八正道

お釈迦様の言葉とのことですが、常に、これら八つの言葉で
示される正しい道を進むように心がけたいと思います。

『般若心経』ー全文

2009-01-27 03:38:17 | Weblog

今回は「般若心経」の全文(266文字)を掲げます。

 『仏説 摩訶般若波羅蜜多心経』

 観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。

 舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。 舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。

 是故空中無色。無受想行識。 無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。 無眼界乃至無意識界。無無明亦無無明尽。乃至無老死亦無老死尽。無苦集滅道。

 無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒無想。究竟涅槃。

 三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜多。

 是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚。

 故説般若波羅蜜多呪。即説呪曰。

 掲帝。掲帝。波羅掲帝。波羅僧掲帝。菩提僧娑訶。

 般若心経。

(「般若心經 講話」・橋本凝胤 著・誠心書房刊 P4~P7)

 私の書棚には「般若心経」の解説本が17冊並んでいます。これ以外にも、私は約30年間に渡って読書し、考え、唱えてきましたが、未だに納得できる解釈の仕方が定まっていません。

 考えてみれば、「般若心経」の教えは、当に、仏教で説かれる「知恵の完成」の教えです。私のような凡人が絶対的な解釈などできるわけがありません。

 『八千頌般若経』の中で世尊は次のように述べられています。 ”この知恵の完成の意味を解釈し、心で吟味し、すぐれた知識に従って、それに 熟慮を加えるとしよう。正しい教えを長く存続させるために、「仏陀の案内人(知恵の完成)が断絶しないように、正しい教えが消えないように、(以下・・・・・・省略)」”と。 ( 大乗仏典2 八千頌般若経 Ⅰ 梶山雄一訳 中央公論新社 P91 )

 まことに意味深いことばです。私はこれからも、このような教えがあることを念頭に置いて、「般若心経」を唱え続けて行こうと考えています。


凡夫が読む『般若心経』ー5

2009-01-24 03:42:31 | Weblog

 前回からの続きです。

・ 経 

 舎利子。 色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。 舎利子。 是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。

・私の解釈

 「色即是空・空即是色」については、H.21.1.3日付けの投稿文でも私の解釈を示しました。しかし、文章がはなはだ拙文のため上手く説明しきれていません。

 あらためて、「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色」について、私の解釈を説明させて頂きます。

 私たちは六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を通じて、いろいろさまざまな事象についての情報を取り入れます。私たちが取り入れる事象は、すべてそれが属する物事としての主体があり、その主体に対して、私たちの因縁が働くことによって取り出されたものであると思います。つまり、事象が属する物事には無量・無数・無限の属性があり、私たちが取り入れる事象は因縁に基づくものに限られますから、属性のうちの一部に限られたものであるということです。

  事象が属する物事には、その属性が無量・無数・無限に存在するため、主体の相は「空」であるというのです。

 ここで、私は考え方を整理するために、次のように言葉を定義することとします。

 ・「意識領域」

   因縁の働きによって、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を通じて取り入れる事象の情報が最初に格納される領域。

 ・「物事」

   事象が属性として含まれる主体。この物事には無量・無数・無限の属性が存在するから、その相は「空」である。

  仏教の教えにも「ものは本体がないから空であるという。それはそれが絶対的に清浄であるということだ」、さらに、「空とは事実の実相そのものである。実相がそのまま無相なのであり、無相なるものとしてのみ事実は真に事実として現成する」とあります。

 以下説明を続けます。

事象(色)が属する物事の本性は「空」です。また、事象(色)は私たちの対象として因縁の働きによって意識領域の中に取り入れられたものです。

 このことは、「空」から「色」が現れたということになります。つまり「空即是色」ということです。

 当然のこととして、因縁が変われば意識領域の中にとりいれられる事象も変わります。前の事象(色)はどうなったかというと、意識領域の中からは消えて(空) なくなる、と同時に、物事の属性の一つとして空相の中に取り込まれますから(空)になるということです。つまり「色即是空」ということです。

 「色不異空・空不異色」についても同様に考えることができます。つまり、物事の相は空相であり(空)、事象は因縁の働きによって私たちの「意識領域」に取り込まれます(色)。これが「空不異色」であるという意味です。

 また、因縁が変われば「意識領域」に取り込まれる事象も変わり、先に存在していた事象(色)は元の物事の属性として取り込まれてしまうことになります(空)。これが「色不異空」であるという意味です。

 同様のことは、「意識領域」に取り込まれる事象の有無(「色」と「空」)についても説明できますが省略します。

 このような考え方は、色(物質的現象)だけでなく、受(感覚作用)、想(,表象作用)、行(意志作用)、識(認識作用)についてもまったく同様に考えることができますから、「受想行識亦復如是」ということです。

