、或は三文小説のやうな。

自由律俳句になりそうな、ならなそうな何かを綴ってみる。物置のような実験室。

ペソア再び

2016-06-10 20:06:49 | 文もどき
I know not what tomorrow will bring.
臨終に際し、こう書き残して黄泉へ眼鏡をかけて逝こうと所望したそうだ。

フェルナンド・ペソア。
ポルトガルが生んだ20世紀最大の詩人。
不世出の天才。
わたしは、彼の作品を知らないし、唯一自由に操れる言語で読むことが叶うのかも感知していない。
活字の中に天啓を見る御仁は少ないのかもしれないが(或いは、単なる酔狂と思われるかの判断はお任せする)、たまさか書店で手に取った文芸書に、娯楽小説に、何らかの意味を読み取ったとしてほしい。潜入中の諜報員が、連絡員と情報をやり取りする符牒に似ている、隠微な歓びが湧き立つあの瞬間のことだ。
現実を思い煩う脳からの逃避行としての読書、という前提を書き添えればわかりやすいだろうか。拭っても閉じ込めても染み出してくる思考の残滓で身動きが取れなくなるときに、この現象はよく起こる。賛否については特に聞くに値しない。私の頭蓋の内側で起こるごく個人的な体験を共有できるとは思えない。少なくとも、今はまだ。
ペソアである。またもペソアである。
どうにも、ささくれのように、あるいは青魚の小骨のように引っかかる名前だ。それで、すむはずだったのだ。
天啓の話に戻る。
その日、100年ほど前のシティに勤めるようなビジネスパーソンに向けて著された啓蒙書を、なぜか手に取った。今も昔も、忙殺される人間の思考は変わらないのだ。おしまいの章に、読書好きのあなたへ、とある。
詩を読め。
結論はこうであった。より良い人生のために詩を読め。前世紀最大のポルトガル詩人の名をぶらさげているところに、これである。
ヘウレーカ。
このあと、私がペソアに出会えるかどうかは書店の神のみぞ識る。おそらくそう遠くないうちに、むこうから鼻歌まじりにやってくると想像している。