 つまり、五蘊(色・受・想・行・識)のすべてについて、それぞれに私たちの対象となる事象が属する物事の相は「空」である、ということが基本であると思います。

  つぎに、「是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減」についてです。

  ここで法とは、先の五蘊の対象となるものすべての「もの」を意味します。前述のとおり、すべての「もの」は、その本性は空相であります。

 私たちの対象となる「もの」は、すべて因縁の働きによって空相の中から属性の一つが事象として取り出されたものです。しかも事象は別の因縁が働くことによって消えてなくなります。消えますがこの世から消えてなくなってしまったわけではなく、もとの空相の中に隠れてしまったというふうに考えるのが妥当であると考えられます。つまり、事象は「不生不滅」であるということです。

 また、事象は「空」の中から出たり入ったりするだけですから「不増不減」です。

 更に、先に「物事」の定義でも記しましたように、空相とは清浄であるということです。このことから「不垢不浄」であるということが理解できます。

 以上が、「是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減」についての私の解釈です。

  私たちが「般若心経」を読誦し、学び、教えを実践するときには、常に、私たちは「空の世界」のなかで生活を営んでいることを念頭に置く必要があると思います。

 私の限界

 私は「色不異空・空不異色」と「色即是空・空即是色」の解釈について同じような説明文になってしまいました。これは私の表現力が不足しているためであります。実際、これらには、微妙な違いがあるということは何となく分かるのですが、私は言葉で説明することができません。

 脚注 :  「法」とは

 ① 宗教、道徳、教え ② 人やものの性格・属性 ③ 事物、「もの」 ④ 意識の対象としての概念、考えられるもの、など、種々の意味をもっている。(「新版 仏教学辞典」・(株)宝藏館刊 による。)


凡夫が読む『般若心経』ー4

2009-01-16 03:13:02 | Weblog

前回からの続きです。

  観自在菩薩。 行深般若波羅蜜多時。照見 五蘊皆空 度一切苦厄。

 この経文によりますと、私たちは「空の世界」で生きており、生活のすべては「因縁」の働きによって営まれているということが完全に理解できれば、一切の不安や苦しみを取り除くことが出来る、ということです。

 以下、順を追って解釈します。

 「観自在菩薩」とは、いわゆる観音さまのことで、私たちが困ったときに念ずれば、いつでも私たちを助けてくださる、と言い伝えられている菩薩です。すなわち、観音さまは条件さえ整えば、私たちの心の中に現れて下さると考えられます。(この場合の条件については今後の研究課題です)

  観音さまは、常に、知恵の完成にとどまっておられますから、私たちが求めれば、いつでも私たちを正しい方向へと導いてくださる菩薩です。

 次の経文によって観音さまの導き方が説明されています。

 「行深般若波羅蜜多時。照見 五蘊皆空。度一切苦厄。」

 知恵の完成に熟達された観音さまが人間の心身について深く考察された結果、五蘊はすべて「空」であることをはっきり認識された。この認識を働かせることによって、人間は一切の苦しみを取り除くことが出来るということを実証された、というのです。

 五蘊とは、つまり色・受・想・行・識であり、それぞれに物質的現象・感覚・想念・行為・認識が対応します。また、これらは人間の心身に具わる諸要素であるとも言われています。これら心身の緒要素は、すべて「空」であるというわけです。

  私たちが生活の中で関わる五蘊(色・受・想・行・識)とは、それぞれに「空」の中から小さな一部分のみが、因縁の働きによって現出するものである、と考えられます。

  たとえば、感覚作用を例に挙げて確認します。私たちは怪我をすると「痛い」と感じます。これは五蘊の中の「受」という感覚作用によって「痛い」と感じるわけです。しかし、この「受」の本性は「空」であり、通常はなにもありません。何故、「痛い」と感じるかといえば、その原因があるからです。つまり因縁の働きがあるからです。因縁の働きによって「痛い」と感じるのであれば、私たちは「痛さ」を消滅させるような因縁を働かせば、痛さから解放されるはずです。

 五蘊の中の「想」における「苦しみ」についても同様に考えることができます。つまり、「苦しみ」は因縁を変えることによって、取り除くことができるということです。

  「度一切苦厄」とは、一切の苦しみのない境地に達することができる、という意味です。

 どういうことかといいますと、事象のすべては、その本性が「空」であるということと、因縁の働きを知り尽くせば「苦」を「楽」に転換することができるという教えです。 だから、因縁の働きが自由自在に制御できるようになれば、「苦」を取り除くことができるというわけです。

 もともと「苦しみ」を意識する想念とは、想念自体の本性が「空」であり、「苦しみ」は因縁の働きによる一時的な現象にしか過ぎない、と考えることが出来ます。

 なお、ここでいう「度」とは、

 "迷いの生存の海をわたり、迷いの世界(此岸)からさとりの世界(彼岸)に達すること" という意味です (「新版 仏教学辞典・(株)宝藏観」による)。


凡夫が読む『般若心経』ー3

2009-01-11 03:28:51 | Weblog

 「般若波羅蜜多心経」について

 ・「般若」の意味

   般若とは、すべての事物の道理を明らかに見抜く深い智慧のことです。(「新版 仏教学辞典」・(株)宝藏館刊 による。以下、これを単に「辞典」と記します)

  般若について、具体的に詳しく説明することは不可能であると思います。何故なら、般若の対象となる「すべての事物」は実相が「妙有真空」ともいわれる「空」であり、その中味は無量・無限の相で満たされているからです。ですから、「般若の智慧」とは直観的に把握するより他に理解のしようがないと思います。

 ・「波羅蜜多」の意味

  波羅蜜とは、迷いの此岸(凡人の世界)からさとりの彼岸(菩薩大士又は仏の世界)に到る、或は渡る、ということ。または、完成、熟達、至高という意味があるとのことです。(「辞典」による。ただし、カッコ内は筆者の注記)

 また、仏典によりますと、迷いの此岸からさとりの彼岸へ渡るということは、智慧という「いかだ」に乗って渡るようなものである、というふうに説かれています。 つまり、「いかだ」は河を渡ってしまえば、不要となるように、智慧もさとりの世界へ熟達すれば不要となるものである、というのです。   但し、智慧が不要になるという意味は、菩薩が厳しい修行の結果、もはや意識して智慧を働かせる必要がない境地に達するということである、と私は考えます。

  仏教では、「いかだ」に喩えられる「智慧」を完成するために必要な修行徳目として、六波羅蜜とか四波羅蜜とかを挙げています。(カッコ内の説明文は「辞典」による)六波羅蜜とは、六度とも訳し、六種の行といわれるもので次のとおりです。

・布施波羅蜜(完全な施し) ・持戒波羅蜜(掟[戒]を完全に守る事) ・忍辱波羅蜜(完全な忍耐) ・精進波羅蜜(完全な努力) ・禅定波羅蜜(完全な心の統一) ・智慧波羅蜜(完全な智慧,すなわち、人間的理性を超えた無分別の智慧)

 また、四波羅蜜とは次のとおりです。

・常波羅蜜(完全な永遠性) ・楽波羅蜜(完全な安穏性) ・我波羅蜜(完全な主体性) ・浄波羅蜜(完全な清純性)の四で、涅槃(さとり)に具わる四つの勝れた特質(四徳)である。

  波羅蜜多とは、これら全ての修行徳目を完全に実践された後に、智慧の完成が熟達されたという意味であるとのことです。

 菩薩大士や仏さま方は、これら全ての修行を実践され、知恵の完成に熟達されているのです。

 私たち凡人は、このような修行徳目を言葉として理解できても完全に実践することは不可能であると思います。そこで、私たちができることと言えば、「般若波羅蜜多心経」(般若心経)で説かれている智慧を働かせることによって、苦しみを取り除いたり、私たちの生活が「空」と「因縁」の働きによって営まれていることを理解する程度です。

 しかし、私たちが「知恵の完成」に達することは不可能であるとしても、「般若心経」の教えに従えば生活の中から苦しみや不安を取り除くことができるということはありがたいことです。 つまり、私たち凡人は智慧という「いかだ」から転落しないように注意しながら仏教を学び続ければよいのです。そのような生活をすることによって、私たちはさとりの世界へ向かって成長することができるということです。

・「心経」の意味

 「心経」とは、般若の智慧を完成することを目的とした教説の真髄を説く経文である、という意味を表しているとのことです。

 私たち凡人は「般若心経」を読誦し、覚え、経文の意味を修得すれば、「人間の心のはたらき」が理解できる、と私は考えています。


凡夫が読む『般若心経』ー2

2009-01-03 03:47:11 | Weblog

 皆様、あけましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いします。

 本年は、コメントを期待しながら、先ず「般若心経」について投稿します。

「色即是空・空即是色」について

 先ず「般若心経」の中心思想である「色即是空・空即是色」について、私は三通りの解釈をしています。

 一つは、

「色すなわち物体や事象の本性は空であり、空が即ち物体や事象の本性である」という解釈です。

どういうことかといいますと、私たちが関わる物体や事象は、すべて因縁に基づいてのみ対象となります。従って、因縁が変われば物体や事象(以下「物事」という)の現れ方も変わります。

例えば、一つの物体を例に挙げれば、物体は特有の分子構造を持つという微細な見方から、存在物として無限の広がりを持つ宇宙的な見方(思想的、芸術的、生物的、物理的など)に至るまで、無限の相があると思うのです。その無限の相の中から因縁の働きによって一つの相が現実化される、ということができます。

「妙有真空」ということばで象徴されるように、この無限の相は「空」にも等しいと考えることができますから、すべての物体の本性は「空」であるということになります。このように無限の相を持つということは、すべての「物事」についても同様であると思います。

故に、「色即是空・空即是色」とは、私たちからみて、「色すなわち物体や事象の本性は空であり、空が即ち物体や事象の本性である」ということである、と解釈しています。

 二つ目の解釈はのとおりです。

 私たちの日常生活の場は、最小限、絶対的に必要や構成要素として、①私たち自身 ②物体や事象 ③時間 ④場所 ⑤因縁の作用力があると思います。

ここで特に強調しておきたいことは、私たち自身の「六識」についてです。私たちは外界の情報を、先ず最初に、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)から六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)の働きによって、受け入れます。私は、この六識を「意識領域」と命名して考えることにします。

 私たちは、先に挙げた五つの構成要素から成る「場」の中で日常生活を営んでいます。しかも生活は常に、因縁に支配されながら、いろいろな「物体や事象」と関わり、「時間」や「場所」の移り変わりの中で営まれているのです。

 そこで、外界の「物体や事象」の情報は、先ず、その状況に応じて私たちの「意識領域」の中に入り、頭脳内に記録され、行動や思考に転化される、という流れがあると考えます。

 そこで、「時間」と「場所」が変われば、「意識領域」の中では「物体や事象」の情報が入れ替わります。 つまり、人々の「意識領域」の中では過去に経験したことは、すべて「空」になるというわけです。

  私たちが外界の情報を受け入れる流れを例えていえば、走る電車の窓から眺められる外の景色が次々に移り変わるように、私たちの生活は様々な「物体や事象」の情報を「意識領域」の中に次から次へと受け入れながら営まれている、と考えることができます。世の中の「物体や事象」(色)から見れば、常に「空」である「意識領域」の中へ、その情報が一時的に取り込まれるということです。

 ここで、私たちの「意識領域」を蔵にたとえれば、蔵は常に「空」であり、私たちが外界の「物体や事象」に出会う毎に、蔵に物事の情報(色)が取り込まれる、というふうに考えます。つまり、「空」が「色」になるということです。この「色」は、「時間」とか「場所」が変われば、「空」となり、直ぐに別の「色」が取り込まれます。この時、「意識領域」という蔵に取り込まれる「色」は、勿論、私たちが体験する因縁に基づいた一つの相として現実化されたものです。このことから、蔵の中、つまり私たちの「意識領域」のなかは因縁によって「空」が「色」になり、「因縁」、「時間」、「場所」等が変われば、「色」が「空」になり、新たな因縁によって「空」の中には新たな「色」が入るということです。

 (簡単にいえば、私たちが場所を移動すれば、先に視界に入っていた物体は消えてなくなり、新たな物体が視界に入ります。その状況は、私たちの「意識領域」の中で「色」が「空」になり、「空」が「色」になるということです)。

 故に「色即是空・空即是色」である、というのが私の解釈です。

 三つ目の解釈としては、前二者の解釈を総合的に捉えます。

つまり、すべての物事の全相は無量・無限であるから「空」にも等しい。私たちは因縁によって、その全相を含む「空」の中から特定の一つの相のみを取り出して「意識領域」の中で現実化している。これら一連の営みを直観的に捉えて、すべての物事は「空」でもあり「色」でもある。故に「色即是空・空即是色」である、と私は解釈します。

 私は、「色」と「空」との関係について、このように解釈することにより、「般若心経」の全てが理解できる、と考えています。

 なお、「般若心経」に限らず、他の仏典の中でも説かれていることですが、「色」について説かれていることは、五蘊(色・受・想・行・識)の全てについても同様であるということです。

但し、仏教の教えにもあるように、何事も真実をことばで表現することはできません。ですから私の解釈は私自身への方便であり、私は他の教説についても自分で納得できる方便を付け加え、直観力を働かせながら、仏教を学び続けていきたいと考えています。

 次回から、私は何回かに分けて「般若心経」の経文を示しながら、全文について私の解釈を投稿したいと思います。